Music: 荒城の月
秋月城址

青春の城下町




「雪の杉の馬場」水落氏の「筑前の小京都 −秋月−」HPより転載)



	【杉ノ馬場・稽古館跡・郷土館・美術館】
	
	秋月城跡から秋月街道への道は、杉の馬場と呼ばれ、かっては侍達の馬場であり登城道だった。明治38年に日露戦争戦勝祝賀記念と
	して桜が植えられ、現在では桜の馬場と呼んだほうがふさわしいくらい、季節になると見事に美しい桜並木となる。満開時は7km離
	れた甘木の町から車の渋滞が続くそうである。
	秋月街道を城址へ折れるとすぐ野鳥川にかかる橋である。ここから城址までが杉の馬場である。橋を渡ると左側に、人の背丈ほどの
	石垣が続き、今は畑となっているが、ここがかっての秋月藩藩校「稽古館」跡である。その先に「秋月郷土館」と「秋月郷土美術館」
	が並んでいる。
	「郷土美術館」の入り口左には、「稽古館跡」の碑がたっている。郷土館には、黒田氏時代の武具、武器、什器、古文書、書画、書
	簡、書籍、民具など、黒田家の遺品や、地方有志の出品約400点の文化財が展示されている。「郷土美術館」には、元秋月藩家老土岐
	家の子孫で、横浜で開業医をしていた土岐勝人氏(故人)が所蔵していた美術品の数々が、ここに寄贈され閲覧されている。ドガ、
	ルノアール、奥村土牛など、「えっ、こんな田舎に」と思うような名品が多数展示されていて驚く。「郷土館」「美術館」とは、杉
	ノ馬場を挟んで向かい側に、もう一軒「財団法人秋月美術館」というのがあるが、これは個人が収集した美術品を展示しており、主
	に「高取焼き」を主体にした焼き物が多い。
	杉の馬場の沿道には茶店が建ち並び、秋月名産「葛餅」やその他の特産物を販売して、旅人の「お休み処」になっている。桜の時期
	以外にも、秋の紅葉時にはカメラを抱えた人々で、特に秋月城址や黒門の辺りは埋めつくされる。秋月は、春、夏、秋、冬、いつの
	季節になっても独特の風景を味わうことができる。

 

桜の「杉の馬場」(上)。

 

 

 



	
	【城壁・長屋門・黒門・城趾顕彰碑・垂裕神社】
	秋月郷土館からしばらく歩くと左手に城壁(石積み)が見えてくる。この城壁の上に私が通った秋月中学校がある。私の頃は総生徒
	数600名近くいたが今は200人弱である。秋月城の遺構は、堀と石積みがそのまま残されており、当時を忍ぶことができる。堀
	と石積みを見ながら進み、中学校の正門を行きすぎると、左手石段の上に秋月黒田藩時代の勝手門であった「長屋門」が見える。
	この門の裏手に側室が住んだと言われる屋敷があったそうで、門は福岡県の文化財に指定されている。長屋門を通り過ぎて左手に急
	な石段があり、その上に重厚な構えの「黒門」がある。
	この黒門は秋月城の大手門であったのを現在の場所に移築したものであるが、はるか昔黒田氏入部前の、古処山城の搦手門であった。
	この門も県の文化財に指定されている。黒門の奥には石段があり、これを上ると秋月黒田藩の祖、黒田長興を祀る垂裕神社があり、
	周りには木々が生い茂り、秋には紅葉が絶景である。黒門の左手には大きな広場があり、今は中学校のバレーコートになっているが、
	ここに秋月城の館があり、近くに「秋月城趾顕彰碑」が立っている。

 

主郭掘割 上左の写真、石垣の脇に小道があって遅刻したらここから駆け上っていたが、よく上に先生が待っていた。

 

中学生時代、年に一度くらい、この堀の大掃除をやらされていた。夏には一面ハスが咲き誇り、ハスの実を取っては友人に投げつけたりしていた。

 

瓦坂(大手石橋)

 

 

 
	
	堀が切れたところに中学校への坂道(上左)がある。私は結婚したときWIFEにこの中学校を見せたくて、結婚式場だった福岡の教会
	から実家での披露宴に帰る途中、友人の車でこの中学校に寄って貰った。私の田舎では、披露宴は3回行う。会社・友人関係と親戚
	だけの分と近所の皆さん、である。式の後は親戚関係披露宴がまずあり、通常の披露宴と近所を呼んでの分は次の日だった。つまり
	2日にわたって行ったわけだ。まだ昔の風習が残っているのだ。私の友人達もみな概ね2、3回の披露宴をこなしていた。それはさ
	ておき、中学校へはモーニングとウエディング姿のまま到着したので、めざとく見つけた女子中学生が男子学生を焚きつけて、門柱
	の上に覆い被さっている桜の木をめいっぱい揺すって、桜吹雪を我々にプレゼントしてくれた。


冬の長屋門。(水落さん製作の「筑前の小京都」HPより転載。)

	【長屋門】(県指定有形文化財)
	城の通用門・勝手門であった長屋門は当時のままの姿で残っている。この近辺が秋月で一番城らしさを残している所であり、黒門の
	紅葉と一緒に観光客がたくさん押しかける場所である。この長屋門の前で、かがり火をたき伝統芸能として伝承されている光月流太
	鼓を、中学校の生徒達が披露することもある。秋月は現在、「筑前の小京都」として年間50万人の観光客を集めている。長屋門は、
	秋月城の奥御殿へ至る門であり、昭和62年から解体修復が行なわれた。切妻桟瓦葺・2間半の通りをはさんで南側7間・北側6間、
	嘉永3年(1850)の建築である。現在では秋月城の面影を最もよく伝える遺構である。私が中学校の頃は、ここの管理人を兼ねて澄
	川さんという方が居住されていた。そしてそこの娘は、名前は忘れてしまったが我々の同級だった。

