Music: 夏は来ぬ
		
		秋月の寺社
		

青春の城下町




	秋月は神社・寺が多い町である。全部でどのくらいあるものか数えたことはないが、この狭い町域のなかに幾つもの寺社がひしめい
	ている。城下町だったので藩主が建てたものも勿論あるが、往時は秋月とその周辺が、それだけの数の寺社をまかなっていける程の
	人口を抱えていたと言うことなのだろう。

垂 裕 神 社


	秋月城址の端にある黒門。その黒門をくぐって石段を昇っていった所に、初代秋月黒田藩主長興を祀った垂裕(すいよう)神社が
	ある。10代藩主長元は、文政13年(1830)に望まれて土佐の山内家から9代藩主の養嗣子となった人で、幼児より英才の持ち
	主だったという。秋月藩主となった長元は、藩内の改革をまず第一に掲げ綱紀の粛正と士気の高揚に努めた。そして藩祖の偉業を
	讃えるため、当時の秋月藩お抱え絵師だった斉藤秋圃に命じて、島原陣図屏風絵一双の制作に当たらせた。まもなく出陣から200
	年目の記念日が来ることを知っていたのである。
	7年後、戦勝祝賀の大儀式を執り行い、戦没者の追悼集会なども行った。そして藩祖の200回忌を迎えて、どうしても藩祖長興
	を長く祭神として奉りたいと思うようになった。そこで八幡宮の宮司宮永周防守保親に命じ、京都吉田家から神霊神号の授与を受
	けた。当時この神号を受けるには数百両の上納金が必要だったが、宮永宮司の京都における巧妙な働きで、わずか27両2分です
	んだ。200回忌の法要は盛大に行われ、家名再興や、罪人・謹慎の解き放ちなどの特赦も行われたと言う。なおこの神社は、全
	て秋月藩士達とその家族が手弁当で造営に従事したので、下の石坂は長らく士族坂と呼ばれていた。

 

垂裕神社への石段。北海道の帯広から年末大阪へ帰省して、そのまま秋月へ里帰りしてきた娘の舞(上左)。

 


	この石段から見た秋の黒門(秋月氏時代の古処山城から移築した表御門)は、紅葉に映えて見事な景色なので季節にはカメラマン
	でごった返しているが、中学3年の秋、入学以来3年間想っていた初恋の人から、私はこの石段の下で私が好きだという告白を聞
	いた。各学年の運動会応援リーダーが集まって、応援演舞を練習している時だった。誰かが「オ−っ、XXさん、修ちゃんが好きや
	てー」と大声で叫んだのだ。その子は顔を真っ赤にしてどこかへ行ってしまうし、周りは一斉に僕をはやし立てた。どうしていい
	かは判らなかったが、天にも昇る心地だった。その時代からもう40年が過ぎようとしている。その人には既に孫もいる。まさし
	く、矢のように過ぎ去った光陰だ。

 

藩祖「長興」を祀った垂裕神社。中学時代からひっそりしていて、たまにここでこっそり会っているカップルがいた(らしい)。

 

 



穐 月 八 幡 宮


	穐月(あきづき)八幡宮。1000年以上前、平安時代に建立されたと言い伝えられる。長い歴史を持つせいで、秋月を中心とし
	た近在に今でも750世帯の氏子を持つ。我が家もここの氏子である。古くは神功皇后が羽白熊鷲を討つとき、ここに兵士達が集
	まったと言われ、境内は「宮の丘」とか「宮薗の森」とか呼ばれていた。小さい頃はここで秋祭りや奉納相撲などが行われていて、
	よく遊びに来たものである。10円で大型幻灯機が当たるスルメ籤や射的などの夜店が出ていて、ここでの祭りは子供時代の大き
	な楽しみの一つだった。

 

黒門から深い森の木立の中を10分ほど歩くと着く。反対側に長い石坂があり、こっちが正式な昇段である。降りたところに大きな石鳥居がある。

 

	上右は絵馬堂である。昔この前の広場に土俵があって、ここで大相撲の巡業なども行われていた。私が生まれた頃までは、何年か
	に一回大相撲が巡業して来ていたのである。行われなくなった祭りと言い、大昔から何百年も続いて来た風習や慣習が日本中から
	無くなってしまったのは、ほんのここ50年くらい前である。

 

