Music: 夏は来ぬ
幕末 不平士族の叛乱

青春の城下町


				秋月の乱

 
	【不平士族の反乱】
	
	明治元年(1868)1月3日、京都の「鳥羽・伏見の戦い」に始まった「戊辰戦争」は、明治2年の函館五稜郭の戦いで終結し、
	これをもって徳川幕府は完全に消滅した。以後、薩長土肥の有力者から成る明治政府が、「新政府」として稼働する事になる。
	江戸幕府を滅ぼした明治新政府は、近代化に向けて新しい政策を矢継ぎ早に打ち出した。並み居る列強諸国に一日も早く追い
	つくためとは言え、その施策実行のスケジュ−ルは殺人的でさえある。
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	明治元年(1868)	・鳥羽・伏見の戦いおこる。五箇条の御誓文が出される。
	明治2年(1869)	・小学校設置令公布さる。 
				・戊辰戦争終結(五稜郭:5月)秋月は戊辰戦争では新政府軍に出兵。
				・版籍奉還実施さる。江戸時代の旧藩主が藩知事となる。(6月)
				・東京府、京都府、大坂府が成立。以外の藩・府はすべて県で統一された。
				(7月。後、蝦夷地は北海道と改称)
				・徳川慶喜謹慎を解かれ、水戸から静岡へ移封さる。
	明治3年(1879)	・長州の奇兵隊、その他諸隊の脱兵による反乱発生。(1月) 
				・国旗「日の丸」制定さる。(1月)。新円貨定まる(3月。翌年銅貨・銀貨・金貨を鋳造) 
	明治4年(1871)	・廃藩置県実施さる(7月)。7月14日、秋月県発足。
				・「士農工商」廃止・斬髪・廃刀の実施。「四民平等」となる。(7月)
				・戸籍法公布さる。(7月) 
				・日清修好条規締結(7月)
				・藩兵を解散、鎮台を置く。(8月) 
				・全国を3府72県とする(11月)。11月14日、秋月県、福岡県へ統合さる。
				・台湾で、漂着琉球人54名の原住民による殺害事件発生。(12月) 
	明治5年(1872)	・新橋〜横浜間に鉄道開通。 
				・戸籍法が改正され、皇族・華族・士族・平民となり、総人口3千300万人。 
				・兵部省を廃し、陸軍省と海軍省を設置。(3月) 
				・学制発布、義務教育が導入される。(8月) 
				・太陰暦廃止。太陽暦が採用される。(11月)
				・和服礼装廃止(11月)
	明治6年(1873)	・徴兵令施行。士族以外の平民から軍兵を募る。(1月)
				・キリスト教公認(2月) 
				・西郷隆盛、陸軍大将に就任。
				・地租改正条例公布。(7月) 
				・征韓論派の西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎が辞表提出。(10月)
				・大蔵省から分離して、地方行政と警察機能を行う内務省を創設し、大久保利通、内務卿を兼任。(11月)
	明治7年(1874)	・板垣退助ら、民選議員設立建白書を提出(自由民権運動)(1月)
				・佐賀士族、征韓攘夷を揚げて反乱を起こす。「佐賀の乱」(2月。3月鎮圧さる) 
				・日清互換条約締結。清が50万両を日本に支払い、日本軍台湾撤兵。
	明治8年(1875)	・「江華島事件」勃発。(日本の軍艦が朝鮮の江華島付近に進入、砲撃を受け砲台を撃破。)(9月)
	明治9年(1876)	・「江華島事件」を理由に、朝鮮に「日朝修好条約」を結ばせる。(2月)
				・廃刀令発布。武士の封禄廃止。、金禄公債を発行する。(3月)
				「神風連の乱」勃発。(9月。神風連の正式名は敬神党。1日で鎮圧される。約200人。)
				「秋月の乱」勃発。(10月。乃木希典少佐率いる小倉鎮台に鎮圧され、7日で収束。200〜300人。) 
				「萩の乱」勃発。(10月。秋月の乱より1週間後、萩藩士約200人が反乱。6日で鎮圧さる。) 
				・茨城県農民、地租改正反対の一揆。全国に波及する。(11月) 
	明治10年(1877)	「西南戦争」勃発。(1月−9月)
				・城山で西郷隆盛切腹(51歳)。別府晋介が介錯。(9月24日)
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	明治7(1874)から、明治9年(1876)にかけて、西日本各地で士族を中心とした反乱が発生する。

