Music: 朧月夜
江戸時代・下 秋月・黒田藩の藩政

青春の城下町




 
2003.4 京都大覚寺での時代劇ロケを撮影

	【江戸時代の幕藩体制】

	江戸時代の「藩」は、大名がその領地を占有し、領地内の士農工商を支配して生産物の多くを税として取り立て運用し、藩内
	の自治運営の一切を徳川幕府から委託された組織体である。平たく言えば、大名は、徳川幕府から土地の支配を許され、年貢
	取り立てを幕府から依頼された存在であると言える。従って大名と言えども、領地内の土地を勝手に他藩へ売ったり譲ったり
	出来ないし、幕府が決めた石高を変更したり、藩主を変更したりなどと言うことは当然許されていなかった。それどころか、
	藩主及び藩は、幕府からのあらゆる規則でがんじがらめに縛られ、僅かでも違反したり届け出を怠ると、たちまち改易や取り
	つぶしのリスクを負っていた。

	戦国時代の領主は、領主自らが己の力で勝ち取った土地がそのまま領地であるから、領主が当然領土を支配し、年貢はそのま
	ま領主のものであったが、江戸時代には、日本の領土は原則的に徳川幕府がその全てを支配しており、大名に領土を預けると
	いう制度を取った。そのため、幕府は大名が幕政に反対したり、悪政を施したり、藩内支配運営に失敗したりすると、簡単に
	お家取り潰しができたのである。江戸時代の藩は一般によく徳川300藩と言われるが、明治維新直前に存在した藩の数は、
	276藩である。一時期存在したが、取り潰しにあったり、譜代大名のように、あちこちに移封されたりするものがあるので、
	はっきりした数は特定できない。276藩が府県別にどう位置していたかを分類すると、兵庫県に16、千葉県に15、茨城
	13、岡山、愛知、新潟が各11、東京、沖縄、山梨は0(ゼロ)となる。後はほぼ1県に1〜3藩の格好である。山梨は元
	禄時代に甲府藩があったが、藩主柳沢吉保が大和郡山に移ったあとは、天領として幕府直轄となった。

	福岡黒田藩と秋月黒田藩は、実は幕府に内緒でその領地を取り替えていた。藩祖長興が秋月へ転封してまもなく、長政から付
	けられた二人の家老の内、筆頭家老掘平右衛門は、藩主が若年であることをいいことに藩政を独占していた。やがては派閥を
	つくり藩主に対抗する勢力を藩内に作り上げた。これを快く思わない藩主長興派は苦労の末、ついに掘一派を駆逐する。そし
	て従来からの田代半七に加えて、藩内から吉田斉宮助(いつきのすけ)を家老に登用。福岡から宮崎藤右衛門(織部)を迎え
	て三家老体勢を作り上げて藩政を堅固なものにした。この時、宮崎が福岡に持っていた所領をそのまま秋月領とし、代わりに
	秋月領の一部を福岡藩に渡した。
	これは幕府に内緒で行ったため、両藩では「御内証替え」と呼ばれて口外無用の丸秘事項であった。そのため、以後の幕府へ
	の諸届けの際には、これが露呈しないよう両藩とも相当苦労したようである。




	【石高】

	1万石以上の領主を大名と言い、1万石以下は旗本と言う。旗本でも将軍に拝謁できるのが旗本で、それ以外は御家人である。
	江戸時代には、旗本は約5千人。御家人は約1万7千人いたとされる。大名の家臣でも、前田家の本多家老などは5万石であ
	ったが、陪臣であるため、大名とは言わない。大名の石高は1万石から102万2千石まである。中には1万石といっても、
	喜連川藩のように実質は5千石程度の最小の藩もあった。
	藩の石高には表高といって、表高が1万石だが、実高5千石という場合もあるし、逆に表10万石で、実高15万石の場合も
	ある。表高が多いと藩財政は苦しいが、実高が多いと藩は裕福である。最大の石高の藩は加賀藩である。一般に加賀百万石と
	いわれるが、実際の石高は102万2千石であった。
	石高20万石以上の藩は22あり、全体の7%。10万石から20万石未満が31藩で11.2%。5万石から10万石未満が
	46藩、16.7%。1万石から5万石未満が126藩、45.6%。1万石が51藩で18.5%。すなわち5万石以下の藩
	で、全体の約60%を占めていたのである。何となく現代の企業の構図を思い浮かべる。我が秋月藩は、飢饉時などを除き、
	ほぼ禄高どおりの5万石を収穫できていたようだ。親藩の内、徳川御三家の石高を調べると、筆頭は尾張藩61万9千石(支藩、
	高須藩3万石)。紀州藩は55万5千石(支藩、西条藩3万石、および、吉井藩1万石)。水戸藩35万石(支藩、府中藩2
	万石、宍戸藩1万石、守山藩1万石)である。



