Music: 七つの子
幕末 臼井六郎 日本最後の仇討ち

青春の城下町





	
	【日本最後の仇討ち】明治13年(1880)12月17日
	私がまだ子供の頃、一体幾つぐらいの頃だっただろうか。中学生か高校生になった頃ではないかと思う。NHKで、45分か1
	時間の歴史ドラマをやっていた。史実に基づいて、ドラマ仕立てで日本の歴史的な事件を取り扱った番組だった。今にして思え
	ばあんなドラマを見ていたのだから、その頃から歴史が好きだったのではないかとも思うが、ある夜、その番組が取り上げた事
	件がこの「日本最後の仇討ち」だった。我が故郷で、こんな事件が起きていたのかという驚きと、ドラマもおもしろく作ってあ
	って、それに「日本最後」というのが強く印象に残ったのでよく覚えていたのだが、今回初めてその事件の主人公「臼井六郎」
	の墓を訪れた。黒田家歴代の菩提寺である古心寺の片隅に、六郎は両親と並んで眠っていた。

 

 
	簡堂というのが臼井亘理の号である。清子はその妻。
	上右の句碑は、臼井亘理の盟友だった京都の公家、東久世通禧(みちとみ)が、亘理の受難に際しその死を悼んで詠んだもの。
	東久世通禧(1833−1912)は、幕末、三条実美(さんじょうさねとみ)らとともに尊皇攘夷を唱えて都落ちした公家で、簡堂を号
	した臼井亘理とは京都で親交があった。

	かぐわしき その名(な)を千代(ちよ)に のこしけ里(り)
	身(み)は阿(あ)だなみに 志住(しず)みはつと母(も)     東久世 つうき    
  

	
	<臼井亘理(うすいわたる)> −六郎の父−
	
	臼井亘理は、父隠居の後を受け30歳で家督を相続した。文武に優れ、特に陽明学を修めて江戸に遊学し尊皇攘夷の思想を身に
	つけた。家督をついでからは鉄砲組を束ねる「物頭」を努め、短期間で技術の向上、鍛錬に成果を上げ、ついで「馬廻頭」に昇
	進し、ここでもその技量を発揮し、大いに志気の高揚につとめたので、文久2年(1862)、35歳で「用役」に抜擢され藩政に
	参画する事になった。
	この頃秋月藩は、11代藩主長義が病死し、異母弟の岩虎が12代藩主の座に着いたばかりで、尊皇攘夷派の家臣「海賀宮門」
	(かいがみやと)が脱藩して京へ向かい、伏見の「寺田屋の変」に巻き込まれて薩摩藩士に惨殺され、海賀の脱藩を助けた「戸
	原卯橋」(とばらうきつ)は監禁されるという、大いに時代の波に洗われていた時だった。迫り来る時代の変革を前に、藩の重
	役達は大いに悩まされていたものと推察できる。
	中央では公武合体論が唱えられ、秋月藩でも臼井亘理をはじめとして重臣達は、この公武合体を支持していたものと思われるが、
	しかし、世の趨勢は、公武合体よりも薩摩長州に与(くみ)して勤皇皇国に走った方が時代の流れだとする意見も当然あったし、
	秋月でもその流れはあったのである。臼井亘理の遭難事件はこういう流れの中での対立から発生したという意見もあるが、残さ
	れた資料から判断すると、藩内の権力争いの結果と推測できる部分もある。

	明治元年、臼井亘理が藩命で京にいた時、王政復古・大政奉還の詔が出る。京で幕府崩壊の近いことを感じた亘理は、藩のため
	には朝廷側についた方が得策と考えるようになり、それに沿って行動していた。これを変節と見た一派は、藩主へ臼井亘理の行
	状を悪し様に報告し、藩主もそれを信じる。亘理にはわけが分からないまま藩邸への出入りを禁じられ、やがて藩主の命で秋月
	への帰郷を言い渡される。5月の始めに京を出て秋月へ戻って来た亘理は、帰郷を聞いて駆けつけた親戚・縁者・同士たちとそ
	の晩しこたま酒を飲んで眠りこけ、5月24日未明、野鳥の自宅で反対派急先鋒の千城(かんじょう)隊士数名に襲われ、妻と
	共に暗殺された。
	【干城隊】
	菊池武彦を首領として結成された140人ほどの、秋月藩半公半私の士族隊。明治元年から4年頃まで。維新後、長州の「奇兵
	隊」をまねて結成されたが、廃藩置県で解散、のち、秋月の乱を引き起こす「秋月党」の母体となる。 

	
	<六郎、仇討ちを決意>
	この暗殺の惨状はひどかったらしい。郷土史家達が書いている状況記録から拾い出すと、臼井亘理は酔いもあってか、さほど抵
	抗もできず数太刀で絶命しているが、気丈な妻は刀を手にして刃向かったらしく滅多切りにされている。頭は割られ、腕はわず
	か皮一枚で胴体と繋がっていたと言う。父母と一緒に寝ていた六郎の幼い妹も、血の海の中で事切れていた。

