Music: 春よ来い
秋月氏時代 秋月氏支配からその終焉まで

青春の城下町

	
	「秋月家譜」によれば、秋月氏は大蔵氏を遠祖とし、大蔵氏は後漢滅亡時、献帝の孫の阿智王が我が国に亡命し帰化したものの
	後裔といわれ、阿智王の子孫が大蔵姓を賜ったとされる。大和朝廷の官物を納めた蔵(大蔵)の吏となり、その功によって大蔵姓
	を授けられ、この姓を称するようになった。阿智王の十四世の孫という大蔵春実は、天慶三年(940年)藤原純友の乱(天慶の乱)
	に追捕使主典として太宰府に赴き、小野好古らと共に藤原純友を追討した。その際秋月の地で陣容を整えたとされるが、それ以
	前の大蔵氏の居住地や、往時の様子などは不明である。藤原純友追討の功により、朱雀天皇より錦の御旗と短刀を賜わり、西征
	将軍となった。その御旗に大和撫子の紋があったため、大和撫子をもって大蔵家家紋としたと言われる。乱平定後、筑前・豊前
	・肥前・壱岐・対馬の三前二島の管領職となって 太宰府に近い筑前三笠郡基山に城を構え、太宰府の武官として北部九州の守
	備にあたった。大蔵一族はその後、原田・三原・田尻・江上などの地名を名乗る土着の武士団となって、筑前、豊前、肥前一帯
	に勢力を拡大して行った。


	


	大蔵春実からさらに八代目の原田三郎種雄(たねかつ)は、筑紫郡原田郷(福岡県筑紫野市原田)にすむ大蔵の一族であったが、
	建仁3年(1203)に、武田有義・梶原景時の謀反をいち早く鎌倉幕府に通報した功績により、鎌倉幕府二代将軍・源頼家から恩賞
	として筑前国夜須郡秋月荘を拝領した。原田種雄は秋月荘(現在の福岡県甘木市秋月)に移り住み、姓を「秋月」と改め、秋月
	種雄と名乗った。この原田種雄をもって秋月氏の始祖とする。
	秋月氏時代の秋月は、典型的な土豪勢力支配から戦国時代の動乱を経て、豊臣秀吉による秋月氏転封までの385年間、殆どの
	期間が戦乱の中にあった。戦国時代、九州の諸豪族達は自領の安堵のため、あるいは盟約関係の維持のため、日々戦いの中にあ
	り、中央の動向とも連動して血みどろの争いを繰り返していたが、その有様は各地に残る古文書が数多く書き残している。しか
	し、一般庶民や農民達がその間どういう暮らしをしていたか、あいつぐ戦乱の中をどう生き抜いて行ったかについては残念なが
	ら記録は皆無である。ここでは、秋月氏の初代から17代までの軌跡を概略辿りながら、その周辺の状況に思いを馳せるしかな
	い。


	
	<初代 秋月種雄>
	原田種雄から改姓し、秋月種雄を名乗る。筑紫郡原田郷にあった兄の種直の居城に居住していた。兄種直が、保元の乱・平治の
	乱に平氏方として参加したとき種雄はまだ幼少だったが、平氏が追いつめられていく過程で種雄も成長し、兄・弟らとともに平
	氏のために戦った。「秋月家譜」によれば、寿永2年(1183)木曽義仲に京を追われた平家一門は、安徳天皇を奉じて北九州ま
	で逃れてくるが、この時種直は自分の居館を天皇の行在所に提供している。その直後、平家は壇ノ浦で滅亡し、源頼朝の怒りに
	触れた兄種直は、源氏方に捕えられ鎌倉へ送られる。それを知った種雄はいずこかへ身を隠したと「秋月家譜」は記す。

	(*)種雄は、種直の子とする説もある。

	 
	壇ノ浦 と 安徳天皇陵(山口県下関市)