	【大名の種類と格式】

	親藩とは将軍の一門から発する22藩である。譜代とは徳川家に代々使えていたもので、143藩がある。準譜代8藩。外様、
	すなわち信長、秀吉時代には家康と同格だったもの103藩。家康にとってはこれが煙たい存在だったが、しかし、石高は外
	様大名の方が圧倒的に多い。準譜代とは、出自は外様だが願い出て譜代扱いとなったものを指す。幕府の老中とか、若年寄な
	どの政治機構に関与するのは、全て譜代大名である。中には幕政に参加することを望んで、外様から譜代にと、頼み込んで譜
	代になるのもいたので、それを願い譜代といった。


大名の格式で最も高いのは、御三家である。言わずとしれた尾張、紀州、水戸、の3藩で、家康の子供達が分家して成立した。 これは大名の中でも別格である。つぎが国持(くにもち)大名。これには20藩あり、加賀藩、薩摩藩、仙台藩、熊本藩、福 岡藩、広島藩、長州藩、佐賀藩、鳥取藩、津藩、福井藩、岡山藩、徳島藩、土佐藩、久留米藩、久保田藩、南部藩、米沢藩、 松江藩、対馬藩などで、いずれも大藩である。三番目は城主である。城主大名は135家あり、その次の城主格が18家ある。 これは無城大名とも言い、その領地に堅固な城は無く、いわば陣屋の主であるが、戦功などによって格上げになったりしたも のを含んでいる。泉藩、岩村藩、亀田藩、三田藩、三上藩などの18家で、我が秋月藩もここに属する。その下に陣屋大名が いる。

江戸城に大名が詰めるときの控えの間である「詰所」というのがあるが、これは各大名の格式により区別されていた。まず、 「大廊下」これは最上席で御三家クラスでなければ入れない。「大廊下」とは通路の廊下ではなく、部屋の名前である。つい で大広間、溜間(たまりのま)、帝鑑間(ていかんのま)、雁間(かりのま)、菊間(きくのま)、柳間(やなぎのま)とな る。「大広間」は親藩の大名、外様の上席、国持大名の中の外様大名が詰めた所だ。「溜間」は譜代大名の中の特別の家柄の 大名、例えば井伊家、酒井家などが詰めた所。「帝鑑の間、雁間」は譜代大名の上席の詰所。「菊間」は一般の譜代大名の詰 所。「柳間」は一般の外様大名の詰所である。大名の大多数は「柳間」詰めであった。ここで様々な折衝が行われ、養子縁組 の話などが交わされた。日本全国、北と南の大名家で婚姻や養子縁組が行われたのは、各大名が参勤交代で江戸に集まって来 ていたからであり、上杉家から秋月黒田藩への嫁入りなどもその一例である。