	1874.2月1日   佐賀・佐賀の乱
	1876.10月24日 熊本・神風連の乱
	1876.10月27日 福岡・秋月の乱
	1876.10月28日 山口・萩の乱

	と続いた「不平士族の反乱」は、明治10年(1877)2月15日の鹿児島・西南の役を以て完全に鎮圧され、以後本格的に、いわ
	ゆる「士族」は解体される。明治維新の初期は、倒幕運動の中心であった薩長土肥の藩士で「官軍」を形成していたが、政府
	は今後近代的な軍隊を構成するには武士以外の兵力が必要だと考え、徴兵制の導入を決定した。武士たちの特権を取り上げ、
	廃刀令、全国民への苗字付与等々を打ち上げて国民層から均質に抽出した新しい軍隊を作ろうと考えた。この軍隊の成立で、
	それまで唯一の武装集団であった武士は存在意義がなくなってしまうのである。また廃藩置県により、武士の俸禄は公債証書
	発行となり実質的に消滅し、廃刀令によりシンボルであった刀も召し上げられた武士達は、プライドもさる事ながら、たちま
	ち窮乏生活に陥って八方ふさがりの状態になり、武力によってその不満を爆発させたのである。各反乱の要求は確たる具体性
	をもったものではない。直接的には、神風連の乱・秋月の乱・萩の乱は、廃刀令に対する怒りの爆発と理解されているが、実
	質は、一説言われるように生活に困窮した「不平」士族の自暴自棄な集団自決と言えなくもない。時代の流れに乗れなかった、
	旧体制に執着する保守的な一団の「あがき」という見方もあるのである。私の生まれ故郷の者達が起こした「義憤」に対して
	は冷たい見方のような気もするが、武士集団に搾取されていた側の子孫としては、諸手をあげてこれらの乱を賛美する気には
	なれない。西南戦争の終結を以て、不平士族の反乱はなりを潜め、日本は名実ともに新時代へと移行して行く。
	
【秋月の乱】明治9年(1876) 明治9年(1876)3月、政府は廃刀令を発布し士族から刀を取り上げる。そして8月には士族たちに支払っていた俸禄を停止 し、代わりに5〜14年分の俸禄額面の公債証書を発行して、その利子のみ支給するという方策を打ち出した。これは士族へ の俸禄が政府予算の3割に達し、財政的にも負担不可能な事態に陥ったからである。旧藩に代わって明治政府が支払っていた 俸禄も、いよいよ士族そのものを廃止しなければ、政府財政が崩壊する寸前までになっていた。度重なる武士集団に対する明 治政府の施策は、当然士族達の積もり積もった不満を爆発させる事になる。 幕末の攘夷思想は秋月にも影響を及ぼし、磯淳(いそじゅん)、宮崎車之助(みやざきくるまのすけ)らは、政府の施策を非 難し、周囲の士族達と図って決起の機会を窺っていた。そんな中に東京の大橋陶庵(おおはしとうあん)の塾に学び、萩の前 原一誠(まえばらいっせい)らとも親交のあった益田静方(ますだよしみち)がいた。益田を中心とした秋月の急進派達は、 萩・佐賀の同士達と連絡をとりあい、一方熊本・柳川・久留米の同士達とは宮崎車之助らが連絡にあたっていた。そのうち、 秋月の急進派は「秋月党」を名乗り、いつしか、熊本の敬神党、萩の前原党、そして秋月党の三角同盟が成立する。 明治9年(1876)10月24日、熊本で太田黒伴雄を中心とする200名ほどの集団「敬神党(神風連)」が、鎮台のあった熊 本城や県庁などの役所建物を襲撃し、知事と鎮台司令長官を死傷させた。秋月からは宮崎伊六・車之助の宮崎兄弟と、蒲池作 之進の3名が応援並びに情勢視察に派遣されたが、彼らは緒戦の敬神党の勝利を見てただちに秋月へとって返したので、秋月 党では熊本の勝利に沸き返り、続く挙兵に向けて気勢が上がった。しかしこの乱は、その日の内に熊本鎮台軍により鎮圧され ていたのである。



