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天王寺周辺の歴史 「追加版」

井原西鶴の墓
2003.7.5(土曜)






		【井原西鶴の墓】

		浮世草子の創造者である井原西鶴(〜1693)は、寛永19年(1642)大坂に生れる。本名を平山藤五といい、大坂の比較的裕福な町人
		の子であったと伝わるが、その家業については不明であり、係累も殆ど判っていない。祖父は京都・伏見の商人だったという説もある。
		15歳で俳諧を志し、21歳で俳諧点者になった。点者とは、俳諧の撰者として公認されていた審査員のことである。寛文7、8年頃
		に西鶴は西山宗因に入門、この頃、大坂俳壇が形成されていく。当時の町人の間では、俳諧は文化的教養の最たるもので、社交の場で
		俳諧を詠うというのはある種のステイタスシンボルでもあった。西山宗因は大坂天満宮連歌所の宗匠で、この一派(談林派)の俳諧は
		清新・自由の俳諧として、旧来の俳諧(貞門)に対して全く新しい俳風を俳壇に送り込んでいて、西鶴はその中心でもあった。西鶴は
		談林派俳諧師として、この時期目覚ましい活躍をする。通俗卑近を旨とし、低俗化の傾向にあった談林派の中でも特に西鶴は新奇で、
		異風な作品は「阿蘭陀流」と呼ばれたりした。 天和2年(1682)「好色一代男」を皮切に、浮世草子作者としても大々的に活躍して
		いくこととなる「好色五人女」などの好色物、「武道伝来記」などの武家物、「日本永代蔵」などの町人物と、人間の欲望や享楽的な
		生活を描いた作品を数多く発表した。延宝3年、9歳年下である彼の妻が死亡し3人の子供が残されたが、3人のうち2人は早逝、残
		った1人は盲目の娘であった。元禄6年(1693)52歳にて病没するが、没後も「西鶴置土産」「西鶴織留」などが遺稿として刊行さ
		れた。





 

 


		井原西鶴(いはらさいかく)・中井一族墓所   中央区上本町西四丁目1−21 誓願寺 

		近松・芭蕉と並んで元禄文化の花を咲かせた西鶴は、元禄6年(1693)52才で病没するが、その後墓の所在は不明となっていたが、
		幸田露伴らが、境内の無縁墓におしこめられていたのを発見した。また境内には、懐徳堂を開いた中井一族の墓もある。 

 









上の写真のまん中、一番奥に西鶴の墓はあった。





		大阪は庶民の町だ。近世の作家で大阪を代表する人物と言えば、井原西鶴をもって第一人者といえる。色里を舞台に、愛欲に生涯を
		かけた町人世之介の半生を描いた『好色一代男』、『好色一代女』、『日本永代蔵』など、不朽の名作を生み出した、17世紀末の
		天才的町人作家である。西鶴の作家としての活動は41歳から51歳の10年間だけだった。資産家の息子に生まれ、なに不足なく
		育ち、15歳のときに俳諧に手をそめる。青年期には放蕩にふけり、父に勘当され、遊里の太鼓持ち同様の暮らしだった。その人生
		の経験が彼のリアリズム的作風を生み出したのだ。若い妻に先だたれ、幼子を残された男やもめの時期、赤ん坊におかゆを作って食
		べさせながら書いたという『世間胸算用』、『西鶴置土産』など秀逸な作品ばかりである。つまり彼はさめた目で浮世の現実を見定
		めた作家であった。何回となく西鶴愛好会の人たちの手で改修されたという墓は、俳諧師よろしく風流である。
		【この項、「日本の墓」ホームページ「井原西鶴の墓」より転載。Copyright(c) 2001 KOHTOKU. All Rights Reserved. 】






上町筋を挟んで、西鶴の墓がある誓願寺とは反対側に大福寺という寺があり、その地が大阪における「医学発祥の地」だった。





 

 


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