江戸時代の北九州の地図。
「古地図」(安政4年(1857))古地図史料出版
歴史の足跡という「国分寺友の会」主宰の久保田さん(東京在住)からご提供頂いた。】


【秋月藩の農村支配】 藩主長興の時代(寛永期:1624〜1643)には、まだ秋月藩の農村支配の体制は確立していなかったようである。しかし、慶安期 (1648 〜1651)に、農村支配の役職として「郡奉行」と「代官頭」が置かれているので、この頃には支配機構が機能していたも のと思われる。 享保年問(1728〜1735)に郡奉行は「免奉行」と改称され、免奉行は主に年貢の決定を、代官頭は主に年貢の取り立てを担当して いた。 享保19年(1734)には免奉行は再び「郡奉行」と改められ、以前は月番によって領内の支配に当たっていたものを、この年の8 月以降、領内を嘉麻郡と夜須・下座の二地区に分け、地区ごとに支配するように改めた。 文政元年(1818)秋月藩は、福岡藩に倣って大規模な農村支配組織の改革を行った。年貢取立方法が、それまでの代官取り立てか ら大庄屋取り立てに改められ代官が廃止された。郡奉行は、通常秋月の郡役所で領内支配に当たっていたが、天保5年(1834) には嘉麻郡は千手村、下座・夜須郡は野町村に出張所が設けられ、秋月の郡役所とともに郡内を三つの地区に分け、郡奉行がそ れぞれの出張所に出向いて、直接農民を支配する仕組みが作られた。 領内をいくっかの地区に分け、各地区ごとにこれを統轄する大庄屋を置き、その下に各村ごとに庄屋を置いた。大庄屋の管轄区 域を秋月藩は「組と」呼び、大庄屋の居住する村の名前をとって組の名前とした。一つの組は10〜20ヶ村からなり、組の数は時 期により変動はあったが、普通は4〜6組であった。組が変わると組に含まれる村も変化した。文化3年(1820)の組の村 割りを見ると、夜須・下座では、東西二つの組に分れ、栗田東組が江川・上秋月・下秋月・山見・田代・野鳥・長谷山・千手・ 甘水・櫓原・隈江・下淵・持丸・菩提寺・大塚・依井・弥永・桑曲・櫛木・三ケ山の20ヶ村。栗田西組が久光・栗田・森山・ 畑島・当所・中牟田・四三嶋・下高場・上高場・山隈・野町・高田・牛木の22ヶ村。屋永組が屋形原・板屋・柿原・堤・牛鶴 ・屋永・小田・平塚・中寒水・草水・上浦・下浦・馬田・千代丸の14ヶ村となっていた。この村割りは、これ以後幕末まで大 庄屋が変わっても変化していない。 大庄屋は初め世襲的なものだったが、後期になると一代限りの大庄屋や入大庄屋が増え、行政官的色彩を強めていったものと思 われる。(参考文献:物語秋月史)


	上記の表を見ると、文化3年(1820)時点での大庄屋は3人で、栗田東組、栗田西組、屋永組と3つの大きな組に分かれていたこ
	とがみてとれる。そして、この3人はいずれも文政5年の4月で交代しており、その後の名称は、下渕組、栗田組、小田組とな
	っている。文献にあるように、大庄屋は死去や他の理由によって交代し、その時の大庄屋が住む村の名前が組の名前になってい
	ったようだが、その管轄する村々は変化がなかった。

	ちなみに長谷山村で私の先祖は庄屋だったが、これはどうも本式の庄屋ではなかったようだ。名字帯刀が許され、裃(かみしも)
	もあったが、父によれば、いつの時代かに「金で買った庄屋の地位」だそうで、「ほんとの庄屋はxxxさんがたやった。」と言う。
	父が幼い頃の父の曾祖父達の話として、城主が長谷山に来た時、いつも上座に座らされるので「庄屋さんに気の毒か。」と曾祖
	父達がこぼしていたという。
	我が家の先祖は、侍達のみならず秋月藩にも相当金を貸していたようだが、地主の他に油屋を営んでいたという。貸金業時代の
	証文も山ほど残っていたが、母が嫁に来た頃はそれらの証文は、襖の下張りや、漆器類を包む包み紙になっていたという。いか
	なる分限者の家系も、アホがどこかで出現すればまたたくまにその財産を失ってしまうという典型のような家である。祖父の放
	蕩も没落の原因だが、私はその父(私にとっては曾祖父)である輿太郎の時代に、我が家の没落は始まったのではないかとにら
	んでいる。兄弟が商売を始めると言っては山一つ売ってその資金を提供し、失敗したと言っては生活資金にまた山を一つ売ると
	いう事を繰り返していたという。今、これらの証文が全て残っていれば、秋月藩がいかに近在の豪農からさえ借金していたかの
	実態把握になっただろうと思うと、かえすがえすも残念である。我が一族の仕業とはいえ、その無知・無学さには断腸の思いが
	する。