	続報で「敬神党鎮圧さる」の知らせを受けた秋月では、決起に対する急進派と慎重派が対立する。結果、決起は自重と決定す
	るが、あくまでも熊本に続けと唱える益田静方たち急進派は、彼らのリーダーに、宮崎車之助の弟で藩主長元の側室今村直子
	の養子になっていた今村百八郎(いまむらひゃくはちろう)を担ぎ出した。剛胆で沈着・冷静、若者たちの間では人望も高か
	ったと言われている。そして益田自身は、佐賀の同士に決起を促すため、後事を今村に託し佐賀へ旅立つ。以来、秋月では益
	田静方の行方は杳としてつかめず、益田遁走とか益田捕縛さる、と言った情報が乱れ飛んでいたが、やがて今村は、思いもか
	けない場所で益田に再会することになる。

 

上下の書簡は、干城隊が臼井亘理、中嶌衡平を暗殺したことを戸原主水に知らせたもの。



	
	血気にはやる若者達の勢いに抗しきれず今村はついに挙兵を決断し、10月26日未明全秋月藩士に招集をかける。今や秋月
	藩の主導権は完全に今村たち若手急進派が握っていた。旧藩士たちは、手に手に刀・槍・鉄砲などの武器を携えて、魚町の田
	中天満宮に集結する。
  

 

	
	◆ 田 中 天 満 宮◆
	ここ田中天満宮は幕末から明治初期に至る動乱期の歴史舞台となった場所である。右奥に推定樹齢400年のイヌマキがあり、
	明治動乱期の秋月城下の動向を静かに見つめてきた。

 



 
	
	集まった藩士で手狭になった天満宮を出て、急進派は西福寺へ拠点を移動する。夕方までにその数は200名に達し、旧秋月
	藩士の半数に迫ろうとしていた。今村の兄、宮崎車之助たち慎重派は、札の辻の秋月小学校に終結し対応策を協議した。この
	学校は、旧秋月藩の米倉・会所跡に建てられたもので、私はこの小学校に6年間通った。現在の秋月小学校ではない。今は
	駐車場となっていて、秋月観光の拠点にもなっている。




今でも口ずさむ事が出来る「秋月小学校校歌」。最近は健忘症ではないかと思うほどだが、昔覚えた事はなかなか忘れない。
	
	協議の結果、宮崎達は事態の推移を見守るという事にし解散するが、翌27日午前10時、西福寺の急進派が「士族の復権」
	を旗頭に進軍し始め、事ここに至ってはと宮崎車之助ら急進派も行軍に参加し、ここに「秋月の乱」が勃発した。神風連の乱
	から3日後である。

 

 


秋月の乱勃発当時の本陣が置かれた西福寺跡

 
	
	秋月党出陣の知らせを受けて、磯淳、宮崎車之助ら慎重派だった十数人は、前途に不安を抱きながらも武器を持って駆けつけ
	て眼鏡橋近くで合流した。この挙兵に参加した者は248名を数え秋月士族全体の半分を越えていた。秋月党本隊は、夫婦石
	(みょうといし)で捕らえた警察官穂波半太郎を今村が斬って出陣の血祭りに上げ、かねてから盟約を通じていた豊前豊津を
	目指した。27日、28日と途中で一泊し、29日の朝、豊津近くに到着した時、秋月党は豊津へ決起を促す使者を派遣する。
	豊津士族と呼応して同時挙兵の手はずが整っていると秋月隊は思っていた。しかし豊津では穏健派が主導権を握り、秋月との
	同時ほう起を主張する一派は監禁されていたのである。しかも、秋月が豊津に迫りつつある事を乃木希典少佐(連隊長)率い
	る政府軍の小倉連隊に通報し、秋月からの使者にはだらだらと談判を引き延ばし、小倉からの軍隊到着を待っていたのである。