	兄が13年後に赦免され、筑前へ戻ってくると種雄は姿を現し、兄とともに原田家の復興を誓う。しかし、世はすでに源氏の世
	で、種雄はもう源氏に組みするしかないと考えチャンスを待っていた。そこへ、正治2年(1200)武田兵衛尉(ひょうえのじょ
	う)の謀反の情報を得るのである。武田兵衛尉が九州で挙兵を企んでいる。悪い芽は早めに摘んだ方が宜しかろう、というもの
	だ。種雄の知らせを聞いた将軍頼家は大いに喜び、種雄に秋月を与える。せっかく源氏の世が落ち着きかけたところに、九州で
	また反乱が起きればそれは全国へ飛び火するかもしれず、それを未然に防げたのだから喜んで当然である。種雄もまた喜んだに
	違いない。源氏の御代ではもう浮かばれないはずが、遠祖大蔵春美が藤原純友を討つために軍備を整え、戦功を八幡大神に祈願
	した由緒の地を手にしたのである。種雄は一族郎党を引き連れ、いさんで秋月へやってきて、秋月種雄となった。

	八幡大神の地を本拠としてここに居を構え、杉本城と名づけた。今の秋月中学校のある場所である。種雄は杉本城の築城が終わ
	ると古処山城の築城に取りかかった。古処山(862m)は、秋月を取り囲む山群中の峻峰で、登るのにも一苦労する山である。この
	山頂近くに種雄は山城を築いた。「九州軍記」によれば、「此の古処山の城は岩壁高く聳えて、雲幌(うんこう)四方に囲み、
	九折(つづらおり)なる細道、一条を登る事十余町、然も岩角滑にして谷深し。是にわかに攻め落とすべき城にあらず。」と記
	されている。いかにも難攻不落の城であった様子がうかがえるが、今でも山頂附近へ登ると、「大将隠し」や「奥の院」「水舟」
	「馬寄せ」などの場所が残っている。



	私が中学生の頃、中学校には「古処登山駅伝」という行事があった。目眼橋を出発し、古処山頂へ登り、中学校まで戻って来る
	という、全5区の部落対抗駅伝だった。江川、上秋月、秋月、安川という部落がそれぞれ2〜3個のチームを作りこれに挑んだ
	が、長谷山はこういう対抗レースの場合、秋月にも安川にも属していなかった。眼鏡橋から野鳥あたりまでが1区、そこから古
	処山の麓までが2区、山頂までが3区、山頂から八丁越えという飯塚・嘉穂郡への道までが4区、そしてそこから中学校までが
	5区で、私も何年生かの時、4区を走った。4区などはなだらかな坂道での楽勝コースで、私も一人追い抜いた覚えがあるが、
	一番しんどい思いをしたのは3区である。ここは30度から40度の勾配をもった急坂で、とても走るとは言い難い。よじ登る
	と言ったほうがいい。ここを登ってきた奴はしばらく死んでいた。
	こんな所を、鎧・兜に身を包んだ兵士が攻めていくのは並大抵ではなかったろうと思われる。恐ろしい場所に城を築いたものだ。
	この時、麓にあった搦め手門は、今、黒門と呼ばれて裕垂神社の参道に移築されている。
	
	<二代 秋月種幸> 文永の役(元寇)はじまる。(1274) 
	<三代 秋月種家> 弘安4年(1281) 弘安の役に秋月種家(三代)は一族郎党二千七百人余を率いて博多の津に出陣し大いに
	戦って武勲をたてる。竹崎季長の「蒙古来襲絵詞」に(筑前国の御家人秋月の九郎種宗のひょう船)という小舟が描かれている。
	<四代 秋月種頼> 元軍の再襲来に備えて、博多湾岸の石塁を構築(建治 2年1276 〜)。 
	<六代 秋月種貞> 室町時代延元3年(1338)、多々良浜に菊池勢とともに足利尊氏を迎え討ったが敗れ(多々良浜の
	戦い)、種貞は大宰府まで落ちのびるが、足利直義などに取り囲まれ、一族郎党20余人枕を並べて討ち死した。 
	<七代 秋月種高> 足利方の小弐頼尚と共に、宮方(後醍醐天皇側)である菊池武光軍と筑後川を挟んで対陣する。
	九州軍記では、これを筑後川の戦い(正平14年(1359))と呼んでいる。また秋月は、のちに菊池軍とも手を結び、再び足利
	陣営と戦ってもいる。この時代の秋月氏は、昨日は足利、今日は宮方、と如何にも節操がない。しかしこれはどの戦国豪族にも
	あてはまり、戦国の世においては、誰もが自衛保身のためには止むに止まれぬ行為だったのだ。
	<八代 秋月種顕> 特記なし。北九州の諸豪族との戦乱に明け暮れたものと思われる。
	<九代 秋月種道> 特記なし。同上。
	<十代 秋月種忠> 特記なし。同上。
	<十一代 秋月種氏>特記なし。同上。
	<十二代 秋月種照(種輝)>寛正5年(1464)、応仁の乱」にて中国の大友氏と組し、西軍の「山名宗全」に従い戦う(1467
	〜1474頃)。文明9年(1477)、古拠山城・杉本城をはじめ、領内の砦を修復、更に新砦を築く。古拠山城の前方左手に見える
	荒平城もこの時期に築かれた。(天正15年3月6日、豊臣秀吉は秋月侵攻の際ここに2泊したと言われる。)
	<十三代 秋月種朝>文明18年(1486)、鳴門山の谷奥に、種月山大竜禅寺を建立する。現在その寺跡と見られる所に、種時
	(14代)の墓が残っている。永正4年(1507)秋月種朝は、大友義継・菊地武重の軍を古処山下に誘い寄せ、これを撃退する。
	種朝のころ、中国・九州が騒乱、少弐・筑紫・大友三家が頻繁に秋月城を襲い攻めた。種朝は城を出て一戦を遂げ、三家の大軍
	を突き破り、二千余人を討ちとって、大勝利をおさめている。
	<十四代 秋月種時>秋月氏14代・秋月種時も、少弐・筑紫らが筑後国中の兵を率いて領内を掠略するのに、筑前国にて合戦
	し、大いに勝利をえている。大永4年(1524)大友義継と知略の和議を行い、益々兵備を厳にする。亨禄4年(1531)、古処山
	城の防備を固めつつある時に死去。 

