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安倍晴明神社 2003.9.27(土)
京都市上京区堀川通り



		私は「陰陽道」(おんみょうどう)には詳しくない。ただ、NHKその他のドラマで「安倍晴明」(あべのせいめい)物
		はよく見ていたので、安倍晴明その人については興味がある。しかし、「陰陽道」に関する書物を読むところまでには至
		っていないし、詳しく調べれば、それなりに面白い世界なのだろうが、何にでもすぐに興味を持つという私の性格を考え
		たら、あまり深入りはしたくない気分だ。ここも、以前大阪市阿倍野区の安倍晴明神社に行った事があるので、一体京都
		でどんなところに住んでいたのだろうという興味だけで訪れた。

		安倍晴明は、王朝文化が花開いた平安時代中期の宮廷陰陽師(おんみょうじ)である。陰陽道とは、古代中国で起こった
		陰陽説と五行説などに基づいて天文や人間を観察し、その動きや近い未来を予測する学問であって、日本に移入されてか
		らはその伝播の過程で、占いや呪術の方向へと大きく傾斜していった。陰陽道の専門家を陰陽師と称し、大小さまざまな
		陰陽師家が現われたが、安倍晴明もその大家の一人であった。

 

 




		手引き書によれば、古代陰陽道の歴史はだいたい以下のようなものらしい。
		(1).黎明期は、陰陽道系の思想が初めて日本にもたらされた継体天皇(在位507〜531年)までの時代。

		祭祀の中心は古代的なシャーマニズムで世界観についても素朴なものだった。

		(2).第二の時期はこの継体朝から奈良朝末までの約300年間。

		陰陽五行思想が百済を経由して日本にもたらされた。その担い手は、はじめは五経博士、暦博士、易博士といった学者で、
		のちに陰陽五行思想に通じた渡来僧が陰陽道関係の書籍(天文、占筮、遁甲、相地、暦法など)と共に伝えたとされる。こ
		の時期の陰陽道は、学問・技術的なものと言うより、宗教的雰囲気の強いものだったと思われる。天武天皇(在位673〜
		686年)の時代になると、これら陰陽道も体系化されはじめる。陰陽寮と呼ばれる組織が出来、陰陽道に関連する思想や技
		能、およびそれらを担う人材も国家管理のもとに置かれた。陰陽師は国家専属の占い師になったのである。

 




		(3).第三の時期は桓武天皇(在位781〜806年)から10世紀ころまでの約200年間。

		第三の時期には藤原政治が力をつけ、律令制にほころびが見え出す。陰陽師も国家のみならず、方位や星巡りの吉凶判
		定を武器に、有力公家の一部に食い込むようになる。また、陰陽道思想の一般化もすすみ、在野に優れた陰陽家が多数
		現れ、陰陽道の日本化が進んだ時期となる。安倍晴明も、この頃の人物として伝わっている。この晴明神社の由来によ
		れば、安倍晴明は、孝元帝の皇子、大彦命の御後胤として生まれたと言う。享年85歳、寛弘2年(1005)没から逆算す
		ると、生年は延喜21年(921)となるが、記録がある訳ではない。孝元天皇は神武天皇から数えて八代目の天皇で、いわ
		ゆる欠史八代の中の一人であり、非実在が定説となっているので、安倍晴明の実在性も危うい。というより、天皇の在
		位期間と対比させてもまるっきり合わないので、この神社の由来そのものが後世のねつ造なのだろう。学界の定説は知
		らないが、安倍晴明の実在を唱える専門家は多い。「土御門家記録」によれば、晴明は45歳で没したとも言う。出生
		地も不詳で、大阪説、香川説、茨城説などがある。大阪市阿倍野区元町には安倍晴明を祭神とする安倍晴明神社が鎮座
		しており、その境内には「安倍晴明生誕伝承地」の碑が建っており、脇には産湯の井戸跡もある。
		(巻末のリンク先参照されたし)

 



 

 