	この神社は、黒田氏の前の秋月氏の祖である「大蔵春美」が、藤原純友の乱に際して戦勝祈願を行い大いに武運を授かったので秋
	月氏の氏神でもあったし、秋月氏17代種長が、秀吉の九州侵攻に際して秀吉と島津のどちらに与した方がいいかを占った所でも
	ある。その時のお告げでは「秀吉」とはっきり出たにもかかわらず、家臣達の意見に押され、秋月はついに秀吉の軍門に下ってし
	まった。

 

また古くは、神功皇后が羽白熊鷲を討つ時、ここに武器を集めたとも言われ、「宮の丘」とか「宮の薗」とか言う名もある。





日 照 院

	【日 照 院】
	秋月の杉の馬場から虚空坂を上り詰めると、秋月黒田氏の祈祷寺日照院がある。藩主長興が寛永元年(1624)に建立させた。
	ここには本尊不動明王、虚空蔵菩薩が安置されている。いまでも毎年、1月の13日〜15日の3日間虚空蔵菩薩の祭礼が行わ
	れている。

 





浄 覚 寺

	【浄 覚 寺】(無量寿山浄覚寺:浄土真宗)
	我が家はこの寺の檀家である。現在の住職は渡辺さんと言って子供の頃からよく知っている。お母さんが、私の通っていた幼稚園
	の園長先生で、腕白坊主に手を焼いていた先生は、私の弟が続けて入園してくるというのを聞いて「えっ、修ちゃんの弟!」と絶
	句したそうである。幸い、弟たちは私のような悪ガキではなかったようで、園長先生もホッとした事だろう。

 

	
	天保5年(1834)に平田胤富が著した「望春随筆」によれば、浄覚寺について以下のように書かれている。「渡辺長左右衛門繁成
	という人は、元嘉摩郡大力村(現嘉穂郡嘉穂町)に住んでいた浪人である。(黒田)長興公が秋月に入部した際新たに召し抱えら
	れ、経済のことに詳しかったので、藩の重役をこなしていた。財務に明るいからと言って、少しもズルをせず(吝(やぶさか)な
	らず)、広く貧民を救い、新たに寺院を数カ所造営した。隠居して休安といった。昔この辺りに依教寺という阿弥陀堂があったが、
	宗派もはっきりせず住職も居なかったので、休安は京都の本願寺に願い出て末寺とした。それで、休安を開祖とし、椎木村の浄円
	寺から二男を迎えて二世とした。瑞峯山依教寺と称す。」となっている。
	さらに「望春随筆」には、

	「いつの頃か年月ははっきりしないが、長重公から歌を一首拝領し、一向門徒が依教寺に集まって披露された。− 諸々の雑行
	雑思振りすてて 浄く覚なむ夢の世の中 − この歌の「浄く覚なむ」から名を貰って寺の名にした。それ故この寺の号は拝領
	と言うのである。また、鐘の銘文は

		− 瑞峯山 浄覚寺 六世沢山
			元文五年庚申霜月
				長谷山邑 六代之庄屋
					施主 井上善蔵 −  」

	となっている。ここに鐘を寄進した長谷山邑庄屋井上善蔵というのは、私の先祖かどうかははっきりしないが、おそらく一族の誰
	かなのだろう。
	長谷山の井上は、もともとはわずかの井上から広まったと考えられ、実家の近所は元をただせば皆親戚と思われるし、この頃元文
	五年(1740)に鐘を寄進したとすれば、その前から長谷山に浄覚寺の檀家が多かった事を示している。今でも長谷山には浄覚寺の
	檀家が多い。ここに過去帳が残っていれば我が井上家の系図もある程度たどれるのだろうが、残念な事に浄覚寺は過去幾度かの大
	火に見舞われ、本堂もろとも過去の記録は全て失われた。現在の本堂もほんの2,3年前完成したもので、総工費数億円かかり、
	実家の父も数百万円寄進していた。私も父から勧誘されたが、まだそこまでの信仰心はない。(金がない、と言った方が正解かな。)



