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会津滝沢本陣 2005.4.2(土)福島県会津若松市




 


	会津滝沢本陣(たきざわほんじん)  会津若松市一箕町大字八幡  

	旧滝沢本陣横山家住宅主屋座敷。もともとは農民の住宅であるが、地の利から会津藩主の休憩場所となった。白河街道
	の滝沢口(滝沢峠の登り口)にある。横山家は16代を数える旧家で、主屋の部分は郷頭の住居として古い農民住居の形
	を残している。藩から本陣の指定をうけ、座敷の部分が東側に追加建築された。休息が目的の本陣で、参勤交代や領内
	巡視、土津神社祭礼の時などに使用された。戊辰戦争のときは会津藩の本陣となり、藩主松平容保がここで白虎隊に戸
	ノ口原への出陣を命じた。後には西軍の屯所となったので、柱には当時の刀傷や弾痕が生々しい。






	戊辰戦争の際に、藩主松平容保もここに滞在したという滝沢本陣。白虎隊の悲劇で有名な飯盛山(いいもりやま)の山裾
	にある。若松城下から飯盛山へ至る道は、会津から白河へとつながる白河街道だった。この街道沿いの滝沢峠入り口に
	本陣が設けられたのは、寛文年間(1661〜1673年)のことで、以来、歴代の藩主は領内の巡視や参勤交代のおりに、休
	憩や江戸へむかう旅装をととのえる場として用いた。街道名は行先の地名をつけるもので、同じ道でも名称が変わる。
	白河からは「会津街道」だが、会津からは「白河街道」となる。「日光街道」も同様で、「会津西街道」と呼ぶのは栃
	木県側から見た場合である。






	茅葺きの屋根におおわれた書院づくりの建物は、現在国の重要文化財に指定され、御入御門、御座の間、御次の間など
	が当時の姿のまま残されており、さらに歴代藩主の愛用した身回り品、参勤交代の道具類、古文書なども保管されてい
	る。

 

 

 

 


	戊辰戦争では、藩主松平容保が前線激励のため、自ら滝沢峠の麓に本陣を構えて、滝沢峠を越えてくる敵兵を迎え討と
	うとしていた。そのおりに護衛としてついたのが白虎隊である。母成が破れた報に接した容保はこの本陣で指揮を執り、
	士気を鼓舞する。しかしさらに悲報が相継ぎ、最終防衛線たる十六橋までもが突破されるに至り、そこへ戸ノ口原の前
	線から援軍を求める急使がきて、ついに藩主親衛隊としての白虎士中二番隊の戦線投入が発令されたのだった。
	白虎士中二番隊は、この地から自らの死地へ向って勇躍出陣して行った。


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