  
腹切り岩の先にある鳴戸観音の脇を抜けていく。途中にキリシタン橋がある。



 
	鳴戸のキリシタン橋を越えて杉木立の中を進んでいくと、秋月種時の墓へ至る。一帯は種時が建てたと言われる大龍寺の跡と言
	われるが、どこに在ったのか定かではない。


あたりは植林杉の鬱蒼とした森で、おそらくは秋月氏時代のものかと思われる無縁墓が点在する(下左)。

 



 
上左が秋月種時の墓と伝えられる。秋月氏時代の遺構としては唯一現存するものである。

	<十五代 秋月種方>叉の名を「文種」。秋月が気脈を通じていた中国の雄・大内義隆が、重臣陶晴賢に攻められ天文20年
	(1551)、大寧寺(長門市)にて自刃するが、 晴賢も毛利元就との厳島の戦いで自殺する(弘治元年(1555))。大内氏なき後
	秋月氏は毛利氏と通じて大友氏と抗争を続ける。この頃キリスト教の布教が活発となり、大友義鎮(宗麟)は豊後に来たポルト
	ガルの宣教師を保護し、外国との貿易を盛にして巨万の富を得る。鉄砲や大砲の新兵器を大量に輸入する。弘治3年(1567)、
	大友軍二万余騎が秋月に押し寄せ、種方は、杉本城の居館、さらに古処山城をも奪われ、逆臣のため戦死する。この時、種方の
	嫡子「春種」も戦死し、他の子たち、種実(当時13歳、一説には9歳とも。)、種冬、種長を、僧高音奄ノ託し、周防の毛利元
	就を頼って中国へ落ち延びさせる。
	<十六代 秋月種実>秋月家の再興者。秋月種方の次男。秋月氏の名が記録に最も表れるのは、この16代種実(たねざね)の
	時である。大友宗麟と戦って討死した父・15代・秋月種方の後を継いだ種実は、郎従らを伴って、周防山口(毛利家)に隠れた。
	やがて種実は、毛利元就の好意により援軍3千を得て勇躍帰国の途につき、無事に柳ヶ浦(北九州大里)に上陸、一昼夜にして
	豊州路を駆け抜け、念願の古処山城を奪還し、大友氏の宝満城(高橋鑑種)を攻撃する。再び大友軍は二万余騎で秋月におしよ
	せるが、秋月軍は夜討をかけ休松城総攻撃を開始して勝利し、大友軍は筑後へ退却した。種実は待望の秋月家再興を果たし、再
	び古処山城に居住する事になる。秋月家再興を聞いたかっての臣下たちもぞくぞくと秋月へ戻ってきて、秋月氏は昔の勢いを取
	り戻す。この頃の九州の豪族達は、こういう事を多年にわたって絶えず繰り返していたのである。

