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会津・墓料遺跡 2005.4.2(土)福島県会津若松市





	ここでの解説と図表は、福島県立博物館の隣にあった図書館(おそらく会津若松市立図書館)でCOPYした「墓料遺
	跡発掘調査報告書」から転載した。調査主体は会津若松市教育委員会だったと思うが、刊行年度をひかえるのを忘れて
	しまった。お詫びと謝辞を申し述べたい。青字の部分は全てこの報告書からの転載である。

 

飯盛山から歩いて5分ほどの所にこの集落はある。遺跡は今は民家と
田畑の下になっている。でも説明版くらいは立てて欲しいなぁ。






	1.墓料遺跡の位置と環境

	会津若松市は人口11万8千人、福島県の会津盆地南東縁に位置する会津の中心都市である。墓料遺跡は会津若松駅の東北
	東約1.5km地点、市内一箕町大字八幡字墓料に位置する住宅に囲まれた水田と畑部分に所在する。
	遺跡の東方には、背あぶり山地を形成する溶結凝灰岩や安山岩を基盤とする標高800m前後の丘陵がある。さらに東には、
	標高514m付近に福島県を代表する猪苗代湖が位置している。遺跡は、背あぶり山の標高700m付近を源流とする不動川によ
	って形成された盆地中央より約50m高い標高240mの舌状となる扇状地末端に位置する。丘陵内の一箕町石ケ森地区には、
	江戸時代に会津藩最大の金鉱山で昭和に入ってからも石膏を採掘していた石ケ森金山がある。付近には鉱山の採掘坑が点
	在している。また不動川河床の不動滝付近では、海洋性二枚貝の化石を産出する第三紀の堆積層がある。丘陵と盆地との
	境目には、丘陵を南北方向に走る断層が存在している。それら丘陵のほとんどは、落葉広葉樹の雑木林であるが、その中
	に杉の人工針葉樹が広く植栽されている。戌辰戦争の悲劇として知られる白虎隊が自刃した飯盛山は東南東950mにある。
	墓料遺跡周辺は、縄文時代には大塚山遺跡や北滝沢遺跡などがあり、弥生時代以降近世まで会津地方を代表するような遺
	跡や文化財が集中して分布する文化の発祥地である。墓料遺跡北西500mには、標高269.6mの独立丘上に東北地方を代表す
	る全長114mの前方後円墳である会津大塚山古墳がある。この古墳は、昭和39年に発掘調査が実施され、三角緑神獣鏡や直
	刀、勒などが出土し、それらは現在古墳が国指定史跡、出土遺物は国指定重要文化財となっている。また、試掘調査によ
	って会津大塚山古墳より古いとされた4世紀前半頃で全長84mの堂ヶ作山古墳、全長65mの前方後円墳である飯盛山古項が
	ある。



	現在消滅した一箕山古墳、石仏古墳、古墳時代後期から末期の村北古墳群、大塚山横穴墓群がある。さらに、7世紀末に
	古代の雷文線四葉複弁蓮華文瓦を焼いた村北瓦窯跡群がある。古代では、墓料遺跡で灰粕陶器を出土している他、郷ノ原
	遺跡、上居合遺跡、船ケ森西遺跡など、演模の大きな集落が営まれている。また式内社の蚕養神社が南に鎮座している。
	不動川の下流4kmには会津郡の郡衛の有力な候補地である郡山遺跡がある。
	中世以降では、大塚山の会津大塚山古項の前方部上に12世紀後半の大塚山経塚があり、中世では大塚山城跡、飯盛山城跡、
	石部館跡などがある。また16世紀末には、蒲生氏郷の時代に、茶道の天目茶碗を焼いた東日本唯一の大窯である会津大塚
	山窯跡が大塚山にある。江戸時代には、関東と会津若松を結ぶメインルートであった石畳の滝沢旧街道や国重要文化財指
	定の旧滝沢本陣や旧正宗寺三匝堂がある。
	このように、墓料遺跡付近は、古墳時代から古代を主として歴史上重要な遺跡が集中して分布している交通の要衝もしく
	は、政治的にも重要な区域で、その中心部に位置している。

 

ここに出土土器の一部があるが、多くは福島県立博物館に所蔵されている(ようだ)。

 

 


