Music: 仲良し小道
秋月の偉人

青春の城下町



予防医学・種痘法の先哲
緒方春朔




	イギリスの医師エドワード・ジェンナーが、1796年5月14日に、牛痘苗を用いて種痘治験に成功し、天然痘から人類を救済した、と
	いうのが、種痘法についての近代医学史上の常識であるが、実はジェンナーよりも6年前の寛政2年(1790)に、秋月藩の医師「緒
	方春朔」が世界で初めて、鼻乾苗法による人痘種痘を施していたのである。

	緒方春朔は、寛延元年(1748)久留米藩士瓦林清右衛門の二男として久留米に生まれ、久留米藩医緒方元斉の養子となる。医業を継ぐ
	ため長崎に遊学し蘭医学を学んだが、やがて久留米を去って祖父の出身地である秋月に転居した。上秋月村の大庄屋天野甚左衛門の
	離れに寄萬し、この時春朔の人となりに触れた甚左衛門は、のちに誰もが嫌がって実験台がなかった春朔に、自分の子供二人に種痘
	を施すよう勧めて春朔を助ける。
	寛政元年(1789)8代藩主長舒に召し抱えられ藩医となった春朔は、この年秋月藩を襲った天然痘の大流行に見舞われる。長崎留学中
	から痘瘡に関心があった春朔は、それまで各種資料を研究していたが、人痘種痘法の早苗法または鼻乾苗法といわれる方法で種痘治
	験に成功したのである。寛政5年(1793) に人痘種痘の方法を書いた書「種痘必須弁」では、この方法は「百発百中」で誤り無いと
	言っている。その後も6年の間に幼児700人に種痘を施し、「一人も顔にあばたが出なかった」症例を1796年に著した「種痘緊轄」
	「種痘証治録」で報告し、門人への種痘法の伝授に務めた。緒方春朔・ジェンナーとが行った偉業は、1980年のWHO総会における
	「世界天然痘根絶宣言」に至るまでの、近代予防医学の誕生であった。

 


	ここまでの緒方春朔の偉業は、いわば医学者・新法発見者としての業績であって、それはそれなりに素晴らしい業績ではあるが、我
	々秋月の人間が緒方春朔の偉業をほんとに誇っていいのは、実はこれからである。

	緒方春朔の種痘法開発は、天然痘の流行に早死にしていく子供達を救おうした事に始まるが、彼は漢方医としての経験を元に、まだ
	病んで無い時に治すのが医者としての本分であるとして、予防医学に傾注すべきと考えた。また、一回天然痘にかかれば再発しない
	という病理に目をつけて免疫法を発見した。そして、その種痘法を「我が家の秘法」とせず、真っ当な医者に伝授して、広く人々を
	救うことに当たらせた。藩主の参勤交代に随伴した途中でも、評判を聞いて教えを請う入門者があれぱ惜しみなく種痘法を伝授した
	ので、極めて短期間に江戸までの地域で種痘は流布していった。春朔の著した「種痘傅方之誓約」では、種痘は慎重に行う事、私心
	や財を図ることを厳禁する事、富家や高貴には施すが、貧賤の者は遠ざけるようなことも禁じる事、などがうたわれていて、その志
	の高さに頭が下がるのである。
	ある病の治癒法を発見すれば巨額の財産を蓄えられた時代にあって、この春朔の教えは我々を感動させる。今、もしガンの克服法を
	発見した医者がどこかにいたとして、その特許なりを放棄するような挙に出れるだろうか?