	<林流抱え大筒> 
	秋月藩には、磯流、高野流、林流、久佐流、河野流、陽流、若松流、板倉流という砲術諸流派があったが、林流の他は明治以
	後いずれも絶えてしまった。林流抱え大筒は、明治9年(1876)の秋月の乱の際、砲術隊長中野五郎三郎によって嘉穂町太刀
	の縄田家に伝えられた。
	型には「村雨」「霞」「浮舟」「稲妻」がある。大筒は、長さ1メートル・重さ30キログラムで、100匁玉あるいは棒火矢を使
	用する大型の火縄銃である。戦場では、敵への威嚇や城門を焼くのに用いられたといわれている。昭和46年に、伝承者縄田
	勇造氏から秋月の保存会にその技術が受け継がれた。保存会は、結成以後意欲的に各地の祭りやイベントなどに参加して、今
	では全国的にその名が知られるようになりつつある。また、平成6年に行われた全国砲術交流会など、各地の保存団体との交流
	も深めてきた。定期的な演武は、年末年始と春祭り・観月会に秋月で行われている。市指定無形文化財 (甘木市のHPより)

	
	秋月隊は豊津郊外の松原に陣を敷いて、豊津との談合が決着するのを待っていた。正午近く、昼食の準備に取りかかった秋月
	隊に、突然、小倉連隊の兵600名と豊津士族の一団が鉄砲を打ちかけてきた。秋月隊は豊津の裏切りに憤怒しながらも直ち
	に応戦して、激しい銃撃戦が開始された。秋月隊は奮戦したが、新式銃で装備し近代的な戦闘訓練を受けた政府軍には歯が立
	たず、夕方5時近くになって英彦山方面へ敗走した。戦死者17名、負傷者7名であった。

	秋月隊は夜道を駆けて小石原村を抜け、30日夕刻に江川谷の栗河内(くりこうち)の民家に逃げ込んで一泊するが、この時
	には隊士はすでに70名あまりに減っていた。途中で落命した者もいたが、隊士の多くはそれぞれに秋月へ逃げ帰って、結果
	的に全員捕縛された。栗河内の一団は31日中軍議を開き討議を重ねるが、秋月には既に官軍が駐屯し、一部が江川に向かっ
	ているとの情報が入り、ついに秋月党は一旦ここで解散と決定する。全隊士が落ち延びたのを確認すると、磯淳、宮崎車之助、
	土岐清、戸原安浦、戸波半九郎、磯平八、宮崎哲之助の7人は、幹部として決起が不首尾に終わった責任を取って自刃する。
	一番若い宮崎哲之助が、兄車之助をはじめとする先輩6人を介錯し、自らも切腹後首を斬るという悲惨な結末であった。

 

江川ダムの上流、甘木市大字江川栗河内に残る「秋月の乱」幹部7人の「自決の地碑」を訪ねていった。(2003.8.16)

 

	
	栗河内部落の一番奥まった高い場所に八幡宮があって、その脇に「自決の地碑」があった。驚いたことに、ここでばったり中
	高校時代の友人尾畑君に会った。彼の産まれた家は今はダムの底で、実家はダムの下流に移転しているが、帰省したので友人
	の川上君の実家に挨拶に来たと言う。川上君も同じく友人だが、二人とも今は東京在住である。東京で1,2度飲んだことが
	あるが、それにしてもこんな所でバッタリ会うとは。


 

	川上君の実家は更に一段高い、栗河内で一番高い場所にあるというので登っていく尾畑君。川上君は今年は帰省していないそ
	うだが、なんと律儀なと驚いた。彼は今自治省にいてどこかの機関の部長だが、出世する男は違うなぁと反省しきり。



	
	隊士の多くは秋月へ戻って自首して出たが、あくまでも抗戦を主張する今村百八郎一派27名は、古処山を越えて11月1日
	の夜、秋月党討伐の本部となっていた秋月小学校を襲撃する。県属、副区長2名を殺害して今村らは、夫婦石の民家に拘束さ
	れていた秋月士族約200名を解放し、討伐隊と斬り合った。双方に相当数の死傷者が出たが、今村らは翌2日、秋月へ舞い
	戻り家族に別れを告げて、三箇山(さんがやま)村へ逃げ込んだ。しかし追及の手は厳しく、最後まで今村と行動をともにし
	た19名はついに三箇山で決別する。それぞれに官憲の目をかすめて行方をくらましたが、やがて全員自首したり捕縛された
	りしたが、一人今村百八郎はなおも萩の前原党に合流する事を試みる。萩へ渡ろうと芦屋まで来たが果たせず、山隈村に潜伏
	中を11月24日に捕縛されて福岡へ護送された。この時、以前秋月を出て杳として行方が分からなかった益田静方と、今村
	は拘置所で出会ったのであった。