 

 



	【黒 門】甘木市大字野鳥  県指定有形文化財(昭和36年4月18日指定)
	この黒門は、現在秋月黒田藩祖長興を祀る垂裕神社の参道に移築されているが、本来、秋月城(現中学校)の大手門であった。従っ
	て現在中学校前面掘割に残る瓦坂の奥に建っていたものである。また、それ以前は中世秋月氏の拠城古処山城の搦手門であったとも
	伝えられ、古処山の麓(いまのだんごあん入り口附近)にあったと言われる。切妻本瓦葺・間口一間の薬医で、二本の控柱を待つ。
	軒反りはほとんど認められない。すこぶる簡素な構造である。梁上の大蟇股や斗がた・絵様などから、17世紀初期のものとされる。
	移築や再三の修理によって当初の原型を壊しているが、福岡県内では数少ない城門の一つである。

  

 







	【秋月城址】
	筑前秋月城(ちくぜんあきづきじょう) 
	----------------------------------------
	【別  称】 杉本城
	【築城年】 寛永元年(1624)
	【築城者】 黒田長興
	【形  式】 平山城
	【遺  構】 城門・掘割・石垣
	【所在地】 福岡県甘木市秋月町 
	-----------------------------------------

	秋月城跡は今は秋月中学校となっている。城と言っても、石垣や天守閣を持った堅固な城ではなく、どちらかと言えば「館」(やか
	た)とも呼ぶべき陣屋であるが、城主の格式は「大名格」を与えられていた。現在の城跡は、表御殿跡に秋月中学校、奥御殿は梅園
	公園になっている。奥御殿跡に裏手陣屋門であった長屋門が残っている。
	秋月は、建仁3年(1203)の原田(秋月)種雄の入部以来、約400年間秋月氏の本拠として栄え、その本拠もこの地にあったとさ
	れるが、その時代の遺構は見いだせないようである。関ヶ原の戦(1600)後は黒田長政の叔父「図書ノ助直之」が一時居館を構える
	が、その館はこの梅園にあった。
	寛永元年(1624)からは、秋月は秋月黒田藩の城下町となり、この地が初代藩主長興の居館となる。古処山を背に野鳥川を外堀とす
	る陣屋形式の城郭である。この地にあった直之の居館を改修したようだ。また築城の際には、秋月氏の旧城(古処山城)の資材を転
	用したとも伝えられている。建物は明治になって破却され、現在表御殿跡は中学校、奥御殿跡は公園となっているが、大手門(黒門)
	・勝手門(長屋門)の他、前面堀割および石垣・瓦坂・櫓台などが残る。城の規模・内容を知る資料として、明和文政年間の城下図
	・幕末維新当時の館図が保存されており、昭和55年から断続的に発掘調査が行われたので、現在ではある程度のその旧状を復元す
	  ることも可能になっている。

 

素晴らしい紅葉の景色。中学生時代はこの美しさに気づきもしなかった。


	
	「秋月城の跡」碑からみた中学校とグラウンド。その手前が梅園といい、往時はここにも館が建ち並んでいたのである。私の中学生
	時代はここにバレーボールのコートが2面あった。私が3年間思い続けた人はバレー部だったので、ここで飛び跳ねる姿を遠くの校
	舎の窓から見ていたものだ。一緒に帰ろうと思って部活が終わるのを待ってみたりしたが、とうとう声は掛けれなかった。

 

	【武家屋敷と町並み】

	秋月黒田藩時代、杉の大木が密生し、藩士たちがここで馬揃えや調馬をしていたことからその名がある「杉の馬場」。その南側一帯
	がいわゆる武家屋敷だった。しかし版籍奉還、廃藩置県、秋月の乱と続いた明治の激動の中、侍達はあらたな生活の場を求めて東京
	大阪、福岡といった都会へ転出し、武家屋敷は殆どが田畑と化した。それでも秋月に留まった者達もいて、先祖からの屋敷・田畑を
	今でも守り続けている。秋月の町中にもいくつかそれらの屋敷が残っているが、その多くは風雪に晒され次第に風化しつつある。



 

 





 




	お知らせ と お願い!

	平成28年7月現在、この秋月城趾の中学校は秋月小学校と併合され、小中一貫校として新たなSTARTをきる計画が
	行政で進んでいます。ところが、中学校が今の秋月小学校地へ移転した後、この秋月城趾には介護施設が建つよ
	うなのです。まだ計画段階ですが、この由緒ある、情緒に充ちた旧跡を養老院にしていいものでしょうか。
	勿論、住民や行政にも様々な意見や思惑があると思いますし、利害もあるでしょう。しかしながら、黒田藩300
	年、秋月藩350年におよぶこの城趾を、教育機関である学校ならまだしも、介護施設にしてしまう意味はどこに
	あるのでしょうか。
	私は、断固その計画の白紙撤回を求めます。百歩譲って、中学校が移転せざるを得ないとしても、この城趾は
	「城趾公園」にするなり、何らかの文化的な施設として再利用して欲しいと願うものです。
	主旨にご賛同頂ける方は、どうか朝倉市に対して抗議の意思表示をお願いします。具体的には、計画反対のmail
	を朝倉市に対して出して欲しいと思います。HPで「朝倉市」を検索して、市長なり、しかるべき部署へ「秋月
	城趾」存続の要望を出してください。お願いします。
                                   平成28年7月20日  井上筑前


邪馬台国大研究ホームページ / 青春の城下町 / 秋月城址