	緒方春朔は、その後も種痘の研究・人痘種痘法の全国への普及に尽力した後、文化7年(1810年)1月21日、63歳で没した。


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	◆緒方春朔顕彰碑◆
	秋月城址の「黒門」をくぐり、垂裕神社への石段を三分の一くらい登った左手奥に、背の低い木立の中にひっそりと、苔むした「緒
	方春朔顕彰碑」が立っている。朝倉郡医師会(現甘木朝倉医師会)が、昭和2年(1927年)に春朔の偉業を称えて建立したが、平成2
	年の種痘成功200年記念事業の一環として補修整備を行い、新たに案内説明板が設置された。それには「ジェンナーの牛痘種痘法
	より6年前に人痘種痘法を成功させた」とある。

    

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	◆緒方春朔屋敷跡◆
	秋月城址から南西側一帯の、かって武家屋敷が建ち並んでいた一角に緒方春朔屋敷跡がある。「杉の馬場」から南西へ伸びる脇道を
	入っていくと、いかにも城下町らしい旧家に混じって今風民家が並び、その内の一軒が緒方春朔屋敷跡である。「春朔の屋敷跡」と
	いう看板があるが、現在は普通の民家である。隣の反対側には、儒学者「原古処」の塾「古処山堂」がある。
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	◆緒方春朔の墓◆
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	眼鏡橋からまっすぐ伸び、秋月の町中を貫く国道322号線を古処山方向へ向かって行く。旧秋月小学校の南側道路を、杉の馬場と
	は反対側へ入って行くと、右手に長い参道が見える。高い石段の途中左側に「秋月の乱」の首謀者宮崎三兄弟の墓がある。
	石段を昇りきったところが、「長生寺(ちょうしょうじ)」である。長生寺は慶長5年(1600年)長崎の豪商、末次興膳善入が85
	歳の時その長命を記念して建てたもので、山門は当時のままである。春朔の墓は本堂脇の一角にあり、山門から入って右奥の「緒方
	家代々の墓」に埋葬されている。

 









儒学者・詩人 原古處




	◆原 古 處(はら・こしょ) 明和4年(1767)〜文政10年(1827)◆
	明和4年(1767)、手塚甚兵衛辰詮の次男として秋月に生まれ、秋月藩儒官の原坦斎(はら・たんさい)の養子となる。8代目藩主
	黒田長舒(ながのぶ)の引きを得て、秋月文化の中心人物として藩学振興のために尽くした。儒学者であり詩人でもある。秋月城背
	後に聳える古處山より号をとって「古處」と称した。
	18歳で藩命をもって福岡へ赴き、亀井南冥を祭酒(館長)とする甘棠館に入学。詩作に優れ、亀井門下の四天王の一人といわれ
	たが、養父の坦斎が病に倒れたため、3年足らずで秋月に戻り、父の跡を継ぎ藩校稽古館の訓導となった。8代目藩主黒田長舒(なが
	のぶ)、9代目藩主黒田長韶(ながつぐ)の2代に厚遇され、34歳にして稽古館の祭酒(館長)となり、39歳の時、私塾「古處山
	堂」を与えられ、14石の無足組の一介の平士から42歳で百石の御馬廻組の役人格となった。さらに、御納戸頭に昇進し、藩公
	の江戸参勤にも従った。文化8年(1811)、退隠を願い出て、その後は、甘木に私塾「天城詩社」を創設し詩人の生活に入る。
	自由と余暇を得た古處は恩師亀井南冥が愛用した「東西南北人」の印を携え、妻雪、娘采蘋(さいひん)と伴に諸国を遊歴し、各地の
	文人と会し多くの詩作をし、その詩名は海西随一とうたわれ、文政10年(1827)61歳で没す。
	西念寺に葬られ、墓石の文字は詩友頼山陽の筆と伝えられる。





私塾「古處山堂」の跡。緒方春朔の屋敷跡の真向かいにある。

 

秋月郷土館にある、原古処関係資料と「東西南北人」の印。

 

◆原古処の墓◆ 西念寺にある、儒学者で詩人でもあった「原古処」の詩句(上左)と墓(上右)

 

原古処の娘で、全国を歩いた「原采蘋」の詩句(上左)と墓(下左)。
下右は「吉田平陽」の墓。墓名はかすれてかろうじて読める。同じく西念寺にある

 