	【秋月藩の租税】

	<本貢租>
	秋月藩では年貢のことを徳米・徳大豆とも呼び、田畑の「高」に「免」(地租の定率)を乗じて決めていた。毎年春先に、その
	年の免率と年貢額が決められたが、享保2年(1717)には福岡藩に倣って定免制を取り入れ、免が固定された。村では5月中に
	御免請合書物を藩に提出して、決められた年貢を上納することを申し出たが、凶作等によって決められた年貢が上納できない
	ときは、御免返上を願い出て藩の検分を受け、被害の状況によっては年貢の一部減額・免除が認められた。秋月藩の本貢租制
	度は、基本的には本藩である福岡藩の貢租制度を倣していたが、全く同一の制度ではなく、秋月独自で定めたものもあった。
	「筑前旧租要略」(福岡県史資料第十輯)には、「各領内の租税の掛け方は様々であるが、田に重く畑に軽い、或いはその反対
	とか、正規の税は低く雑税を高くとかがある。概して一番おおらか(寛)なのは中津領で、福岡藩及厳原、枯府ノ領がこれに
	次ぎ、秋月藩は最もひどい(苛)と言われる。」と記している。
	<付加貢租>
	秋月藩でも本貢租の外に、様々な名目で付加貢租が課されていた。秋月藩分知前からの付加貢租としては口米・種籾利米・夫
	米があり、分知後に課されるようになった秋月藩独自のものに御貸付利米・能料利米・軍催合利米等があった。

	御貸付利米 ・・・ 勘定所が代官を通じて農村に米を貸し付けてその利米を徴集するもので利率は2割で借主から上納させた。
	能料利米 ・・・・ 島原の乱のとき、領内の農民が戦勝等を祈願して永代神事能を興行したとき、その費用を代官が貸して
			  利米を利率2割で徴集することとしたのにはじまった。
	軍催合利米 ・・・ 知行取りの家臣が武器修覆・非常備えのため、寛永16年以来、元米を集めて勘定所から代官を通じて
			  農村に貸し付げ、利率2割で利米を徴集した。

	商業.工業.漁猟等を営む者や商品作物.工芸作物を栽培する者には、雑税として「運上」を課していた。商業を営む者に賦課し
	た運上を、「諸商売運上」といい、秋月藩では往来札・志荷札・紙漉・水車・鍛冶・紺屋・藍染・酒造・麹・馬宿・審・瓦・
	売薬・質屋・蜜・締油・箕・白銀・豆腐・晒葛・鶏卵等の運上があり、商売の種類と規模によって運上の額はきめられた。
	「諸職人運上」とは、大工・樋屋・木挽・家上葺等に賦課した運上で、当初は上・中・下の三段階に分れて課されていたが、
	文政8年(1825)からは上・下に分げて賦課するようになった。たとえば、大工・木挽・樋屋・石工・左官・畳屋等の運上金は
	上が銀一匁と米一升、下が銀六分と米一升、家上葺は上が銭二匁九分と米一升、下が銭二匁一分と米一升となっている。「締
	場運上」とは 漁猟従事者に課した運上で、締場とは雁や鴨等の捕獲を許された場所のことで、捕獲する罠の数に応じて運上
	の額は決められた。ほかに、これらの本貢租・付加貢租とは全く別途に秋月藩でも、郡切立・村切立として、郡や組・村が必
	要とする諸経費、たとえぼ村役人の給米、郡方役人の出郷や打寄、神仏祈願の諾費用等が一括して徴集されている。(参考文
	献:夜須町町史 <付加貢租>以降は夜須町町史よりそのまま転載。)


「桜の長屋門」(水落氏の「筑前の小京都 −秋月−」HPより転載)



