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会津若松城 2005.4.2(土)福島県会津若松市





	<鶴ヶ城>
  
	会津若松市のシンボルとも言える鶴ヶ城は、数多くの戦国大名が治め、幕末戊辰の戦役でも有名である。この城は現在、
	本丸が「鶴ヶ城博物館」として貴重な資料が展示公開されている。また 城の周りに広がる公園は石垣や桜が美しい、市
	民にも人気の高い行楽地になっている。

	会津は戦国時代から江戸時代にかけて、葦名・伊達・蒲生・上杉・保科・松平と数多くの大名が治めた。また、幕末戊
	辰戦争では旧幕府派(東軍)として最後まで抵抗したため、会津が激しい戦場となった。悲劇として有名な「白虎隊」
	はこの戊辰戦争でのエピソードである。



 


	■戦国時代

	東北地方は、中央の支配から半独立状態を保ち、11世紀から12世紀にかけては平泉(岩手県)を中心とした奥州藤
	原氏が強大な勢力を誇っていた。平家を滅ぼした源頼朝は、文治5年(1189)、弟・義経の討伐をきっかけに奥州藤原
	氏を討ち、征夷大将軍に任じられて鎌倉幕府を開き、東北地方を支配下に置いた。これに伴ってたくさんの鎌倉御家人
	が奥州に領地を与えられた。
	文治5年(1189)源頼朝が奥州の藤原氏を滅ぼすと、その領地は鎌倉の御家人たちに与えられた。佐原義連は会津盆地
	一帯を、山内通基は大沼郡の伊北郷を、長沼宗政は会津郡の南山を、河原田盛光は伊南郷を与えられた。源頼朝が東北
	を支配下に置いた後、会津北部は佐原義連に領地として与えられたが、この一族から葦名氏(あしなし)が出現する。
	葦名は佐原一族の中で徐々に勢力を強め、会津守護職と言われる支配構造を確立した。その葦名氏が建てた東黒川館が、
	現在の「鶴ヶ城」の前身と言われる。 



 


	建武年間の動乱で鎌倉幕府が滅亡し、盛宗の子盛員が北条氏に味方し戦死したことから、盛員の子直盛は鎌倉における
	勢力を失い14世紀後半に会津に入りし、佐原一族をはじめ在地の勢力と会津の覇権をめぐって血で血を洗う抗争を続
	けることとなる。
	建武2年(1111)六代葦名盛員は北条時行の乱に味方して足利尊氏と戦い、子の高盛とともに討死にしたので、高盛の
	弟直盛が七代を継いだ。直盛は小高木(小田垣)に館をつくり、東黒川館と名づけた。これが鶴ヶ城のはじめと伝えら
	れ、昭和59年に築城600年を迎えている。「新編会津風土記」によれば、「後小松院至徳元年葦名直盛の築く所に
	て安部某と云う者をしてこの地を祝祭せしめ鶴ヶ城と名く 或いは黒川城とも称す」とある。








	天文12年(1543)十六代葦名盛氏が山内、河原田氏を降し、約100年の間各地で争った会津地方も、ここに戦乱の
	終止符を打ち、盛氏の支配下におかれた。葦名氏が戦国大名として、頂点に達したのはこの盛氏の時代である。盛氏は
	伊北郷(只見川流域)の山ノ内氏、猪苗代の猪苗代氏などを相次いで従え、南山鴫山城(田島町)の長沼氏を除く会津
	一円を支配下に収めた。さらに天文19年(1550)安積郡三春城主の田村隆顕を敗って仙道(福島県中通り)に進出し、
	永禄年間には二本松城主の畠山氏、須賀川城主の二階堂氏を従え、白河城主の結城白川氏と同盟して常陸の国(茨城県)
	の佐竹氏や出羽国(山形県)の伊達氏と戦った。越後の国(新潟県)の長尾・上杉氏に対しては、狐房城(新潟県津川
	町)を拠点として蒲原地方に勢力を伸ばすなど、奥州屈指の戦国大名として名声を高めた。その結果、永禄6年(1563)
	の室町幕府の「諸役人附」において大名として認められ全国50余人の中で奥州では伊達氏と並んで名を連ねるほどに
	なり、葦名氏中興の祖として仰がれた

 

 