	原采蘋(はらさいひん)は、秋月黒田藩の儒学者であった「原古処」と妻・雪との間に生まれた女流の学者で、寛政10(1798)
	年に秋月で生まれた。父古処が、家老「宮部織部」の失脚に伴って離職した後、30歳を過ぎてなお独身の身で江戸に出て、講
	学の日々を送った。50歳を過ぎ、江戸に呼ぶことの叶わなかった老母のために帰郷、嘉永3年(1850)頃、母を伴って山家
	(やまえ)に移り住むことになった。







貝原益軒の妻・東軒の生家








御抱え絵師 斎藤秋圃

	◆斎藤秋圃(さいとう・しゅうほ)  明和5年(1768)〜安政6年(1859)◆
	明和5年(1768)京都に生まれる。若年時円山応挙の門に学び、師の没後は葵衛(あおいまもり)と名のって画事修業に出、宮島・
	博多・有田・長崎と西国路を辿って唐絵を勉強し、享和3年(1803)、長崎滞留中に黒田長舒の目にとまったと言われる。しかし
	最近の研究では、御抱え絵師となる以前は、大坂の新町遊廓で亦助と称した絵の上手な幇間(たいこもち)だったという。
	滝沢馬琴にも激賞されたほど絵心の持ち主だったようだ。
	御抱え絵師となってから秋圃と号した。文化2年(1805)、8代目秋月藩主黒田長舒(くろだ・ながのぶ)に召集されて御抱え絵師
	となり、その後天保9年(1838)に藩籍を離れて太宰府住の町絵師となる。安政6年(1859)92歳で没する迄、筑前町絵師の中心
	的な存在であった。特に秋月時代は狩野派風御用絵の他に、鹿の絵の名手としてその画績は今に多く残る。 




	<秋月の歴史・概略>

	1652 貝原東軒(貝原益軒の妻)秋月に生まれる。
	1683 野鳥川筋堤防が決壊し大洪水となる。 
	1704 はじめて藩札が発行される。 
	1784 藩学を拡張して稽古館と改称する。 
	1787 原古処 稽古館の訓導となる。 
	1789 緒方春朔が種痘の医術を創案する。(ゼンナーより6年前) 
	1792 露使ラックスマンが根室に来る。 
	1793 芭蕉の花塚が建てられる。鳴渡観音の境内の入り口 
	1796 黄金川に自生する川苔で寿泉苔(紫金苔)の製造を始める。 
	1797 この頃から秋月和紙の製造が奨励される。 
	1797 原古処が産業の振興に力を入れた。
	1798 本居宣長が古事記伝を完成する。 
	1802 陶山を野鳥村に開く。十年にして窯場を閉鎖する。 
	1806 一回目の眼鏡橋完成寸前で崩壊する。 
	1808 斉藤秋圃が秋月藩のお抱え絵師となる。
	1810 二回目の眼鏡橋が落成する。正月21日、緒方春朔、病のため63年の生涯を閉じる。 
	1819 廣久葛の製造が始まる。 
	1832 天保の飢饉 
	1832 土井正就等による秋月領内地図が完成する。 
	1834 水野忠邦が老中となる。 
	1841 天保の改革が始まる。 
	1853 米使ペリーが浦賀に来る。 
	1854 日米和親条約が結ばれる。 
	1867 将軍徳川慶喜が大政を奉還し、王政復古の大号令が下る。 
	1869 諸藩主の版籍奉還が聴許され黒田長徳は秋月藩知事に任ぜられる。 
	1871 府県の廃合が行われて秋月県が福岡県に合併される。 
	1871 秋月郵便局が中町の田村屋に置かれる。 
	1873 征韓論に破れ西郷隆盛らが辞職する。 
	1876 秋月の乱が起きる。 
	1877 西南の役が起きる。 

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