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会津若松藩・松平家墓所 2005.4.2(土)福島県会津若松市





	ホテルの車で武家屋敷へ送ってもらって、松平家の墓所を訪ねた。武家屋敷の側から山へ登っていくようになっている。
	「だいぶありますよ。」とホテルの人は心配そうだった。革靴でスーツの格好なので、雪も積もってる山道を行くのは
	危ないと思ったのだろう。しかし、遺跡巡りにかけてはこの道10年のキャリアを持ってる筑前様だ。大したことはな
	かろう。(実際大したことはなかった。)

 








	松平家院内御廟 保科家・松平家歴代藩主と主な藩政

	藩祖保科正之の長男正頼が亡くなった明暦3年(1657)、正之の命によりこの院内山を開いたのが始めである。左方の
	藩主の子供や夫人たちの墓の中に正頼の墓もある。さらに左手の山腹に松平家2代正経の墓(仏葬)、頂上には3代正
	容から9代容保の墓所が並んでいる(神葬)。初代保科正之の墓はここにはなく、猪苗代町見祢山にある。
	後段の略歴を読むと、会津松平家の後半は、殆ど世継ぎに恵まれなかったのがわかる。親戚筋の美濃高須藩松平家から
	しきりに養子を迎えている。尚、会津藩、会津若松藩、会津松平藩などと呼ばれるが、正式には会津藩というのが正し
	いようだ。

 

説明版の前には雪だまりがあった。ちょっと前までは相当積雪があったと、後でタクシーの運転手から聞いた。


	【初代 保科正之 (まさゆき) 】

	保科正之は2代将軍秀忠の庶子で、家光の実弟。「家訓(かきん)十五ヶ条」(主君への忠誠をしめす教え)、殉死の
	禁止、「社倉法」(米を蓄えて貸し出す方法) の創設、不当な年貢制度の見直し等を行い、会津藩の基礎を固め藩政を
	整える。また幕府内でも、叔父として幼い4代将軍家綱を補佐し、明暦の大火後の江戸の復興や、玉川上水の工事など
	幕政でも活躍。将軍家綱から「松平」の姓を賜わるも再三固辞し、松平姓を名乗るのは三代正容からである。

	


	●社倉制
	社倉とは、凶作やその他で農民・町民が困ったとき救済できるように、米や金を蓄えておく制度である。中国では、
	宋の時代に朱子がはじめたといわれるが、保科正之は、この朱子が教える社倉の制を日本で初めて会津で実施した。
	1658年(万治元年)には社倉の制がくわしく定められた。 

 

なんと愛馬の墓まである!


	【二代 保科正経 (まさつね) 】

	初代正之の遺志をつぎ学問の奨励などに力を注ぐも、病弱でわずか12年で藩主の座を退く。神指村幕内の佐瀬与次右衛
	門が「会津農書」を書く。

	●文冶主義
	将軍綱吉の時代に行われた、文教を奨励し、人心の教化をはかるとした政治方針。会津藩でも儒学者・神道学者・算法
	暦法家などを重く用いたり、あるいは招へいして学問を奨励し、組士のうちからも学問のあるものを重く用いた。儒学
	者横田三友(俊益)が会津で初めての学校「稽古堂」を建てる。1688年(元禄元年) には新しく町講所が建てられて、庶
	民の学問が奨励された。

 


	【三代 松平正容 (まさかた) 】

	松平姓を名乗る。学問の奨励。年貢制度の改正。蝋・漆等の特産物の増産による商工業の振興。これら特産物を大量に
	領外に売り出すための流通促進策として、阿賀川水路の整備・猪苗代や南会津への新しい道路の整備。猪苗代(沼の平)
	での硫黄山の開発鉱業など藩独自の政策を実施。藩内にだけに通用する金札銭札などの藩札を発行、藩の財政改革を行
	う。

 

まるで関所のような墓所への入り口。


	【四代 松平容貞 (かたさだ) 】

	藩江戸屋敷の火災・若松城下の大火災・三代藩主の病死等災難が続く。さらに江戸城堀さらい普請などで藩財政が逼迫
	する。この頃、南山御蔵入(南会津)地方に百姓一揆が起きこの一揆が各地に波及、猪苗代・喜多方・塩川などでも一揆
	が起きる。農民若松城下に強訴。冷害と天候不順による天明の大飢饉。酒造を禁止し窮民に社倉米をあたえる。幕府よ
	り銀300貫・参勤交代1年免除を受け、貧窮する藩士や農民を救済する。