	この遺跡の特徴の一つは再葬墓である。遺体を何らかの方法で骨にし、それを土器(多くは壺)にいれて、径1〜2mの
	穴に埋葬する再葬墓(さいそうぼ)と呼ばれる弥生時代の墓は、今の所、関東・東北地方を中心に50ケ所ほどの遺跡で
	知られている。穴に埋められる土器は、埋葬用に造った物ではなく、日常で使用していた土器を転用して使用したようだ。
	また、白骨化する方法は今の所分かっていない、地中で白骨化するのを待ったのか、或いは掘り出して火葬し、再び埋葬
	したのか、今後の研究課題である。



 




	墓料遺跡は、昭和44年4月、遺跡地に水田を所有する吉田さんが、水田と接する遺跡中央を東から西に走る市道南側の水路
	を整備した時に、方形状の落ち込みから弥生時代の一括する土器を発見したのがこの遺跡発見の発端である。昭和46年4月、
	畑を所有する棚木さんがゴボウ収穫のため畑を掘下げたところ円形の落ち込みにあたり、その中から弥生時代の一括する
	土器を発見し、そのままにして市教育委員会へ連絡した。市教育委貞会では県教育委員会と協議し緊急発掘を実施してい
	る。昭和49年4月、46年と同じ畑から棚木さんが再びゴボウ収穫のため畑を掘下げたところ一括する弥生時代の完形土器を
	確認したため市教育委員会へ再び連絡し、市教育委員会では発掘調査を4月10日から20日までの期間で実施している。
	その時に、弥生時代に一度葬った人骨を再び壷や棄の中に入れて埋葬する「再葬墓」であることが分かった。
	その時までに約100個体の土器が出土している。また、出土した土器片の中には、西日本の弥生前期の畿内第T様式に並行
	する「木葉文士器」の発見があり、東日本で一躍知られる遺跡となった。
	その時点までの発掘調査報告書は現在でも刊行されていないが、昭和52年に市教育委員会から発掘調査の出土状況と出土
	資料を紹介した写真集の『墓料』福島県会津若松市一筆町墓料遺跡調査概要(小滝:1977)が発行され、一般にも墓料遺
	跡から出土した再葬墓の一括土器、木葉文士器が知られるようになり、研究者のみならず一般市民も衝撃を受けたのであ
	る。昭和54年5月、富士通会津工場の建設に合わせ弥生式土器が出土した畑の南に接する市道部分への水道管本管敷設工事
	に先立ち、市教育委員会で発掘調査を実施した。その際にも約40個体の弥生式土器が出土した。この調査における報告書
	は今だ刊行されていないが、昭和56年3月の福島考古に「昭和54年度の会津若松市での調査」(小滝他:1981)で畿内第T
	様式に並行する条痕文士器として公表され、さらに墓料遺跡の重要性が明らかにされた。

 








	一連の発掘調査による資料の出土に伴って、弥生時代前期の段階に東北地方でも弥生文化が入ったことを示すことが確実
	となった。そのため遺跡の重要性から市教育委員会では、昭和55年度と57年度に墓料遺跡の範囲を把撞する遺構確認調査
	を東北大学に委託し実施している。当初は55年と56年に実施する計画であったが稲の作付けにより、稲作期間中に試掘調
	査を実施することは困難であったことから、1年遅らせて57年に実施された。
	その後、高度経済成長のもとに遺跡の西に隣接した富士通会津工場がフル操業するようになり、また南には県立会津大学
	短期大学部が存在することから遺跡周辺は、住宅化が急激に進行し、遺跡の範囲だけが彗り残される状態となった、墓料
	遺跡は、墓料地区でも古来からの住民の方々が土地を所有していたことから、遺跡の重要性について理解があったため、
	開発されないで残っていた。
	平成12年になると、埋蔵文化財の保存に関し、県内の統一した基準が設定され、遺構が保護できれば個人住宅など一定程
	度の開発も可能となったことを受け、墓料遺跡でも過去に遺構を確認していた区域でも開発が進行することとなった。
	民間開発について、開発行為の事前協議に該当する開発が申請されたことから、弥生時代の再葬墓という遺跡の重要性を
	考慮し、再葬墓の区域は保護することが望ましいことから宅地開発にあたっては慎重に対処することとした。         
	