	【享保の飢饉】

	江戸時代を通じての三代飢饉とは、享保(1732)・天明(1783)・天保 (1832)の三つを言うが、ほかにも大規模な飢饉は江戸年
	間を通して実に30回に及ぶと言われている。なかでも最悪だったのが享保17年(1732)の「子の年の大変」といわれている
	大飢饉で、この年は2月から雨が降り続き、麦作は全減、雨は降りやまず、洪水で苗は流されたり腐ったりした。これに葉虫
	と茎虫、更にはうんかといなごが異常に発生して稲を食い倒し、加えて早魃の被害とも重なったため、収穫はほとんどなく、
	近世最大の飢麓となった。記録によると、この年の全国の収穫は平年の一割五分に過ぎなかったとされるが、被害は西国の方
	が特にひどく、福岡藩でも、領民の3人に1人は餓死するという大惨事であった。
	秋月藩でも享保期(1716〜1735)に入ると天侯不順による凶作が続き、享保4年(1719)には大風のため1万387石余の減収、
	同9年には早魃のため2万3645石余の損毛と、ほとんど毎年のように自然災害が発生していた。享保17年(1732)に入る
	やさらに異状天候が打ち続き、麦は腐って収穫は皆無、7月ごろからは牛馬に悪疫が出はじめて多数の牛馬が倒れ、稲にはう
	んかが大発生して食い倒し、秋の収穫は皆無に近い状態という未曽有の凶作となり、恐慌状態におちいった。同年に藩が幕府
	に届け出た損毛高を見ると、その高は3万5600石余となっている。藩領では特に夜須・下座の両郡の被害が大きく、八月
	に入ると両郡ではしだいに飢餓人が出はじめた。
	藩は幕府の援助を受けて飢民の救済を行ったが、藩の救済は大飢饉の前には所詮蟷螂の斧に過ぎず、冬から翌年の春にかげて
	多くの餓死者を出した。天保5年に秋月の平田孫右衛門が著した「望春随筆」によれば、

	「行路は死人多く、子の春より、丑の春まで、死人の屍を葬埋の引導のということはなく、犬猫のごとく埋めけり。丑の春、
	五つばかりの子を抱きたる女、長谷山辺りを下りしが、その子死しければ、赤裸になし川へ打ち込み、その衣類を男女石にい
	たり、米三合にかえしとかや。また、死せる母の乳を吸いながら、母子ともに死したるも道にありとぞ」と記している。

	享保6年の秋月藩内の人口は2万4700人だが 享保18年には2万2670人となり、約2000人のほとんどは飢饉者
	であったと考えられる。(参考文献:物語秋月史)



	【百姓一揆】

	百姓一揆とは周知のごとく支配者の圧政に反抗する百姓群の暴動を言うが、歴史上、百姓一揆の起きた藩は、或いは起こさな
	かった藩が一体どのくらいあるのだろうか。我が秋月藩では、江戸が終わり明治期に入って打ち壊しのようなことが嘉穂郡あ
	たりから発生し、秋月の街を抜けて長谷山・安川を通っていったという、当時の北九州における最大の一揆の記録があるが、
	江戸時代に一揆が起きた記録は殆どないようである。飢饉は前述したように江戸年間に渡り数回起こったようであるが、これ
	は圧政ではないので反乱の起こしようもなかったのだろう。しかし詳しい記事はないのだが、天明7年(1787)の秋月で打ち
	壊しが起きたという記録は残っている。天明の大飢饉(1786)の翌年であるし、一般庶民が相当困窮していたのは想像にかた
	くない。


左はかって秋月にあった「福岡銀行秋月支店」。右は、秋月名産「葛」の製造が江戸時代から数代に渡って続く「高木久助葛舗」。


その屋内に残る明治の竹槍一揆の傷跡。嫁に行ったここの娘さんも、私の小中高校を通じての友人だ。


	百姓一揆は、すなわち政治の失敗であることから、幕府に知れるとお家は取り潰しになる。それ故大名は領地内の一揆は領地
	内で収拾するため、首謀者を厳罰にする事が多かった。概して、名君の出た藩では一揆は起こっていないようだ。江戸時代の
	大がかりな一揆としては、「郡上一揆」が有名である。江戸時代の宝暦年間 (1751〜 62)、現在の岐阜県郡上郡の農民を中
	心にひきおこされたこの騒動の結果、老中はじめ幕府指導者数人も免職となった。老中本多正珍をはじめ、若年寄・勘定奉行
	・笠松代官(青木次郎九郎)が免職、藩主「金森頼錦」は領地没収の上、お家断絶。金森藩の重役、渡辺外記・粥川仁兵衛が
	島流し、根尾甚左衛門・片重半助は死罪となった。勿論百姓も重罰に処せられ、十数名が獄門・死罪となり、多数島流しや所
	払いとなる。百姓一揆が原因で、老中など幕閣や藩主が免職やお家断絶になったのは、江戸時代でこの事件だけである。