	12月3日に福岡裁判所で、秋月挙兵国事犯の判決が言い渡された。懲役19名、124名が除族となった。召集したが入隊
	しなかった者175名は「咎メノ沙汰ニ及バザル者」、付和雷同で随行した者63名は「不審ニ係リ無罪」として放免になっ
	た。首謀者の今村百八郎と益田静方は除族の上死罪となり、その日の内に福岡桝木屋町の浜で二人続いて斬首された。



	一連の「不平士族の乱」を振り返ると、佐賀や萩や熊本、そして豊津と連盟を結成して一斉に蜂起するという企ては、結局士
	族達の幻想だった事がわかる。呼応を期待して単独で決起した「秋月の乱」も、結局豊津藩の同調は得られていなかったし、
	単なる地方の不満分子による国事犯として裁かれてしまう。


乱に参加して自刃した幹部の辞世の句


戸波平九郎の遺書。屋敷跡はいま、秋月郷土館となっている。



	秋月黒田藩の幕末動乱期には、海賀宮門(京都の寺田屋騒動に巻き込まれ、船中で薩摩藩士に斬られる。)、戸原卯橘(継
	明)のように勤皇に奔走して非業の死を遂げた者が出たり、また、執政の臼井亘理が反対派に暗殺される事件などが起こった
	が、藩の姿勢としては「勤皇」「佐幕」のどちらともつかない日和見に終始し、そのような重臣達の曖昧な態度が若者をして、
	「明治維新に乗り遅れた」との意識を植え付け、やがて明治新政府に強い不満を持つようになり、結果的に秋月の乱を引き起
	こす遠因になったとも言える。


戸原卯橘(継明): 秋月を脱藩して「生野の変」に参加するも自刃。

	そして秋月ほう起の翌日の28日には、山口県の萩で前参議の前原一誠ら4〜500名ほどが蜂起、政府軍と戦闘を交えた。
	前原らは11月4日まで抵抗したが、結局大阪鎮台兵などにより鎮圧され、前原は捕らえられ処刑された。この一連の乱は各
	地の、特に西日本の士族達の強い不満を如実に物語っていた。そして、かって参議であった前原一誠までもが立ったことで政
	府は最後の在野の大物・鹿児島の西郷隆盛の動きに神経をとがらせる事になる。周知のようにその後、秋月の乱から4ケ月後
	の明治10年2月、鹿児島で西郷を中心に決起した「西南の役」も、熊本の田原坂の激戦を経て西郷の自決で終焉を迎え、明
	治新政府はここに完全に近代的な軍隊を持った強権としての存在を揺るぎないものにしたのである。


	この乱の後、秋月の士族たちは多くが生計を求めて秋月を離れて行った。武家屋敷はまたたくまに田畑に変わり、また、商人
	達も秋月の店をたたんで他所に移って行った。かくして「秋月千軒の賑わい」といわれた城下町秋月は、1900年代の初頭
	には、戸数、人口ともに全盛時の半分に減ってしまった。そしてその後も過疎化はすすみ、石垣だけが往時を語る山あいの小
	さな城下町となって今日に至っている。

	写真は杉ノ馬場(真ん中の桜並木)を秋月の北西方向、荒平城跡あたりから見たところ。
	日露戦争の勝利を祝って桜が植えられたため「杉ノ馬場」が「桜の馬場」になった。真ん中あたりに見えている建物が「秋月
	郷土館・美術館」である。


		
	<秋月の乱>をINTERNET内で検索している時、明治9年徴兵され秋月の乱に参加した(政府側)という古老の話を載せたHP
	があった。どこの誰それの話とは乗っていないが以下のようなものだった。
	「徴兵で私は明治9年に出ました。それは、「秋月騒動」の時でした。私は秋月騒動に参加しましたが、その頃の銃は「ウラ
	ゴメ」の銃でした。雨の多い年だったので、ツツの中に雨が入って「プスッ」といって弾丸がならん。秋月方は刀で切り込ん
	で来るので、苦戦した。西南戦争ではスナイドル銃を使った。田原坂の戦いにも参加、高瀬で名誉の負傷となりました。」

 
長生寺の、秋月の乱首謀者宮崎三兄弟の墓(右手から、宮崎車之助・宮崎伊六・今村百八郎)






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「秋月の乱」他、秋月の歴史に関する書籍としては以下のようなものがあり、今でも購入できる。

