Music: 雨降り
		
		目 鏡 橋
		

青春の城下町




【この絵は、久留米市在住の画家青沼茜雲氏の了解を得て掲示した。氏の公式HPはhttp://www.kumin.ne.jp/seiun/
青沼氏の描くその他の絵も素晴らしいので、頼み込んで「邪馬台国大研究」にも「青沼茜雲の世界」を作らせてもらっている。



	【目鏡橋】・形式:石造アーチ・橋長:17.9m・完成:1810年 
	
	九州の大名たちが参勤交代に使う街道は、長崎方面から春田、山家、飯塚、黒崎を経て小倉へ至る「長崎街道」と、三池、柳川方面
	から、松崎、甘木を経て秋月城下を抜け、香春、呼野と通って小倉へ至る「秋月街道」(豊前街道とも言う)の2つがあった。肥後、
	肥前、豊後、筑後の諸大名達は秋月街道を通って江戸へ向かったのである。秋月街道のうち、秋月の町へ入る野鳥川にかかる橋は、
	もともと本寿院橋と呼ばれる板橋であったが、街道の要所にあたるため人馬の往来も多く、洪水にも弱かったため、ほぼ20年に1
	回の割で掛け替えられていた。
	秋月藩八代藩主長舒(ながのり)は、長崎警護の任に当たった折、長崎で堅固な石橋を見て(眼鏡橋)これを秋月の野鳥川にかける
	ことを強く希望したと言われる。
	家老宮崎織部がプロジェクト・リーダーとなって、長崎の石工を雇い入れ、石材を切り出し、2年近くを費やしてどうにか完成にこ
	ぎつけた。最後の石材をはめ込み、全ての補強板を抜き去っていざ完成と思われたその瞬間、石橋は轟音を上げて崩れ去ったのである。

 


	架橋の失敗は藩でも大問題となったが、宮崎の強硬な主張と長崎石工達の再工事の懇願が通り、再度工事は始められた。一たん長崎
	へ帰った石工達は、長崎の眼鏡橋を再検討し、図面を何度も引き直して再び秋月へやってきた。そして文化7年(1810)10月23日、
	4年の歳月を費やした石橋は見事完成し、藩主長舒臨席のもと渡り初めが行われた。
	以来200年、この石橋は風雪に耐え今も人々の往来に耐えている。当初秋月藩ではこの橋を長崎橋と命名したが、人々はいつしか
	目鏡橋と呼びならわし、今では長崎橋と言っても知らない人の方が多い。私の小学校の校歌には、この橋のことは「オランダ橋」と
	歌われていた。日本国中にはかなりの数の石橋が存在するが、この石橋は、現在我国では唯一の御影石(花崗岩)造りの石橋のため、
	昭和31年(1956)に福岡県の文化財に指定された。



 


	とは言っても、車社会の到来とともに、目鏡橋を横行する車も激増し、眼鏡橋の耐久度が懸念されたので、地元の懇願もあり、現在
	国道は目鏡橋・秋月の町を迂回する形に付け替えられている。筑前の小京都と言われる城下町の入り口にあって、秋月藩の動向を静
	かにみつめてきた石橋は、長年の車馬の往来、野鳥川の激しい流れに耐え、今にその美しい虹の姿をとどめている。春には桜が花を
	咲かせ、秋には美しい紅葉が橋を彩(いろど)る。

 




 

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