	●百姓一揆
	南会津全域・大沼郡の大半・それに栃木県の一部は南山5万石とよばれ、幕府の蔵入地(天領)で、会津藩が預かり地と
	して管理していたが、たびたび幕府直轄になったり、会津藩の預かり地になったりしていた。この地で大規模な百姓一
	揆が起こったのは幕府の直接支配の時で、1720年(享保5年)のことである。この一揆が各地に波及、猪苗代・喜多方
	・塩川などでも一揆が起き、1万5000人余りが若松城下に強訴。さらに各地に広がり高久・代田・野沢の郷頭の家
	が次々におそわれ打ち壊された。それまで年貢は所有地の善し悪しなどによって上・中・下の3階層にわけられ、年貢
	率も同様にわけられた「反畝取りの法」が取られていた。しかし度重なる冷害による飢饉などで、財政難に苦しむ幕府
	は「定免制」という、平均して非常に高い年貢を取る制度を取り入れる。会津藩が代支配した時は、収穫した米のうち
	43%、幕府の直接支配の時期は63%も年貢として取り立てられた。特に享保・天明・天保の凶作の時などは「われ
	ら百姓は死ぬほかはない」と農民は訴えた。この時の大一揆で、藩政を行うものは農村政策の重要性を改めて知らされ、
	その後の藩政に大きな影響を与えた。




	【五代 松平容頌 (かたのぶ) 】

	家老田中玄宰を登用し「寛政の改革」を断行。多方面にわたり改革を実施し、江戸時代における会津藩中興の偉業を成
	し遂げる。農村のたて直し・手工業の興業・軍政改革・学制改革による藩校日新館の創設など藩政の改革をすすめる。
	酒造・漆器などの産業が盛んになり農村も藩政も安定し藩の力を蓄える。「家政実記」(1631年(寛永8年)から1806
	年(文化3年)まで175年間の藩の記録を277巻まとめた史誌)と「新編会津風土記」(藩内の郡の歴史・風俗・気
	候・地勢や、各村々の様子を詳しく書いた地誌)が完成した。

	●藩校日新館の創設
	会津藩5代藩主松平容頌のとき、家老田中玄宰は藩政改革の一環として学制の大刷新を建言した。その柱が藩校日新館
	の建設だった。亨和3年(1803)、5年の歳月を費やして完成した。藩士の子供は日新館入学前の6歳から9歳まで、
	地域ごとに組を作り、「什(じゅう)の掟」というルールに基づいて、お互いに武士としての心構えを学んだ。会津藩
	校「日新館」は、江戸時代300藩中随一との評判をとった。白虎隊の精神もここで培養された。 
 
	<藩校日新館童子訓> 

	 什 の 掟 . . . ならぬことはなりませぬ

	 1.年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
	 2.年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
	 3.虚言をいふ事はなりませぬ
	 4.卑怯な振舞いをしてはなりませぬ
	 5.弱い物をいぢめてはなりませぬ
	 6.戸外で物を食べてはなりませぬ
	 7.戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ




	【六代 松平容住 (かたおき) 】

	4代藩主松平容貞の弟容詮の第2子。藩主在任わずか5ヶ月、28歳で没。 

	【七代 松平容衆 (かたひろ) 】

	6代藩主松平容住の第2子。藩主在任16年、20歳で没。藩主の座に着いたのは、わずか4歳のときである。




	
	【八代 松平容敬 (かたたか) 】1806-1852 

	6代藩主 松平容住の子という説と、美濃高須藩9代藩主松平義和の子という説とがある。高須藩から会津藩7代藩主
	松平容衆の養子となる。娘の婿に同じく高須藩から松平容保を迎え入れる。



上右。一番上の段中央に容保の墓がある。


	【九代 松平容保 (かたもり) 】天保6年〜明治26年(1835〜1893)

	幕末から明治・戊辰戦争の頃にかけての、悲運の会津藩最後の藩主。岐阜県美濃高須藩3万石松平義建(よしたつ)の
	6男で、12歳の時に会津藩主松平容敬の養子となった。18歳で藩主となり、28歳の時に京都守護職として、京都
	の治安と公武合体に力を尽くし、時の考明天皇の厚い信頼を得る。
	江戸帰還を命ぜられた浪士組のうち京都残留を希望する近藤勇らを御預とし、のちの新選組である「壬生浪士組」を誕
	生させる。その後倒幕派は形勢を逆転、戊辰戦争へ突入する。鳥羽・伏見の戦後その立場は暗転、忠誠を貫いてきた将
	軍慶喜には江戸城への登城禁止を命ぜられ、朝廷からも逆賊の汚名を着せられ、会津落城後は妙国寺に謹慎、のち和歌
	山藩に移された。明治5年に謹慎を解かれ、13年より東照宮宮司に任ぜられた。以後の生涯は、宮司職のかたわら、
	歌道にのみ没頭し世を去った。享年58歳。晩年、いくら問われても、幕末・維新については一言も語らなかったと言
	われる。

 

墓碑銘の基壇になっているのは石亀だったが、よく見るとどうもただの亀ではなさそうだ。
しっかり歯も耳もあるし、指も5本だ。




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