	弥生時代を代表する再葬墓の遺跡として、墓料遺跡の保護を図ることと、周辺の民間開発に対処するために今回の範囲確
	認調査を実施することとなった。
	平成13年3月に入ると、墓科遺跡の南東部分の一角1,156uの開発が開姑されることになり、開発者のミサワ住宅と協議を
	進めた。開発地が昭和57年の確認調査で、すでに開発予定地は平安時代の掘立柱建物跡や縄文時代の土坑や溝跡を確認し
	ていたことから、県文化課の指導のもと遺構面と個人住宅の基礎の間で約30cmの保蔑層を確保し、4月に開発することと
	なった。開発時には立会し、遺構の存在を確認しながら進め、開発地全体を遺構検出面から70cm以上の盛土をして保護し
	た。道路部分と擁壁部分からも遺構が検出されたことから、遺構面が損傷を受ける部分について緊急に立会調査を4月に
	実施し、記録保存を図った。その後も、摘発行為の事前協議の申請がなされたことから、鹿囲確認調査の必要性がますま
	す重要になった。調査は、10月22日から11月30日まで、382.5uを実施した。








	2.遺跡分布

	昭和57年までの調査で、1T東の南東部分で平安時代の掘立柱建物跡を主とする遺構が確認され、10T南の南西部分でも
	平安時代の掘立柱建物跡が検出されている。縄文時代から弥生時代までの遺構は、13と14T南側の東西に走る市道と北側
	畑部分を主に遺構が検出されている。17T西側では、遺構は検出されていない。そのため、墓料遺跡は、東側半分と南西
	部分に遺構が確認されていた。ただし、水田部分の多くは遺構を確認していなかった。そこで本年度の調査は、墓料を特
	徴づける縄文時代の再葬墓を中心に、他の時代を含めた遺構の範囲を把撞することが目的でトレンチにより調査を実施し
	た。昭和55年度と57年度にも、グリット設定により範囲確認調査を実施している。水田部分については南側を除き、遺構
	の確認をしていなかったことから、今回は空白域について埠構を確認することとした。調査にあたっては、昭和55年に設
	定した調査基準にできるだけ合わせることとしたが、昭和55年ではグリット設定であったが今回はトレンチにしている。
	当時設定したグリットの基準点2ケ所が、現在も保存されていたことから、それを利用してトレンチの基準を第3図のとお
	り設定した。
	トレンチは、昭和55年と57年に範囲確認調査を実施したグリットの基準線に合わせることにしたものの、畑の作物や植え
	付け状況、地形的に段差があるところについては、任意にトレンチの方向を設定したものもある。トレンチの調査は、今
	回の調査が遺構の範囲を確認する調査であることから、できるだけ遺構は掘込まないで保存することにした。そのため、
	土坑などについては、一部半壊した遺構もあるが完掘はせず、保護するようにした。またトレンチ中で遣帯が検出された
	部分でも平面形が明確でない遺構については、性格をできるだけ解明するためにトレンチを一部拡張した部分もある。
	遺構が検出された地点は、1Tから5T、11T、16Tから遺構が検出されが、他のトレンチからは遺構が検出できなかった。
	昭和55年と57年の範囲確認調査では、縄文時代、弥生時代と平安時代の遺構が検出されている。縄文時代の遺構は今回の
	調査で、再葬墓を取囲むように南側に大きく広がって土坑群が分布しているようである。西側と北側では遺構を確認でき
	なかった。
	なお、遺跡の北側では、住宅地の造成時に縄文土器が多く採集できたとされるが、周辺はすでに宅地が進行Lていること
	から遺跡が東側や南東部分も含め、どれだけ広がっているかは不明であり現在調査は不可能である。

 

 

 


	弥生文化はいったいどのくらいのスピードで東へ進んでいったのだろうか。北九州に上陸した文化が青森県まで到達する
	には相当な年数を要したものと思われるが、それにしても時代というものの画一性にはほんとに驚かされる。弥生時代に
	はもう縄文土器は生産されないし、須恵器全盛時代には弥生土器は姿を消していく。古墳から出土する土器や武器や馬具
	は、全国で驚くほどの同一性を有している。鉄を用いたからと言って一気に飛行機が製造できるわけは無いように、人間
	はその時代時代で一番進んだ技術と文化を受け入れながら、環境と社会に融合しつつ長い期間を生き抜いて来たのだ。
	いつもながら、その悠々たる営みは全く感動ものである。


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