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会津・蒲生氏郷の墓 2005.4.2(土)福島県会津若松市




 


	会津若松市神明通りの東裏、「興徳寺」の本堂東側にある。瑞雲山興徳寺は臨済宗妙心寺派の寺で、秀吉が奥羽仕置のため
	会津へきたとき三泊したほどの大寺院であった。蒲生氏郷の墓は空風火水地の五文字を刻した五輪塔で、京都大徳寺の本墓
	から分骨したものと伝えられる。墓前には、「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」の辞世の歌碑がある。
	これは会津史談会が昭和28年に氏郷公360年祭を記念して建てたものである。

	上右が私の乗ったタクシー。運転手さんがしきりに私の持っていた地図で、この後行った「山鹿素行の生誕地」を確認して
	いた。この、蒲生氏郷の墓へはよく客を乗せて来るそうだが、「山鹿素行誕生地?そんなんあるん?行ったことないなぁ。」
	というわけで必死である。ここからすぐそこだった。






	蒲生氏郷(がもううじさと)

	弘治2年〜文禄4年(1556〜1595) 戦国〜安土桃山時代。織田氏家臣。蒲生氏当主。幼名「鶴千代」。「忠三郎」「賦秀」
	「教秀」。後、キリスト教の洗礼を受け「レオン」。
	近江国日野城主で六角家臣であった蒲生賢秀の子。弘治2(1556)年、近江国蒲生郡日野で誕生。父が信長に臣従した折、
	人質として岐阜に送られるが、信長にその才を買われ次女冬姫をめとった。氏郷は信長の見立て通り、14歳の初陣で敵の
	首級を挙げて以来、各地を転戦し武名を馳せた。本能寺の変で信長が亡くなると秀吉と信長の弔い合戦で戦功をあげる。




	秀吉にも重用されたが、秀吉は氏郷の能力と野心に警戒心を持っていた。小田原平定後、東北の押さえとして会津92万石
	が氏郷に与えられた時、氏郷は都から離れる事をなげき、秀吉も側近に「氏郷をこちらに置いておくと、恐ろしい奴なので、
	それで奥州につかわすのだ」と言った。氏郷は野心横溢な人物であったようである。
 


	文禄元年(1592)黒川城を七層の大天守閣として鶴ヶ城と命名。郭内の町屋敷を郭外に移し新しい町づくりを行った。地名
	を生まれ故郷の江国蒲生郡の若松の森に因んで「若松」に改め、酒・漆器などの殖産政策を行った。またキリシタン大名と
	しても知られ、茶の道でも利休七哲の一人にあげられている。





	文禄の役の翌文禄2(1593)年、突如として陣中で吐血し発病。この時は堺の医師である宗叔の治療により容態を持ち直す。
	8月には秀吉の仲介で前田利家の次男・利政と娘の婚姻が成立する。その上で、一旦、静養のために会津に帰国する。文禄
	3(1594)年、正月に伏見城完成祝いのために上洛。4月には秀吉が返礼として完成したばかりの蒲生伏見屋敷を訪問。
	秀吉は病状が再発し悪化する氏郷の様子を見て心配し利家に対して、氏郷を当時の名医である曲直瀬道三に診せるように命
	じたが、文禄4(1595)年、伏見の蒲生屋敷で死去。氏郷の最期を看取ったのは高山右近であったという。
	辞世の句は「限りあれば 吹かねば花は 散るものを 心短き 春の山風」。40歳の若さであった、
	氏郷の死去はあまりに突然で早かったため、人々は秀吉が毒殺したと噂し合ったそうである。


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