書 籍著 者発 行 所価 格
秋月史考田代政栄秋月郷土館2500円 
秋月党川上水舟秋月郷土館2400円
物語秋月史三浦良一秋月郷土館1800円
秋月郷土館 −名品選−  秋月郷土館2000円
望春随筆秋月古文書講読会 秋醉倶楽部2000円
秋月を往く田代量美西日本新聞社 2000円
秋月賛歌椎窓猛・上森悟梓書院1500円


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	上左は、昭和61年4月発行の丸元淑生著・中公文庫「秋月へ」、秋月の乱に参加した曾祖父を持つ少年の、心の成長過程を描いた
	純文学小説。芥川賞候補になった。右は通俗小説の雄、峰隆一郎著の光文社文庫・平成8年9月発行の「秋月の牙」。妻敵討で追
	われる身となった秋月藩士の剣と女の生活を描く娯楽小説。2冊は対照的な作品だが、随所によく知った地名が出てきていずれ
	もおもしろかった。

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	以下は、前述、丸元淑生著「秋月へ」に紹介されている文章である。この文章は、彼の曾祖父に宛てた秋月の士族団体から来た、
	秋月藩が持っていた山林等の処分についての「承諾の願い書」である。「秋月へ」は勿論小説なのだが、この文書はおそらく本
	物である。何故なら私はこの本物を見たことがあるからだ。数年前、東京本社へ出張した折り、暇があったので神田の古書店街
	を歩いていて、こればかり(秋月藩の財産処分)を研究した書物を見つけ、そこにこの文章を見た。どこかの大学教授が著者で、
	誰が幾ら貰ったかと言うようなことまで事細かに記述してあった。確か売価が1万5千円くらいで、私はその時持ち合わせが無
	く、銀行へ行って金を降ろしてくるか迷ったあげく断念して帰阪したのだが、次回購入の意志を固めてその古書店を再訪した時
	には既に売れていた。確か、「筑前秋月藩の財産処分に関する研究」とかいうような題名だったが、あの時買っておけば良かっ
	たと今でも後悔している。

	拝啓 ますますご清穆(せいぼく)賀し奉り候。・・・・秋月町大字野鳥地内森林四十五町歩、同町同大字森林八反八畝十五歩
	は、明治五年、中野鳥、下秋月、上秋月、長谷山の四大字内住居士族の薪炭用として政府より下附せられたるものにして、右四
	大字内に住居せる五百有余の士族は、平等にその共有権を有せるものなりしも、中途その組織を変更して株式の形式をとり(法
	人にあらず)、且また、いくたの変遷を経て、今日に至りしものにして、現時は三百余名の共有と相成り申し候。而して、その
	株主多くは他府県、他町村に転住して、前記四大字内現住株主は、僅々百名にも満たざる数と相成りおり申し候。
	 これに加うるに、明治二十九年法律第八十九号(民法)発布、ついで同三十一年七月より施行相成り候ことは、いまさら更め
	て申しあぐるまでもこれなく、而して、その第二編第三章第三節共有に於ては共有物件につき各共有者の権利および義務を明確
	に規定これあり、かつ、今般、共有権者中より分割(売却処分をなし、代金分配のこと)を申出たるものこれあり候につきては、
	数十年来共有し来たる該森林も遺憾ながら現在の取扱規定にては、これを永遠に維持するの困難なるを思うのみならず、このま
	ま荏苒(じんぜん)推移せんか、近い将来において、ために紛糾をきたすあらんことをおもんばかり、下名等は、時世の進運に
	ともない、今日において、過去の根本的解決を下すの必要あるを認め、慎重にその方法を研究調査の末、別紙議案をもって、適
	当なる解決方法を議決いたし候。
	 而して、これを信用ある当地出身弁護士に示して、その意見を求めたるに、適法にして、かつ、妥当の解決方法なるべしとの
	ことにこれあり申し候。よって客月二十六日、株主協議会を開催し、各株主の意見を徴したるに、出席株主中、乙種株主二、三
	を除く外、ほとんど満場の賛同を得申し候。
	 前述の次第につき、別紙議案の主旨を御賛成、別紙承諾書に御記名、御調印のうえ、御返送相願いたく、幸に下名等を御信用、
	御委託相成候わば、相当の時期を見計らい、売却処分をなし、株主諸君の利益を計ると同時に、わが秋月五百有余士族団体の基
	本財産を確実に設定し、旧藩主家、ならびに、垂裕神社に対し、遺憾なく、われわれ士族の団体の責務を尽すを得るはもちろん、
	余裕をもって、これを奨学費等に充当し、わが団体の行動をして、一層敏活に、一層有益にもって活躍せしめ得べしと信じ申し
	候。右貴意を得たく。草々敬具  	大正十年七月 十一名連名