	秋月氏は、他の地域(九州以外)から移り住んだ「島津氏」・「大友氏」・「有馬氏」・「宇都宮氏」などと違い、大蔵春実以
	来の筑前国土着の地頭である。秋月氏最盛期(種実の頃)の支配地は北部九州(筑前)の11郡、24城を数え、36万石に及
	んだ。又、この頃、筑後国を支配していたのが蒲池氏(松浦党の一族)で、歌手「松田聖子(本名:蒲池法子)」の先祖であり、
	彼女の兄が現在の蒲池氏当主である。蒲池氏は竜造寺氏(京都北野より肥前(現在の佐賀県)に下向)に滅ぼされるが、その竜
	造寺氏もまた鍋島氏(後の佐賀藩・鍋島家)に乗っ取られて滅亡する。



	信長亡き後天下統一を狙う秀吉にとって、西国の大名達は目の上の瘤であった。特に島津とそれを助ける九州の雄藩をつぶさな
	ければ、到底天下統一はおぼつかないため、1586年12月1日、豊臣秀吉は九州征伐を正式に発令する。 翌年1月、第一・
	二次九州征伐軍出陣。25万の大軍が九州へ向かった。秋月種実の忠臣恵利内蔵助暢尭(えりくらのすけのぶあき)は、迫り来
	る秀吉軍の敵情視察のため、種実の命を受けて広島へ赴き、秀吉と会見する。
	種実の命は敵情視察であったが、仮陣で待機する秀吉軍を見て、すでに恵利内蔵助はその役目は終わったと感じていた。恐るべ
	き大軍、最新鋭の火縄銃、士気上がる兵達。恵利は秀吉の前で、九州征伐の先陣を勤めるよう主君を説き伏せ、太閤殿下のおい
	でをお待ち申し上げております、と言上した。秀吉はこれを聞いて「殊勝じゃ、恵利内蔵助」と、自ら一振りの太刀を恵利に授
	け、さらに、もし島津とともに秀吉配下となれば、筑前・筑後の国に肥前も加えて約100万石をすべて秋月氏に与えるとまで
	言った。秋月へ戻った恵利は、主君と並み居る重臣達を相手に秀吉軍の規模を説明し、これと戦っても勝ち目はなく、お家存続
	のためには島津との盟約を断ち切って秀吉方に付くよう説いた。しかし種実はじめ重臣達は、「臆したか、内蔵助」「たった一
	降りの刀で秀吉に懐柔されおって」と恵利を嘲り、あくまでも秀吉軍に対抗する姿勢を崩そうとしなかった。実際に自分の目で
	秀吉軍を見た恵利は、秋月に万に一つも勝ち目はないことを知っていた。数度にわたる注進・講和の願いが聞き入れられず、臆
	病者とののしられた恵利は、妻子と共に自決するのである。
	秋月の北西のはずれにある鳴渡大岩と呼ばれる岩の上で妻子を刺し、自らも割腹して果てた。以前から恵利家に仕え、武勇を持
	って知られていた臣下の崎津与九郎(さきつよくろう)も後を追った。今この大岩は、「切腹岩」とか「はらきり岩」と呼ばれ
	て、秋月の鳴戸にある。

 

 

 

 
切腹岩(はらきり岩)

 
切腹岩前の石垣と切腹岩の前に建てられた恵利内蔵助を称える顕彰碑(らしい。かすれてもう読めなかった。)





	<十七代 秋月種長> 豊臣秀吉との戦の際の大将。秋月氏は豊臣秀吉の九州征伐のとき、島津氏と盟約関係にあった。
	そのため、秀吉の九州征伐には、島津を中心とした「反秀吉」グループ勢力の一員として徹底抗戦を唱えていた。旧来からの盟
	約を重んじ、とても恵利内蔵助の注進に耳を傾けるような空気に無かったこともまた事実であろう。地方にいて、中央の状況が
	分からない豪族の悲劇でもある。
	秀吉軍がまだ小倉あたりにいると思っていた種実・種長は、朝目覚めて古処山の裏手に、一夜にして城が出現しているのを知っ
	て驚愕する。秀吉は化け物か、と叫んだという。実はこれは、秀吉が板戸を集めて城の形に切り会わせ、紙を貼って石垣や白壁、
	窓などを描いた有名な「一夜城」である。今の嘉穂郡の山腹に出現したこの城は、ご丁寧にも上から米を落として滝に見せかけ
	るような仕掛けまであった。戦意を喪失した秋月軍は、さらに進駐してきた大軍を見てはじめて恵利内蔵助の言葉が真実であっ
	た事を悟る。