	戦国武将として活躍した盛氏だが、黒川を城下として発展させるかたわら、水墨画の巨匠雪村を会津に招くなど、室町
	文化の良き理解者でもあった。雪村は雪舟亡き後、日本の水墨画の第一人者だった。天文15年(1546)会津を訪れ、
	天正元年(1573)安積郡三春へ移るまで、20数年間を盛氏のもとで過ごし、会津若松の金剛寺に伝えられている、市
	指定文化財「瀟湘図屏風」をはじめ優れた作品を残した。
	永禄11年(1568)盛氏は家督を盛興に譲り、自分は岩崎山の向羽黒山(会津本郷町)に隠居城を築いたが、盛興は病
	弱で嫡子を残さずに亡くなり、二階堂盛義の子盛隆を養子に迎えた。ここから葦名氏は衰退し、天正8年(1580)盛氏
	が亡くなると、葦名氏の血をひかない盛隆に対する反抗が強まり、ついに盛隆は家臣に殺害された。その子十九代亀王
	丸は天正14年(1586)わずか3歳で亡くなり、その後に伊達政宗の弟小次郎を迎えるか、佐竹義重の子義広を迎える
	かで、大きな争いとなった。その結果、義広が迎えられたが、佐竹氏から送られてきた家臣と葦名氏の家臣の対立は日
	に日に強まり、名族葦名氏は大きな危機を迎えることとなった。 




	盛氏の死後、葦名氏と並ぶ有力な戦国大名だった伊達政宗は、仙道(福島県中通り)の支配権を着々と固めていた。
	政宗は、葦名氏に背いた猪苗代盛国の内応によって、天正17年(1589)猪苗代城に入った。そのころ葦名義広は、父
	佐竹義重とともに伊達領を攻めるため須賀川へ出陣していたが、政宗が猪苗代へ入城したと知らされ、黒川へとって返
	し、直ちに猪苗代方面へ軍を向けた。この時攻める伊達氏の兵力は内応した猪苗代勢を加え2万3千、守る葦名氏の兵
	力は1万6千と言われる。
	天正17年6月5日に、総勢4万にも及ぶ両軍は磐梯山麓の摺上原に対陣し、午前6時に戦いの火蓋が切られた。葦名
	の先陣富田将監は奮戦して伊達勢を切り崩したが、足並みのそろわない葦名勢はこの好機を生かせず、午後になって西
	風が東風に向きを変えた頃から戦況は急転し葦名・伊達の命運をかけた決戦は伊達勢の一方的な勝利となった。
	敗れた義広はわずかばかりの兵とともに黒川へ、そして常陸へと逃れ、戦国の雄葦名氏は、4世紀にも及ぶ会津支配に
	終わりを告げた。その後、義広が江戸初期、佐竹氏の秋田移封にともなって角館へ移り、桜で有名な美しい城下町を築
	いたことはあまり知られていない。




	葦名氏を滅ぼした伊達政宗は6月11日の雨の中、黒川城へ入城し、その時伊達政宗がうたったのが「さんさ時雨」と
	伝えられている。政宗は、現在の山形県・宮城県・福島県の三県にまたがる広大な領地を得て奥州の覇権を確立し、さ
	らに関東への進出をねらった。しかし世はすでに豊臣秀吉の政権が確立され、天正18年(1590)の小田原攻めで全国
	の支配を決定的にしたため、天正18年(1590)、政宗は秀吉に従い、会津の地を手放して陸奥国岩手山(宮城県)へ
	と移り、政宗の会津支配はわずか、1年余りで終わりを告げた。