	明治の世になってすでに半世紀を経たと言うのに、士族達はまだ自藩の財産を保有・処分したりしているのである。これは一人
	秋月藩のみならず、日本中の旧藩・旧士族会等々で同様のことを行っている。藩の財産を売却して分配したり、法人化して管理
	会社を設立したり、現在でもそういう管理会社が管理している文化財や有形固定資産は存在する。


	2013年 秋月藩士138回忌墓前法要

	驚いた事に、私は最近になって知ったのだが、秋月藩士が死亡した豊津藩では、現在もこの時の死者を痛んで法要が営まれている
	のである。以下は、福岡県京都郡みやこ町の町長井上幸春氏のブログから転載した。

	井上町長のブログ・トゥレジュール(Tous les jours) 井上幸春 (2013年10月29日 20:38) 

	秋月藩士138回忌墓前法要 ◎10月29日(火)
	秋月藩士138回忌墓前法要が関係者参列の下、厳かに営まれました。これまで豊津郷土史会の関係者の皆様が秋月藩士の墓前を
	お世話戴いています。ここに改めてお礼申し上げます。
	さて、この秋月の乱が起ったのが明治9年(1876年)、明治維新後、9年目の年です。徳川幕府体制から新たな政府による政
	治が行われたわけですが、全てのことが180度逆転して行われ、国民は全てに面喰い何が何だか分からないことだらけで、世の
	中についていくことは大変だったのではと思います。
	明治6年、征韓論論争に端を発し、国を二分するような事態となりました。このことが原因で西郷隆盛らは下野していきました。
	「秋月の乱や神風連の乱」から西南戦争へとつながって行ったようです。どちらに正義があったのか、私には分かりません。
	唯云えることは勝者の論理で言えば、不平不満士族の反乱となっています。私はそのような事は、ここに置いておき、このような
	乱があった歴史的事実を捉え明治の黎明期に起きた日本の歴史に目を向け、豊かでそして平和な現代の日本を見つめ直すきっかけ
	となればと思っています。歴史を単なる史実として終わらせず、未来につなげることこそが先人たちの苦労を無駄にしない唯一の
	道だと思います。法要終了後、郷土史会の関係者の皆さんや阿弥陀寺の関係者による直会が行われました。
	皆様のご接待に感謝申し上げます

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		〜〜〜決起藩士の終焉〜〜 

		[墓石の大きさ]
		33・5p角。高さ79p。台石の高さ28p、53p四方。敷石の高さ15p、83p四方。「材料は御影石」

		[刻まれた氏名]
		【前面】 菊池武彦・白根増之進・宮崎伊六・小森棒弥
		【左面】 森 真二・森田  程・富永国美・平田一六
		【右面】 土岐多門・小幡多次右衛門・小幡林三郎・上村義平
		【裏面】 尾石謙吉郎・見山喜平・橋本直太郎・仁上兵衛門

		この墓には氏名と「明治九年丙子九月十有三日」としか刻まれてなく、建墓当時、明治政府打倒の罪人として
		慮って「秋月党」の銘が無い。


	某掲示板で教えて頂いた北さんへの返信。

	いやぁ、	投稿者:筑前   投稿日:2013年10月30日(水)05時01分21秒 

	こんな事が行われているのは全然しりませんでした。秋月藩士達は豊津藩士と協合して小倉鎮台を目指そうとしていたのですが、
	豊津藩内では改革派は保守派に押さえ込まれて、反対に豊津藩と乃木希典率いる小倉鎮台兵からの攻撃を受けて秋月へ逃げ帰るの
	ですが、この法要はその時の豊津藩の秋月藩に対する「御免なさい」なのでしょうね。北さんありがとうございました。
	しかし、この事は秋月のみんなは知ってるのかしら?来週朝倉市長に会うので聞いてみよう。 

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