 
映画「郡上一揆」より


	一方、庄内藩(山形県鶴岡市)で発生した一揆は、領民が領主を慕うあまり、転封阻止を目的としたもので、江戸300年の
	歴史のなかでも、こんな出来事もここぐらいである。幕府は庄内藩主「酒井忠器」を「牧野忠雅」の長岡へ、川越藩主「松平
	斉典」を庄内へ転封させるべく命じ、同時に、牧野忠雅の領地を川越領に替えることを命じた。これを「三方領地替」という
	が、酒井家ではこの沙汰に不満であった。酒井家にとって庄内は、200年来の父祖の地であり、ここを出て行くのは耐え難
	いことであったが、幕府に逆らってまで留まる気は勿論無い。しかし、その決定の差し止めを求めて江戸に越訴(おっそ)し
	た者がいた。藩主を慕う農民代表だった。訴えた庄屋は素縛されその内容が吟味されたが、こんな越訴は前代未聞であった。
	種々の背景から、結局転封は取り止めになった。本来越訴は、その訴えが聞き届けられる事はあったが、訴えた者自身は厳罰
	に処せられるのが常だった。まず間違いなく死罪である。訴えが正当なら聞き届けてやるが、その時は死を覚悟して訴えろと
	いうわけである。この庄内藩の場合は、領主の圧政ではなくその徳を愛でた形になり、幕府でも評判となってお咎め無しと決
	定した。転封差し止めと庄屋の無罪を聞いた酒井忠器は、「儂の民は宝じゃのう。」と言って泣いたという。



	【妻敵討】

	秋月の敵討ちは、「仇討ち禁止令」が出た明治になってからの「臼井六郎」の、日本最後の敵討ちが有名である。これは親の
	敵討ちであったから、当然江戸時代ならしかるべき手順を踏めば無罪放免のはずだが、いかんせん明治の代であったから臼井
	六郎は罪人となってしまった。一般に、江戸時代は「お手討ち」とか「切り捨て御免」とか言って、侍が町人や百姓を勝手に
	斬り殺していたような印象を与えるが、実は昔でも人を殺すことは大変な重大事件であった。理屈が通らずに殺人に及べば、
	たとえ侍でも罰せられ、場合によっては死罪にもなったのである。
	敵討は、親・兄弟が殺されたり、師や主が闇討ちにあったりした場合、その子弟が加害者を討ち果たすという事を認めた合法
	的な報復手段であった。しかし、江戸時代も後期になると、妻・子・弟など目下の敵を討つことも、さらに夫が不義の妻や密
	夫を討つ女敵討ちというものまで公然と許されるようになった。初期の頃は、それは仇討とは認められていなかったのである。
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	天保11年(1840)1月、筑前秋月藩の下町(魚町)に住む高山市郎兵衛という者が、江戸詰役となっての留守中のことであ
	った。妻「その」が、高山の同僚「河井源三郎」と密通し、あげくに家財道具一式を売り払い大阪方面へ駆け落ちするという
	事件が発生した。源三郎は、高島国丸と改名し易者に身をかえて「その」と暮らし、間に一子与次郎までもうけた。市郎兵衛
	は、国元からの知らせで秋月藩に「妻敵討」のための「お暇願い」を提出し、両人を追って大阪近在、中国筋を探しまわり、
	同年11月12日に、現在の山口県光市の光井戸仲松原で三人を発見し、三人とも討ち果たした。妻敵討を果たした市郎兵衛
	は、村役人に事の顛末をつげ、萩藩および秋月藩の役人の到着を待ち検証を受けた。この現場検証は、一寒村で起きた事件に
	もかかわらず、ヤジ馬などの見物人で大混雑となった。勿論市郎兵衛は正式に無罪放免となったが 地元では、討たれた国丸・
	その・与次郎の親子をふびんに思い、丁重に葬ったそうで、現在も光市にこの墓標が残っているという。
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	【秋月藩の財政】

	秋月藩は小藩で、陸路では金がかかるというので、参勤交代も船で行(おこな)っていた。藩主の御座船は、障子を立て畳を
	敷き詰めた座敷のような立派なもので、舟には海の守護神「住吉の神」を祀っていた。江戸時代の秋月藩の、幕府からの諸普
	請(河川改修や道路整備など)にかり出された際の記録があるが、費用の欄の多くは「宗家より借金」となっている。最初な
	んで対馬の「宗」家から借りているのだろうと思ったが、「宗家」とは福岡の黒田藩の事だった。江戸時代の多くの大名家と
	同じく、秋月も貧乏な田舎大名だったのだ。商家が多く、裕福な黒田藩に頼ることが多かったに違いない。(黒田藩もそう裕
	福とは言えなかったようだが。)
	参勤交代の様子を記した記事があるが、「殿様の行列は真っ先に「毛槍」を持った者がいて、それを、放りあげて進んでいま
	した。秋月藩の行列が中々上手だった。お駕籠の前には「お鷹匠」が二人ついて、小鳥などがいると、これを捕らえさせてお
	殿様を慰めていた。(黒崎に住む古老)」と言う。

