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山鹿素行生誕地 2005.4.2(土)福島県会津若松市







	タクシーの運ちゃんはここを知らなかったが、実は私もここへ来るまで会津若松が山鹿素行の生まれ故郷とは知らなかっ
	た。観光案内地図で見つけてここへ連れてきて貰った。そもそもは、素行の祖父が蒲生氏郷に付いて伊勢から移ってきた
	ようだが、以下の解説にあるような系譜よりも、我々は、忠臣蔵の「一打ち、二打ち、三流れ、これぞ山鹿流の陣太鼓!」
	で山鹿素行を知っている。ただ、太鼓の叩き方を教えただけじゃなかったんだ。




	<山鹿素行> 学者、儒学者。元和8年−貞享2年(1622−1685) 

	陸奥国会津若松で生れる。名は高興・高祐、幼名は佐太郎、字は子敬、通称は甚五左衛門、号は陰山のち素行。父は貞以。
	6才で父と共に江戸に出る。9才で1630年(寛永7)林羅山の門人となり朱子学を学ぶ。甲州流軍学者小幡勘兵衛のも
	とで兵学を修める。1652年31才の時に、赤穂藩主浅野長直に禄高一千石で仕えた。1660年(万治3)赤穂藩を致
	仕して江戸に帰る。素行の教えは武士社会に大きな影響をあたえた。忠臣蔵の大石内蔵助ら赤穂藩士、幕末の吉田松陰も
	山鹿流を学んでいる。

 


	素行は武人として実践的な孔子の教え(聖学)の原点に帰ることを主張し、武士道を政治哲学まで高めた(山鹿流兵法)。
	独自の武士道論で知られる山鹿素行(1622〜1685年)は、赤穂に住んだ10年間、藩主の浅野内匠頭や、大石内蔵助ら四十
	七士を薫陶した。また素行の思想は、吉田松陰や乃木希典の生き様に体現され、脈々と受け継がれ、日本的道義を支えて
	きた。道義外交を唱えた興亜論者の思想と行動の中にも、素行の思想的影響ははっきり見られる。

 


	1665年(寛文5)幕府官学である朱子学の観念論化を批判して『聖教要録』を著し、原典復古主義と実践主義とを唱導。
	伊藤仁斎と並んで古学派の祖と称される。このため幕府に忌まれ、時の執権会津藩主保科正之は、朱子学批判の罪で素行
	を翌年再び赤穂藩に配流する。1675年(延宝3)許されて江戸に帰る。山鹿流兵学の祖として武家主義の立場をとり、
	武士階級を擁護。『中朝事実』において独特の日本主義思想を展開。他著書に『配所残筆』『山鹿語類』『武家事紀』な
	どがある。


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