Music: 雅曲:霧隠れ





忍者の里 赤目四十八滝
 




 






	98年8月の終わり、伊賀忍者の修験場であったという伊賀・赤目の四十八滝を訪ねた。うっそうとした林の中や、岩ごつ
	ごつの川筋を行く事1時間で「百畳岩」へ至る。途中は、さすがに48滝というだけあって、滝また滝である。大小、急緩、
	高低とさまざまな滝が我々の目を楽しませてくれる。
	ものの本等によれば、百地三太夫一族はこの赤目一帯を修行の場として日々鍛錬に励んでいたと言う。こんなツルツルした
	岩の上を走りながら、手裏剣を投げたり撒き菱を撒いたりしていたのだろうか?



  


	現在では近畿圏の格好のハイキングコースになっている。紅葉の季節などは人の列が続く。我らがクラブのアイドル乾さん
	とのツーショット。ほんとはこの後ろに東江さんがじゃまくって顔を出しているのだが、うっとうしいのでカットした。

 


	往復3時間半ほどで渓谷の入り口へ戻る。予約しておいた、赤目では大きな「対泉閣」という旅館で一風呂あびてすこし遅
	めの昼食。この旅館の風呂は内風呂と外風呂(露天風呂)と男女2つづつあり、それぞれ、「くのいちの湯」「上忍の湯」
	(内風呂)、「かげろうの湯」「半蔵の湯」(露天)と名前がついている。我々が入っているのが「半蔵の湯」。入浴料込
	みで3,500円という値段だったが、昼食の豪華さには驚いた。山の中なのに、海鮮と肉が山ほど出た。ビールもたらふく飲ん
	だし、もう何も要らない。

  


	食事の後、みんなで旅館の中を物色していると、忍者コーナーがあり、どこから持ってきたのか、忍者Goodsが並べられてい
	た。聞くと、この旅館のオーナーがどうも一族の末裔ではないかという話だった。(オーナーに確かめた訳ではないので、
	真偽のほどはさだかでない)



ズラリと並んでいる忍者Goods。すべて本物である。ほんとにこんなものを使って斬り合いをしていたという実感がなかなか湧かない。

 


	忍者の里と言えば、伊賀上野が有名である。私も二度ほど行った事があるが忍者屋敷や資料館などがあり、又忍者屋敷では
	俳優が演じるアトラクションなども見る事ができた。今では、忍者屋敷は伊賀流忍者博物館として生まれ変わったそうであ
	る。忍者屋敷はもともと、忍者屋敷、忍術資料館、忍術科学館で構成されていたらしいが、忍術資料館が忍術体験館、忍術
	科学館が忍者伝承館となり、忍者屋敷を含め総称を伊賀流忍者博物館というようだ。 体験館では見学者が、実際に忍者と
	なってさまざまな体験ができるらしい。


 


	又、今日では伊賀のみでなく日光や伊勢やほかにも数カ所で忍者アトラクションを観光として楽しめる。女性はいざ知らず、
	男性は幾つになっても忍者ということばの響きには格別の想いがある。団塊の世代前後の男性で、子供の頃忍者遊びをやら
	なかった者はほとんどいないといってもいいだろう。霧隠才蔵、猿飛佐助、百地三太夫、白雲斎、赤影・青影、あらゆる人
	物になって、木の上や川の中を闊歩した。手製の手裏剣や巻き菱を造り、投げては又敵の陣地へ拾いにいったりしたもので
	ある。聞けば、大人になってもそういう遊びをして童心に還っている人たちがいるそうで、各種忍者 Goodsも販売されてい
	るそうだ。もしこのHPをご覧の方でご希望の方がおられれば、以下にアドレスをお教えしておく。通信販売で買えるそう
	である。

忍者Goods販売所




	忍術の元となった、基本的な武道体系は中国にあるとされる。遣唐使が唐から持ち帰った兵法書「孫子」にその祖形があ
	ると言われるが、何時頃忍術としての完成を見たのかは定かでない。そもそも忍びの術なのだから、兵法書に書き残す
	ような性質のものでは無かったはずである。
	忍者が歴史に登場するのは一体何時の頃か? という質問には、大抵の人が江戸か、或いは戦国時代と答える事だろう。
	織田信長が各地に放ったスパイは、敵の城下町の様子や城の見取り図を信長の元へ持ち帰ったし、江戸時代に家康が重用
	した服部半蔵や「公儀隠密」「お庭番」という言葉はあまりにも有名だからである。
	しかし戦国時代に活躍するとすれば、その原型はもっと前に出来上がっていないとおかしい。実際のところ歴史に現れる
	忍者は、実は聖徳太子の時代なのである。奈良時代である。聖徳太子の側近に志能便(しのび)と言う名前(?)の人物
	のいた事が、記録に残っている。この人物が何の役割を担っていたのかは不明であるが、その名前からして表向きの仕事
	ではなかっただろうと推測できる。
	しかし今日言う忍者とは、主に戦国時代から江戸時代に大名や有力者から雇われていた間者の事を言い、正当な武士では
	なく、世に隠れ住む隠遁集団の事であった。武士の仲間入りをするのは江戸時代になってからである。柳生一族も、ずっ
	と昔は山の中の間者集団では無かったかという説もある。又、今は誰も証明した者はいないが(後述)、昭和の初めまで
	日本に実在していたとされるさんか(山家、サンガ等)は、実は忍者集団の末裔であるという人もいる。


	
	(*)サンカについては、作家の三上寛が、東洋大学の博士号取得申請論文として提出した「サンカ社会の研究」が、我
	が国唯一のサンカに関する学術資料であって、ほかにはまとまった研究がない。そのため、サンカの存在そのものを疑う
	人たちもいるが、古老達に聞けば、確かにそういう人たちがいたという返事が返ってくるのである。もしそういう人たち
	がほんとに実在したのなら、これは(サンカの存在を証明できない)日本の民族学の一大汚点であろう。


 


	忍者には階級があった事もよく知られている。「上忍」「中忍」「下忍」である。「上忍」は最高位で、「中忍」は上忍
	の補佐役、「下忍」は実働部隊だが、あまりに過酷な労働なのでやめる者がいてこれを「抜け忍」と言うが、「抜け忍」
	という言葉は記録にはない。おそらくは、後世の作家、歴史家達が造語したものだろうと言われている。
	現代より戦国時代の方が、情報の重要性は高かったに違いない。人よりいかに早く、多く、情報を手に入れるかで勝敗が
	決まる事もあったのだ。 信長に限らず、戦国の大名たちはスパイを全国に派遣し、相手の出方を探っていた。武田信玄
	の間者 も有名である。城下に噂を流したり、家臣と主君の仲違(たが)いを利用して寝返りを画策したり、城や陣地に
	出入りする商人達に金を与えて情報を入手していた。まるでCIAやFBIのようだ。


 





	「対泉閣」案内。(別にCM料を貰っているわけではない。)
	
	阪方面から近鉄特急「名張駅」まで行き(1時間39分)。
	反対方向行きの各停に乗り換え、一つ大阪寄りの「赤目口」下車。
	テクテク歩けば1時間ほどだが、予約しておけば「赤目口」
	で専用バスで迎えにきてくれる。20人ほど乗れる。
	ここから赤目滝の渓谷入り口までは4,5分。入り口に
	オオサンショウウオの飼育センターがあり、ここでの入場券を
	買わないと渓谷へたどり着けないようになっている。
	50mほど両脇に土産物屋がならぶ。
	
	「対泉閣」 三重県名張市赤目町赤目四十八滝
	(予約受付)0595-63-1126


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