	同年、戦国の英雄・織田信長の寵臣で、信長の娘・冬姫と結婚していた、伊勢松坂(三重県)の領主蒲生氏郷(がもう
	うじさと)に、会津、仙道十一郡が与えられた。現在の会津若松の基礎は彼によって築かれたと言ってよい。
	黒川を会津と改めたのも蒲生氏郷である。文禄元年(1592)氏郷は秀吉にしたがって九州名護屋にくだり、朝鮮の役へ
	加わった。その間、六月から黒川城の改築を中心に城下町の建設がはじまった。六月には七層の天守閣をもつ城郭の改
	築とともに、城下町の建設がほぼ完成し、はじめて家臣団の住む郭内ができ、庶民の住む郭外とは土居と外堀で分け、
	黒川を若松と改め、城の名を鶴ヶ城と命名した。
	文禄4年(1595)二月七日、氏郷死去。享年四十歳。九州征伐・小田原征伐の功によって会津40万石を受領し、後に
	92万石の領主となり、文武両道に優れた人材だったが、わずか40才でこの世を去った。時の名医、曲山瀬三によれ
	ば、死因は下毒症とされているが、あまりにも若すぎる死にいくつかの謀殺説も伝えられている。遺骸は京都の大徳寺
	昌林院に葬られ、遺髪が若松の興徳寺に葬られた。氏郷のあとは、子の秀行が継いだが、13歳の若さで家中を統率で
	きないという理由で、慶長5年(1598)下野国宇都宮に18万石で転封となった。氏郷未亡人である冬姫が秀吉の意に
	従わなかったからとも伝えられる。
	氏郷の功績は、今も会津若松市民たちの生活に大きな影響を残しているようだ。大町の十日市は会津の正月を彩る一大
	イベントだし、夏のお日市はまちまちの風物詩として親しまれている。氏郷が近江国から移入した漆器と酒造は、歴史
	と自然に恵まれた郷土会津を代表する2大地場産業として全国に知られている。会津若松市民が今も郷土の恩人として
	氏郷を讃えていることも当然かもしれない。  

 


	慶長3年(1598)、宇都宮に18万石で転封された蒲生秀行に代わって、上杉景勝が三月に越後から会津へ入る。景勝
	は会津、仙道、長井(米沢)、庄内、佐渡など120万石の地を与えられた。上杉景勝は、有名な上杉謙信の養子にあ
	たり、上杉の家督を継いだ人物である。豊臣秀吉の五大老の一人だったが、秀吉亡き後、徳川家康と対立する。慶長5
	年(1600)2月、反徳川として景勝は石田三成と結んで各地の城を修築したばかりでなく、神指ヶ原に新たな城の造築
	をはじめた。景勝は、鶴ヶ城が山に近く、拡張にも不便であったので、家康との対決に備えて神指の地に新城を築くこ
	とにし、8万とも12万とも言われる人夫を集めて取り掛かったが、景勝と家康の対立が激しくなり、ついに家康が会
	津攻めを決断したので中止された。その跡は会津若松市神指町に今も残されている。
	6月家康は景勝を討つため会津出征に出発。しかし小山に到着したとき石田三成の挙兵を聞いて反転する。これが関ヶ
	原開戦である。9月、家康は関ヶ原の戦いに大勝し、伊達氏、最上氏、堀氏などの近隣諸侯を相手に奮戦していた景勝
	も家康の軍門にくだり、翌慶長6年(1601)9月、景勝は出羽米沢に30万石で転封された。 

 	蒲生氏郷の子・秀行は徳川の娘を妻とし、関ヶ原の戦いでは徳川に従い、上杉の南下に備えた。その功績で再び会津に
	60万石で封じられた。蒲生秀行は町方の振興に努めるが、大地震や干ばつに悩まされ、若くして亡くなる。慶長16
	年(1611) 8月に会津地方で大地震があり、人家、社寺の倒れたものが多く、また各地に山崩れがあり、死者3700人と
	いわれている。秀行は心労で死去したのである。その後、蒲生家は家中の乱れや、家長の若死が続き、わずか四代で途
	絶える。寛永4年(1627)1月、4代目蒲生忠郷が25歳の若さで世を去った後、賤ヶ岳七本槍で名高い加藤嘉明が伊
	予松山(愛媛県)から移封された。嘉明に代わって松山に入ったのが忠郷の弟忠知だが、この忠知も30歳で嗣子を残
	さずに亡くなったため、織田信長と徳川家康の血をひく名族蒲生氏は、ここに完璧な終焉を迎えた。 

