	別室にいて難をのがれた亘理の長男六郎はこの時10才であった。臼井家ではただちに藩へ届け出て犯人逮捕と真相究明を訴え
	るが、藩の対応は臼井家にとって釈然としないものであった。当時、新政府への不平分子が多かった秋月藩では犯人追求はウヤ
	ムヤにされ、京都での臼井亘理の行動を快く思っていなかった藩家老の怒りもあって、亘理が「主君の思し召しに背いた」とい
	う理由をもとにこの暗殺事件は「沙汰止み」となった。当然臼井家では、犯人はもとより藩の処置に対しても憤怒収まらなかっ
	たが、主君の意と言われればどうしようもなかった。

	しかしこの時10歳であった臼井六郎にとって、この夜の惨劇は終生忘れられない光景となった。賊が去って見せられた、両親
	と妹の無惨な屍は終生六郎の頭から離れなかった。長じるに従って「敵討ち」を訴える六郎を、伯父や一族はなだめたが、六郎
	は密かにその機会をうかがっていた。そして19歳になった明治9年のある日、ひょんな事から、あの夜の一団が干城隊で、父
	母惨殺に直接手を下したのは隊士の「一瀬直久」(いちのせなおひさ:改名。元山本某)であった事を知るのである。

	
	<仇討ち決行!>
	今や一瀬は、新政府で裁判所判事となっており、静岡に居ると聞いて六郎は静岡へ行くが、既に一瀬は東京へ転勤になっていた。
	そこで上京した六郎は、一瀬の行方を探りながら北辰一刀流の山岡鉄舟の元で剣の腕を磨き、機会を窺っていた。そしてたまた
	ま、旧藩主黒田長沖邸で毎月1回、旧秋月藩士を集めて碁会が開かれ、時々一瀬もそこに来ていることを聞き込んだ。明治13
	年12月17日、六郎は黒田邸を物陰から見張り、一瀬が館へ入るのを見るとすかさず後を追い、階段を上りかけた一瀬に向か
	って「親の敵、覚悟せい。」と叫んだ。一瀬は最初ぎょっとした顔をしたが、すぐ翻(ひるがえ)し階段を駆け上ろうとした。
	そこで六郎は後を追い、13年来の仇一瀬に向かって短刀を突き立てた。引き抜いてはもう一度刺した。それから頸動脈を切断
	して一瀬が絶命したことを知ると、六郎はゆっくりと館をでた。




	騒ぎを聞きつけ二階の窓から、たまたま六郎を知っていた者が「六郎、何をしたのだ!」と問いつめたが、六郎は、「邸内を騒
	がせ誠に申し訳ない。多年の恨みを御邸で引き起こした事について深くお詫び申し上げる。」と深々と一礼し、門前の人力車に
	乗って警察に出頭した。
	この知らせを郷里の秋月で聞いた六郎の祖父遊翁は、垣根を飛び越えて隣家に駆け込み、「六郎がやった! 六郎がやった!」
	と叫び、「今日は我が生涯最高の日じゃ、生きてて良かった。」と泣いた。


	親の仇討は、旧幕府時代であれば美談としてもてはやされ無罪放免だったのだろうが、明治6年既に「仇討ち禁止令」が発布さ
	れていた。当然六郎も罪人となり、裁判の結果、死罪は免れたが終身禁固刑に処せられた。模範囚だった事もあり、帝国憲法発
	布の祝典により、罪一等を減ぜられ、明治24年獄中生活約10年で釈放された。

	臼井六郎の復讐は、世間を驚かした。禁止令が出ているとはいえ、まだ江戸時代の因習は色濃く残っていた頃である。世間はこ
	の事件をおおむね「美談」として取り扱ったようである。山岡鉄舟も我が弟子の快挙を讃え獄中に何度も差し入れし、義挙と讃
	えた書き付けも残っている。また、六郎の釈放祝賀会には自由民権運動の大井健太郎も出席し、「仇討ちは法的に禁止されてい
	るが、武士道の真髄であり悲願を達成し、釈放されたことはめでたい。」と祝辞を述べている。その後六郎は、佐賀県の鳥栖で
	仕出し屋を営んだりしていたが、大正6年11月病死した。墓はふるさと秋月の両親の側に作られた。


	この話は、冒頭記したように、これまでに何度か小説やドラマに取り上げられている。その後大きな仇討ちは発生しなかった事
	もあって、「日本最後の仇討ち」として知る人ぞ知る事件なのである。最近でも、作家の吉村昭がこれを題材にして刊行してい
	る。(「敵かたき)討ち」 新潮社 2001年2月発行)



日本最後の仇討ちの「臼井六郎の手紙」。妻の両親へのお詫びと、家族を頼みますと書かれている。








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