		(4).そして終末期は10世紀から中世の前まで。 

		古代陰陽道の最終期になると、賀茂・安倍の両家が陰陽道を世襲化するようになり、陰陽道自体の因習化・形式化が進
		み、迷信が次々と造られていくようになった。今日伝わる幻術や呪術にまつわる多くの逸話は、その原型がこの時代に
		できあがったものと思われる。




		安倍晴明は、最近映画やTVで取り上げられるようになってまた人気がぶり返している。夢枕獏の小説の影響もあって
		か、今日も若い人たちが結構来ている。古記録としては「土御門家記録」以外にも、「大鏡」「今昔物語」などに晴明
		が行った幻術の記述があるが、実在した人物であれば「天文・占星術」にたけた人物だったのだろう。幾つかの予想が
		あたって、その話に尾ひれが付き、後世に名を残したのかも知れない。やがて「源平盛衰記」や「蘇我物語」などの語
		り物の中でも取り上げられ、神秘化の度合いを強めながら、広く民衆の中に浸透していったものと思われる。ここも昔
		は狭い小さな神社だったが、折からのブームに乗って社域はどんどん拡大していっているように見える。





 


		安倍晴明伝説の、初期の担い手は貴族達であった。宮廷内の抗争や災厄や確執などの、呪術的な解決者としてのヒーロ
		ーが安倍晴明だったようだ。藤原道長を呪い殺そうとする勢力に対して、その陰謀を見破ったという話などは、まさし
		く貴族社会における救世主としての位置づけである。ところが民衆の間に陰陽道が広まるにつけ、次第に晴明伝説の担
		い手は民間の陰陽師達へと移っていった。語り物を媒体として、急速に大衆の間に広まっていく陰陽道を支えていたの
		は、彼ら民間の陰陽師達である。彼らは、自らの陰陽道の始祖としての安倍晴明をあがめ、晴明信仰を各地に広めてい
		ったものと思われる。



境界の塀に、安倍晴明にまつわる逸話がイラスト付きで紹介されている。







 

またそこら中に、「安倍晴明」に関する催しのポスターが貼られていて、そのブームの度合いがわかる。

 

 

 

 



神社の周りには数軒のお土産屋があり、陰陽師グッズで一杯だ。

 

神社の前から見た「堀川」の林。河の両側に木が植えられていて、そこだけ緑のベルトが続いている。



 

現在の「一条戻り橋」。河床はコンクリートである。御池の辺りで地下へ潜っている。

 

安倍晴明神社の裏手に、「西陣」の名前の元になった、山名宋全の本陣があった場所がある。今はお菓子舗「鶴屋芳信」。



 


		その又北の筋にある「京都市立考古資料館」。5時を過ぎていたので中には入れなかったが、面白そうな展示がならん
		でいそうだ。近いうちに再訪する事にしよう。また、京都のお客さんにご機嫌伺いでもするかな。

 

 

 


		中世以降陰陽道は、力を付けてきた武士階級の政権を守護・存続させるための霊的な守り神として機能するようになる。
		賀茂家の後継者が絶えるという事態になった為、安倍家が暦博士と天文博士を兼務し、土御門家を称して勢力を維持す
		る。江戸幕府を開いた家康は陰陽道を政治的に、積極的に活用した。戦国時代に衰退していた土御門家を復興し、途絶
		していた勘解由小路家の代わりに幸徳井家(かでいけ)を採用して復興したりしている。土御門家はこの幸徳井家を圧し
		て陰陽道の実権を握って土御門神道を興したが、もはや政治的影響力はなく、多くの宗教の一派という存在にとどまっ
		た。しかし、陰陽道そのものは江戸時代に全盛期を迎え、暦や方角の吉凶を占ったり、加持祈祷などが盛んに行われた。
		明治時代には新政府による陰陽道の廃止により、土御門神道は一旦廃絶するが、戦後の「信教の自由」のもと、天社
		御門神道として再興された。




 

 

 





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