	■江戸時代

	加藤嘉明は若くして豊臣秀吉に仕え、勇名をはせた典型的な戦国武将である。秀吉の死後石田三成と対立し徳川につい
	たため、後に伊予松山(愛媛)に20万石を与えられた。そして会津を治めていた蒲生氏が途絶えたことから、40万
	石で伊予松山(愛媛)から会津に転封。その後、城の改修と領内の整備を進める。彼の行った城の改修で鶴ヶ城は現在
	の姿になった。嘉明は会津に入ると検地を実施し、村々の石高を調べて所領を確定する一方、これまで背あぶり峠を通
	っていた白河への街道を滝沢峠の新道に改めるなど、領内の整備に努めた。また、火に通じる名称を嫌って、城下の日
	野町を甲賀町、背あぶり峠を冬坂峠などに改称させた。こうして嘉明は領内の経営に尽力したが、寛永8年(1631)、
	69歳で死去した。嘉明の後を継いだのは嗣子の明成で、寛永16年(1639)に鶴ヶ城の大改修に着手した。しかしこ
	うした城の大改修は、もはや江戸幕府の好む所ではなく、寛永20年(1643)に重臣の堀主水事と明成が対立し、堀主
	水事は無断で会津をでた。これを幕府に咎められた明成は弁明できず、結局会津40万石は取り潰しとなった。
	加藤氏が40万石の封士を召し上げられると、保科正之が最上(山形)から転封となり、会津四郡23万石を与えられ
	るとともに南山5500石余の幕府領を預かることとなった。慶安4年(1651)将軍家光の臨終にあたり、その子家綱
	が幼かったので正之が後見人となった。寛文8年(1668)正之は家訓十五条を定め、子孫への遺訓とした。これがその
	後の会津藩の政治大綱となる。元禄9年(1696)三代目正容は、将軍の命により、松平の姓と葵の紋を用いることにな
	った。 



 

 




	保科正之は二代目将軍・徳川秀忠の庶子である。秀忠は正室の怒りをおそれて、実子として認めなかったため、信濃の
	保科正光の養子として育った。秀忠の生前は父子としての対面はなかったが、3代将軍家光は正之を実弟として認め、
	寛永13年(1636)には出羽山形20万石、寛永20年(1643)には、会津23万石と高遠3万石と加えた破格の待遇
	をうけることとなった。正之は会津に入ると領内を巡視し、民政18条や郷村収納の法をはじめ数々の法令を定めて領国
	内の支配構造を確立した。また家訓十五条を定めて、徳川本家に対する忠誠や藩士の心構えを明らかにし、会津松平藩
	政の精神的な柱とした。さらに殉死を禁じて戦国の気風を断ち切り、神社を再興して仏事を抑え、会津風土記を編纂し
	て領内の由来を明らかにするなど、9代続く会津松平藩の基礎を築きあげた。
	3代将軍家光が死去すると、その遺言によって正之は4代将軍家綱の後見となり、11歳の将軍の養育に努めた。とり
	わけ、戦国の気風を伝える徳川3代の武断政治を改め、朱子学を中心とする文治政治への転換を図り、徳川幕府三百年
	の基礎を確立した功績は大きなものがある。正之が寛文12年(1672)62歳で死去すると、その子正経、ついで正容
	が後を継ぎ、この正容の代に松平の姓と葵の紋を幕府から与えられ、徳川親藩に組み込まれることになる。正之は謹直
	な名君であったが、その朱子学的な保守姿勢は、会津藩の精神風土となり、ともすれば時流に遅れがちな気風を残すこ
	とにもなった。 



	 ■家訓15か条・全文   

	一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
	  若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
	一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず
	一、兄をうやまい、弟を愛すべし
	一、婦人女子の言 一切聞くべからず
	一、主をおもんじ、法を畏るべし
	一、家中は風儀をはげむべし
	一、賄(まかない)をおこない 媚(こび)を もとむべからず
	一、面々 依怙贔屓(えこひいいき)すべからず
	一、士をえらぶには便辟便侫(こびへつらって人の機嫌をとるもの
	  口先がうまくて誠意がない)の者をとるべからず
	一、賞罰は 家老のほか これに参加すべからず
	  もし位を出ずる者あらば これを厳格にすべし。
	一、近侍の もの をして 人の善悪を 告げしむ べからず。
	一、政事は利害を持って道理をまぐるべからず。
	  評議は私意をはさみ人言を拒ぐべらず。
	  思うところを蔵せずもってこれを争うそうべし 
	  はなはだ相争うといえども我意をかいすべからず
	一、法を犯すものは ゆるす べからず
	一、社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり 
	  歳餓えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず
	一、若し志をうしない 
	  遊楽をこのみ 馳奢をいたし 土民をしてその所を失わしめば
	  すなわち何の面目あって封印を戴き土地を領せんや必ず上表蟄居すべし

	  右15件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
	  寛文8年戊申4月11日


 

 

 

 

 




