2003年1月1日

青春の城下町  はじめに

	福岡県甘木市秋月町。古くは、筑前の國夜須郡秋月。私はここで生まれ育った。目鏡橋という、秋月の町への入り口に掛かる
	石橋のすぐ下にあった母の実家でこの世に生を受けた。正確には、生まれた所は長谷山という秋月の隣の字(あざ)だが、学
	区は秋月だったし、生活はほとんどこの町とともにあったと言っていい。秋月藩米倉跡に建っていた小学校に通い、秋月藩城
	址に建っていた中学校に通った。初恋の女の子もこの町の子だったし、私にとって秋月は、まさしく「青春の城下町」だった
	のだ。
	だが、私は子供の頃から、この町に住み着く気はなかった。山峡の、不便きわまりない田舎町で、とても一生を送る気はしな
	かった。「俺の住む世界はここじゃない!」「俺はこんな所で埋もれてしまうような男じゃない!」東京が、世界が俺を待っ
	ているのだと自らに言い聞かせ、日夜飛躍する自分を夢見ていた。高校は甘木市にある高校を選び、家から秋月とは反対方向
	へ通うことになった。そして大学は福岡へ行き、福岡の街に下宿して私の意識から秋月の町はだんだん遠ざかっていった。や
	がて卒業して私は横浜の会社に就職し、京都に近い大阪勤務を希望した。途中3年間の東京転勤があったけれども、博多の街
	を去り大阪に住んで、もう30年になる。博多の人をWIFEにし、子供ももう2人とも大学生で、一人はこの春卒業する。秋月
	を離れてからはもうじき40年になろうとしている。
	そんな中で、仕事の合間、山登りや BIRD Watchingといった趣味を持っていた私が、45歳を過ぎた頃から歴史研究にのめり
	こんだ。遺跡巡りや講演会や歴史旅行に勢を出すようになった。生まれ故郷の甘木市は、産能大学教授の安本美典氏が唱えた
	「邪馬台国=甘木・朝倉説」の本家本元であるし、昔から歴史に多少の興味はあったのだが、しかしそれは世間一般の常識の
	範囲を超えるものではなかった。「歴史倶楽部」を主宰するようになって、そのうち、「日本人はどこから来たのか?」とい
	う大命題を追求しているうちに、なんと私の追い求めているものは、初めからこの故郷にあったのではないかと思うようにな
	った。邪馬台国、騎馬民族、記紀神話の里、大和朝廷の起源、これらはみな、故郷甘木・朝倉と、それを取り巻く北九州のど
	こかの話ではないのか? こういう思いをHPに綴るようになって、そのうち、「秋月」についても私は語る義務があるので
	はないかと思いはじめた。
	顧客を接待して、或いは部下や業者達と、大阪の「北の新地」を毎晩毎晩飲み歩き、いつしか私がカラオケで最後に唱う歌は
	「青春の城下町」になっていた。どの店にいようと、ママも店の女の子達も私がこの歌を歌うまでは帰してくれない。逃げる
	ようにして故郷を離れた者にとって、捨てた故郷を省みるのは、特に若い内はつらい。しかし私ももう50歳を過ぎた。そう
	そう、先の長い人生ではない。目一杯の無沙汰を詫びて、郷愁に浸りながらその想いを語る事で、「秋月」は、もうぼちぼち
	私を許してくれても良さそうなものだと思う。
邪馬台国大研究ホームページ / 青春の城下町 /chikuzen@inoues.net