	江戸末後期、幕府は千葉県北部印旗沼の大規模な干拓事業を実施する。第1回目は1724年、第2回目は1782年に田沼意次が着
	手したが、いずれも資金難や洪水で頓挫した。天保14年(1843)時の老中水野忠邦が、天保の改革の一環として三度(みた
	び)この事業を手がける。普請役として実施を命じられた藩は、因幡鳥取藩、出羽鶴岡藩、駿河沼津藩、上総貝淵藩、そして
	我が筑前秋月藩であった。今回の事業には、御普請役と同格として篤農家の「二宮尊徳」も参加しているが、前2回と同様、
	各藩の資金難・諸大名の不満・幕府内の対立などから水野は罷免され、結局、翌年、工事は中断されてしまった。この時の費
	用も「宗家より借金」である。




(出典:物語秋月史)

恐るべき借金である。果たして返せたのだろうかと心配になる。藩がこれなら、我が家が侍相手の貸金業で財をなしたというのもうなずける。



上杉鷹山と黒田長舒(ながのぶ)




	秋月藩第8代藩主黒田甲斐守長舒(ながのぶ) は、日向高鍋藩主秋月種茂の二男である。秋月種茂は上杉に養子にいった上杉鷹山
	(治憲)の兄。秋月種茂・治憲兄弟の母が黒田長貞の娘、春姫。また黒田長貞の妻、豊姫は米沢藩第4代藩主綱憲の娘である。
	江戸、その他での付き合いを通じて侍たちは、結構全国的な姻戚関係を造っている。



	【上杉鷹山と秋月】
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	奥州米沢藩、九代目藩主上杉鷹山(治憲)は、藩の財政立て直し等数々の功績をあげた江戸時代の名君として有名である。
	メリカの故ケネディ大統領が、日本で一番尊敬する人物として名を挙げた事で世界に知られるが、鷹山の先祖は秋月氏であ
	る。秀吉に追放された16代・秋月種実(たねざね)と嗣子の17代・秋月種長(たねなが)が移封された日向(宮崎県)高
	鍋藩の秋月氏で、鷹山は、この高鍋藩・秋月氏から米沢藩・上杉氏へ養子に入った。
	江戸時代になっての秋月黒田藩と日向の高鍋藩は、秋月が取り持つ縁で縁戚関係にあったし、また上杉藩ともつながっていた。
	鷹山は高鍋藩6代目藩主秋月種美(たねみつ)の次男であるが、母は筑前秋月黒田藩4代目藩主黒田長貞の娘「春姫」であっ
	た。また、この春姫の母で長貞の正室は、米沢藩4代目藩主上杉綱憲の娘「豊姫」である。
	米沢藩の上杉鷹山(ようざん:1751−1825)、高鍋藩の秋月種茂(たねしげ:1743−1819)、秋月藩の黒田長舒(ながのぶ:
	1765−1808)は、それぞれの藩における”中興の祖”と称された名君だが、この3人は、実は兄弟、親子、叔父・甥の関係に
	あったのである。上杉鷹山の物語は今日広く世間に広まっており、その質実・実直・勤勉さは江戸期における比類無き偉人ぶ
	りを示しているが、この鷹山を叔父に持ち、父に秋月種茂をもった長舒は、この両名君の影響を受けて、秋月黒田藩300年
	の歴史の中でも、最も秋月文化が隆盛を極めたとされる時代を作り上げる。
	藩校「稽古館」を起こし学問所を設立。藩を代表する学者原古処、種痘の始祖緒方春朔、絵画の斉藤秋圃など各界の逸材を育
	て、産業を起こして特産物の生産等を奨励した。また長崎警備の重責を果たしながら西洋文明の息吹にも触れ、秋月眼鏡橋の
	架橋にも着手した。米沢・高鍋・秋月の、それぞれの地域においてこの3君は讃えられ、米沢ではいまでも「鷹山まつり」が
	行われている。
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蔵屋敷・建物