歴代区分
年 号
年代
主な出来事

至徳元年
1384 芦名直盛が黒川城を創営し、
ここから600年の歴史が始まる。
天文22年
1553 盛氏黒川城主となる。






天正17年
1589 伊達正宗が黒川城に入城する。
天正18年
1590 蒲生氏郷会津藩主として黒川城に入城。
文禄2年
1593 七層の天守閣完成。黒川を若松に改め、町割りを作る。また城の名前も鶴ケ城と命名。
慶長3年
1598 上杉景勝が会津入りし、出羽3郡、佐渡3郡を加えて120万石を領する。
慶長6年
1601 上杉景勝が米沢に転じ、蒲生氏郷が再び会津に転封。
寛永4年
1672 松山から加藤嘉明が会津に転封。
寛永16年
1639

幕命により七層の天守閣を五層に改める。
(鶴ヶ城が現在の姿になる)

寛永20年
1643 明成会津40万石を幕府に奉還。
三代将軍家光の弟・保科正之が最上から23万石で転封。
元禄9年
1696 将軍の命により松平姓と葵の紋を用いる。
文久2年
1862 容保京都守護職を命じられる。
慶応4年
1862 伏見・鳥羽の合戦。
容保会津へ帰る。
奥州越列藩同盟成る。
鶴ケ城開城する。
近 代
明治7年
1874 会津鶴ケ城が廃城となる。
現 代
昭和40年
1965 鶴ケ城再建工事落成。
昭和59年
1984 鶴ケ城築城600年記念式典挙行。
平成2年
1990 茶室麟閣を鶴ケ城本丸内に移築。
平成13年
2001 干飯櫓・南走長家を復元。

 

 


	■幕末・戊辰戦争

	今日、会津の名を全国に知らしめている大きな要因に戊辰戦争がある。戊辰戦争は1868年・鳥羽伏見の戦いから始まっ
	た日本最後の内戦で、旧幕府軍と新政府軍が激しく戦った。武士が互いに殺し合い、罪もない老若男女が死骸を積み重
	ね、町家は火に焼かれ、田畑は兵馬に踏みにじられた幕末の内戦である。会津は旧幕府軍として最後まで抵抗したが、
	最後には降伏することになる。悲劇で知られる白虎隊や新選組など、多くの英雄が活躍し、その命を落としたのもこの
	戦争である。

 

 

 



	会津藩の名家老・田中玄宰の藩政改革によって実力を蓄えた会津藩は、幕末の動乱期において数々の幕命を受けること
	になる。その最初は北辺警備で、ロシア侵攻に備えるため樺太、蝦夷地に出兵し、ついで江戸湾の警備にあたり、黒船
	に備えて房総半島、三浦半島、そして品川沖に砲台を築いた。そして最後に来たのが戊辰の悲劇を生んだ京都守護職だ
	9代藩主の容保は、美濃国高須藩主(岐阜県)の六男として生まれた。嘉永5年(1852)八代藩主松平容敬が死去し、
	容敬に男子のなかったことから、12歳で養嗣子に迎えられ、同年18歳で藩主となった。当時の会津藩は、田中玄宰
	による実学尊重の精神が藩祖正之以来の保守的な学風へもどりつつあり、正之の残した家訓の第1条「大君の義 一心
	大切に忠勤に存ずべく」とある徳川本家への忠誠心は不可侵のものになっていた。




	そうした中にあって、幕府は尊皇攘夷派が横行する京都の状況に手を焼き、雄藩をもって京都守護職を設けることにし
	た。いくつかの藩が候補にあげられたが、最後に白羽の矢は会津藩へ向けられた。藩内においても家老西郷頼母はじめ
	自重論が根強かったが、家訓をたてに受諾を迫る幕老に容保は従わざるをえなかった。そして、文久2年(1862)容保
	は、千名の精鋭を引き連れて京都へ向かい、黒谷の金戒光明寺に本陣を構えた。容保の実弟で、桑名(三重県)松平家
	11万石を継いだ定敬が京都所司代を命じられて、会桑両藩による京都の治安維持がはじまり、容保兄弟は尊重攘夷派
	の恨みを一身に受けることになる。慶応2年(1866)七月に京都で「蛤御門の変」が勃発し、間もなく征長の戦いがは
	じまった。そんな中、容保は生来の謹直さから孝明天皇の信任をうけた。しかし、容保の公武合体の夢も慶応2年(18
	66)頼みの孝明天皇が急逝すると一転して悲劇の道を進むことになる。