古 心 寺

	【古 心 寺】
	秋月黒田藩の初代藩主黒田長興が父長政の威徳を偲んで造った寺である。長政は福岡52万石を長子の忠之ではなく三男の長興に
	嗣がせようと考えるが、家老栗山大膳に強く反対されこれを断念する。代わりに秋月を長興に渡すよう遺言して京都で没した。
	長政が死んだとき長興は14歳だったが、長政から受けた帝王学を通じて長政の期待を一身で感じ取っていた。そしてその恩と期
	待に報いるべく、菩提寺を建立するのである。私淑していた京都大徳寺の江月和尚から「古心寺」という名を貰い、江月和尚の死
	後、秋月に古心寺が造営された。

 

 



 

	
	寺の門を入ると左側に、黒田家墓所がある。その門をくぐったほぼ真正面に初代長興の墓があり、右側に長政、左側に長興夫人の
	墓がある。方形と円形の、秋月石と呼ばれる花崗岩を組み合わせた見事な墓石で、黒田藩十二代までの藩主、側室、子女達の墓が
	並ぶ。

 

上右、下左が黒田長政の墓。下右は、中興の祖、八代藩主長舒の墓。

 



大 涼 寺

	【大 涼 寺】
	秋月黒田藩藩祖長興の生母、大涼院殿の菩提寺である。大涼院殿は徳川家康の養女永子で、寛永12年(1635)正月、当時秋月に
	蔓延していた疱瘡を患って51才で逝去した。信仰心厚かった長興は、母の三回忌にあたり法要を営み、母の位牌をこの寺に安置
	した。この寺はもともと高照院浄仙寺と言って、天正3年(1575)の秋月氏時代、秋月氏の家臣であった牧四郎左衛門という者が
	別な場所で開山し、長興が入部したのち寛永9年(1632)年に今の場所へ移されたと言われている。母の位牌を安置して、本堂背
	後の小高い丘に石碑を建てて、「秋月山浄仙院大涼寺」と改めて、寺領三十石を寄進した。

 

大涼院殿は、家康の養女を長政が娶ったもので、この寺の外陣には「葵の御紋」が刻まれている。

 

大涼寺の入り口の門(上左)は、もともと秋月の乱で、藩士達が本陣とした「西福寺」の門を、明治以降ここに移築したものである。

 
長興の生母大涼院殿の墓



長 生 寺

	【長 生 寺】(医王山長生寺・曹洞宗)
	秋月氏時代の末期、博多・長崎・秋月で豪商としてならした興膳善入が寄進した寺と伝えられる。墓前の説明によれば、興膳善入
	は明の王子で、貿易商の末次興善の養子となっておおいに財をなしたと言う。一説によれば善入は、秀吉の九州征伐の折、博多で
	秀吉軍の配膳係を仰せつかり、これを手際よくこなしたところから「興膳」の名を賜ったとも言う。
	その祖は中国からの帰化人と言い、いつ頃から秋月に居住していたかは定かでないが、善入は手広く貿易を行い財をなし、ある時
	長崎での商売を養父の実子である末次平蔵に譲り、自分は父の住む秋月へ戻ってきた。
	かっては秋月に広大な屋敷を構え、熱心な切支丹だったと言われる。現在秋月郷土館の庭に展示されている切支丹燈籠は、この興
	膳家の庭から出土したものだが、かっての興膳家の家屋敷は現存していない。しかし興膳の家は今無人で秋月に残っている事は前
	述した。

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この寺の境内には、他に種痘法の先駆者「緒方春朔」や秋月の乱での「宮崎三兄弟」の墓もある。

 



興膳善入の墓



 

ここに生きながら入棺したという。南無阿弥陀仏。

 







西 念 寺

 

 

 

 

	
	高浜虚子の句(上左)「春山の 最も高き所 古処」。虚子が秋月を訪れたのは昭和21年11月だった。高浜虚子の父は、元
	松山藩士で、若き日、武者修行でこの秋月を訪れている。厳父だった父の行脚の跡をたどった虚子は、秋月城址に来て「涙が止
	まらなかった」と書き残している。

	「濃紅葉(こもみじ)に 涙せきくる いかにせん」の句碑が秋月城址にある。


本 證 寺

 

	【本 證 寺】(福王山本證寺・日蓮宗)
	寛永元年(1624)博多の妙典寺の住職三光院日焉(にちいん)によって開山された寺。日焉は博多で初代藩主長興と親交があり、
	長興の秋月転封に伴って秋月へ来た。長興からこの地を授かり、ここに本證寺を開いた。島原出陣の折りには、ここで武運長久
	の祈祷をした。

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