秋月藩江戸屋敷屋敷門
	【江戸屋敷】

	大名は、幕府から江戸詰めのための屋敷を拝領していた。現在の東大のある場所は、加賀藩の上屋敷跡である。赤門は、将軍
	家の息女、溶姫(やすひめ)が加賀藩に嫁入りしたことを記念して造られた。秋月藩の江戸屋敷は芝の増上寺ちかくにあった。
	主君の参勤交代に伴って上京し、3年を江戸のこの屋敷で過ごし、また秋月へ帰るということを上級藩士達は繰り返していた
	が、なかには殆どを江戸で過ごした者もいた。江戸の地理に詳しくなり、各方面に知り合いが出来ると、秋月ではなく江戸で
	必要な人材とされたのである。殆どの藩士達にとっては、江戸詰や上方詰めを仰せつかるのは大いなる楽しみだったようだ。
	都会へ遊びに出る田舎少年のような気持ちだったのだろう。


黒田甲斐守上屋敷。(有馬玄蕃の屋敷の西隣。大きな寺は増上寺。)
分間江戸大絵図(文政11年(1828))人文社 【前出、久保田さん提供。】


撮影する外人を警戒している秋月藩士達。4人も出張って何かあれば斬ってかかるぞという緊張感に包まれている。




	【大阪蔵屋敷】

	江戸時代、大阪の淀屋橋・堂島界隈が米市場として活況を呈したのは周知の事実である。天下の台所として大阪は繁栄を続け、
	諸国物産の取引の中心地となっていた。諸藩は領地内の年貢米や特産物を大阪で換金して藩財政をまかなっていたのである。
	秋月藩の、大阪へ出荷する物品を集めるための蔵屋敷は、はじめ遠賀郡の山鹿にあったが、山鹿(遠賀郡芦屋湊)は遠賀川の
	川口である上、響灘は波が荒いので、新川(遠賀川〜洞海湾を結ぶ堀川)ができた元禄15年(1702)、黒崎の秋月屋敷へ移
	転された。最初奉行他2、3人が赴任したが、そのうち大所帯になった。蔵が5つあって1万俵の米をつめる事ができたとい
	う。最終的には28軒の家々が立ち並ぶ秋月村となり、中には「御茶屋」(本陣)があって、藩主の宿泊所になっていたとい
	う。

	【秋月藩の大阪蔵屋敷】
	大阪の諸藩の蔵屋敷は、多くが中之島や土佐堀川付近にあった。秋月藩も、今で言えば大阪の一等地に
	蔵屋敷を持っていた。秋月藩は現住友中之島ビル、福岡藩はその隣の関西電力本社ビルの場所にあったと考えられている。

(元禄時代の蔵屋敷。一部。)
	ちなみに、現在の中ノ島近辺は名だたる企業群のビルが立ち並んでいるが、一角は「住友村」と呼ばれている。住友銀行をは
	じめとして、住友グループの会社が目白押しだ。「淀屋橋」という地名の元になった「淀屋」の跡地は、住友ビル、新住友ビ
	ル、住友生命淀屋橋ビルとなっており、明治38年(1905)、住友は住友銀行本店(住友ビル)のための敷地を買い取り、一
	帯を住友村にした。現在私の会社は、この住友村のトイ面にある。




	【今も残る秋月黒田藩時代の建物】

	・東京都稲城市よみうりランド
	江戸の黒田藩屋敷にあった屋敷門。屋敷門は江戸中期の建立と伝えられ、明治29年には赤坂2丁目の黒田藩邸に移築され、
	長らく「溜池の黒門」と呼ばれていた。江戸時代の様式を良く残していて、形式は一間薬医門、切妻造り、潜り戸付、総本瓦
	葺である。 
	


	・大分県湯布院町の湯布院民芸村
	秋月藩家老屋敷門。家老が誰で、どこにあったものかはハッキリしないが、おそら筑前秋月にあった江戸末期の3家老の屋敷
	から移築されたものと思われる。

	 


	・北九州市黒崎
	黒崎城址の西の麓に残る秋月藩蔵屋敷。この場所には米蔵と藩主の別邸が置かれ、海岸には波止場が造られていた。





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