	慶応3年(1867)11月、薩長両藩を中心とする倒幕派が攻勢に転じると、十五代将軍慶喜は大政奉還し、徳川家を中心
	とする天皇親政を目指すが、倒幕派の策に敗れると一転して大坂より兵を進め、慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見で
	戊辰戦争は火蓋を切った。戦意にあふれ、兵装を近代化した新政府軍の前に幕軍は大敗し、ついに江戸開城によって徳
	川三百年の歴史は終わりを告げた。
	しかし、弟定敬ともども朝敵の筆頭にあげられた容保にとって、これからが悲劇のはじまりだった。2月容保は会津に
	帰って謹慎したが、4月、奥羽越の諸藩と同盟ができた。容保は、恭順を主張する家老神保修理を切腹させ、軍制を改
	革して朱雀・青龍・玄武・白虎の諸隊を設け、洋式銃を買い集めるなど、来るべき新政府軍との戦いに備えはじめた。
	こうして5月には奥羽越列藩同盟が成立して、新潟から東北にかけての諸藩は、新政府軍との武力衝突をはじめたので
	ある。戦争は4月中旬から、東方は中通方面、西方は越後方面、南方は日光方面で起こった。
 


	初戦では新政府軍の兵力不足もあって列藩同盟は善戦するが、越後長岡城(新潟県)や二本松城の落城のころから戦雲は
	急速に傾き、8月20日には新政府軍に会津攻撃の勅命が下った。福島へ通じる街道の母成峠から会津に侵入してきた
	新政府軍は、白虎隊などの予備兵の抵抗を蹴散らし、8月23日には鶴ヶ城を囲んだ。この時、白虎隊士中二番隊や西
	郷頼母一族の自刃など、幾多の悲劇が生まれた。

 


	孤立無援の中で容保は籠城した。蒲生氏郷が築き、加藤明成が改修した鶴ヶ城はさすがに名城で、1ヶ月にもおよぶ戦
	闘に耐え続けたが、しかし、援軍も見込まれない中、昼夜に及ぶ砲撃にさらされ、ついに9月22日、容保は降伏を決
	意する。篭城1ヶ月、ついに鶴ヶ城は開城した。この日容保父子は三千の家臣に別れを告げ、妙国寺で謹慎した。
	藩主容保以下の将兵は、猪苗代や塩川などに謹慎して敗戦処理を待った。その結果、家老萱野権兵衛の切腹によって会
	津松平家の断絶はまぬがれ、容保の子・容大に斗南藩3万石(青森県東北部)が与えられた。ここでの会津藩士たちの
	暮らしもまた、後々悲劇の物語として語り継がれるのであるが、とにかく、北辺の酷烈な地を目指し、山川浩をはじめ
	とする沢山の会津藩士とその家族が会津を去っていった。

 

 


	後に同志社大学創立者・新島譲の夫人となった山本八重子が、城を去るにあたって白壁に刻んだ一首が、

	「明日よりは 何処かの誰か眺むらむ 馴れにし大城に 残る月影」 である。

	現在、9月22日に会津秋まつりが開催されているのは、戊辰戦争に倒れた先人の霊を祀るためでもある。











 

 



 

 





 

 



 

 



 





 

 


	<鶴ヶ城三の丸(つるがじょうさんのまる)>

	加藤嘉明の時代までは、東の三の丸側が鶴ヶ城の正面(大手口)であった。出丸の中では最大の面積がある。明治41年
	に若松に聯隊が設置されると三の丸は練兵場となり、堀や土塁などが整地され消滅。戦後は市営プール、陸上競技場、県
	立博物館などが建てられ昔の面影はない。わずかに県立博物館建設のおり発掘された堀の輪郭が、建物裏の芝生にさつき
	の花列によって表されている。また文学碑や歌碑も多い。






	<秋月胤永(あきづき かづひさ)> 文政7年〜明治33年(1824〜1900)

	通称秋月悌次郎。藩校日新館に学び、のちに昌平坂学問所に入った。京都守護職になった藩主松平容保にしたがって、公
	用方として諸藩との交渉、公武合体の融和に尽力した。戊辰戦争では軍事奉行添役として越後方面に出陣、開城時には米
	沢へ手代木勝任と共に降伏の使者にたち、禁固され明治5年赦免となる。その後太政官から各高等学校の教職に就き、明
	治28年熊本第五高等学校を最後に退職した。五高時代の同僚にラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がいる。

 






週刊ポスト 2008年10月


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