	天正15年(1587)、秋月種実は嗣子の秋月氏17代・秋月種長と共に剃髪し、墨染の衣に身を包んで、秀吉の本陣に降る。
	天下の名茶器として織田信長もほしがり、秋月氏が強引に堺の商人から奪った「楢柴の肩衝」、及び「国俊の刀」を献上して本
	領を安堵された。この時秀吉は、衆人環視の中で酒を飲みながら秋月親子に俗謡で舞を舞わせ、「恵利はどうした?」と聞く。
	種実が切腹させたことを知りながら聞いたのである。種実は絶句して答えなかったと言う。他にも種実は米二千石、金百両、そ
	して16才になった娘を差し出している。好色な秀吉のために娘も差し出したのであるが、この娘は後に、豊前の宇都宮朝房の
	妻となった。人質の収容所を管理していた毛利家の古文書には、各地の大名・小名から献上された美女達の数があまりに多く、
	収容所は満杯で悲鳴を上げていた旨が書き記されている。秀吉の好色は広く九州一円にまでとどろいていたのである。

	豊臣秀吉との戦いに敗れ、秋月父子は日向国財部(現在の宮崎県高鍋町)に3万石で転封される。秋月を去るとき、種実が秋月
	の町を振り返り、「十石でもいいからここに留まりたい。」と言って泣いた峠は、今も「十石峠」という名で、秋月と三奈木を
	結ぶ山道途上にある。秋月種雄入部以来385年間、17代に渡って続いた筑前の名門秋月氏は、かくしてその長い秋月支配に
	終止符をうった。 

 

実家の弟に頼んで撮ってきてもらった「十石峠」の写真。上秋月の松丸から三奈木へ抜ける道にある。

 

	以下は弟からの電文(古いね!)。
	
	十石山の山頂付近を十石峠と言うのだろうと思われる。頂上には犬塚がある。そのいわれは、その昔猟師が犬を連れて山に入り、
	昼寝をしていると大蛇が忍び寄ってきて犬はそれを主人にしらせようと大きく吠え立てた。主人はやかましいと怒って犬の首を
	はねたところその首は主人を助けようと飛んでいって大蛇をかみころしたそうだ。それで猟師は塚を立てたと言う話があるそう
	です。(ばぁーちゃんじぃーちゃんの話)神様と塚ともうひとつ三つの石がある。右端の石には奉寄進とあり、寛延○四年らし
	き文字があり。十石峠のいわれは知っとるのかいな?(秋月種実父子の高鍋への減封領地換えのとき十石でもいいから秋月に領
	地がほしいと嘆いたと言われる)
	とりあえず何枚か送ります。舗装道があるのは旧松丸橋にむかって撮ってる。山頂の右端の九電の鉄塔付近が十石山の山頂です。

 



	
	この後秋月は、一時的に石田三成、小早川隆景などの所領となるが、関ヶ原以降、福岡52万石を拝領した黒田長政の三男長興
	(ながおき)が転封して、秋月黒田5万石となって明治維新まで存続する。日向・高鍋に移封された秋月氏は、秋月種実が高鍋
	藩藩祖となり、初代藩主、秋月種長から明治の廃藩置県に至る10代秋月種殷まで存続した。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役:
	1592年)には、秋月種長が出陣している。関ヶ原の合戦(1600年)では西軍に属し、弟の高橋元種(高橋氏)、肥後人吉の相良長
	毎らとともに美濃大垣城に在って三の丸を守ったが、寄手の水野勝成に通じ、大垣城を落とさせる。その功によって、三人は戦
	後本領を安堵されている。

 

 

	太閤石(太閤腰掛け石)
	野鳥川に掛かる秋月橋のたもと、現在金光教秋月支部の敷地内にあるこの石は、昔は坂口彦左衛門の屋敷内にあったもので、太
	閤石と呼ばれている。天正15年豊臣秀吉が九州討伐の為、25万の大軍を引き連れ、古処山を越えて同年4月5日秋月種実の
	古処山城にせまった。その時秋月に来て秀吉が座ったとされる石が、上の写真にある太閤石である。当時石の後ろに松の木があ
	って、それも太閤松と言っていたらしいが、今は残っていない。


 

上左は秋月橋から見た野鳥川下流。上右は上流と、その野鳥川にかかる大クスの木。太閤岩の側にある。



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