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天王寺周辺の歴史 「追加版」

生国魂神社
2003.7.5(土曜)



 


		【生国魂(いくたま)神社】 天王寺区生玉町13 

		伊弉諾尊と伊弉冉尊の子神である、生島(いくしま)神・足島(たるしま)神を祀る。延喜式名神大社である。正式には【難波
		坐生国魂神社】(なにわいますいくたまじんじゃ)といい、神武天皇が九州から難波津に着いたとき、石山崎に生島神・足島神
		を祀って創建したと伝わる。最初石山本願寺(現在の大阪城)に隣接していたが、織田信長と本願寺との石山合戦のとき焼失、
		その後は秀吉の大坂城築城により高津宮同様、現在地に移された。広大な神域と建造物を誇り賑わったが、たびたび災害にあい、
		第二次大戦の空襲で全焼した。現本殿は昭和31年再建の鉄筋コンクリート造だが、千鳥破風の上に唐破風、その上に千鳥破風
		を乗せた「生国魂造」が昔のまま継承されている。また社殿の西側は、上町台地の急崖になっており、かつて舞台が設けられて
		いた。ここから遠く六甲、淡路が眺望できて賑わったそうである。現在は繁華街(ホテル街)の中に社地を占めているが、緑深
		い森を持ち、少ないながら桜の美しい所として有名である。その氏地は天王寺区のほか、中央区内に及んでおり、戦前は官幣大
		社であった。





 




		昔この神社前の馬場は、近松門左衛門の「生玉心中」や「心中宵庚申」、「曽根崎心中」などに描かれた心中の舞台でもあった。
		また十返舎一九の「東海道中膝栗毛」では、馬場先で遊女をひやかして歩いたと書かれている。谷崎潤一郎も「春琴抄」の、盲
		目で美貌の主人公鵙屋春琴の墓を、この高台下の寺院にしている。毎年「彦八まつり」が開かれる大阪落語の祖、米沢彦八の本
		拠地でもある。ことほど左様に、この辺りは江戸時代から大阪独特の芸術をはぐくんできた土地であった。また「夫婦善哉」の
		作家、織田作之助は大正2年に生玉前町に生まれた。「銀座カンカン娘」の作曲家・服部良一は、近くの谷町9丁目で少年時代
		を過ごしている。







 


		生国魂神社南坊址に、浮世草子の作者として有名な大阪を代表する作家井原西鶴の像がある。生国魂神社は江戸時代には大変な
		賑わいを見せ、安政年間に書かれたと見られる「摂津名所図会大成」巻四にはその様子が絵と文で伝えられている。「茶店軒を
		列ねて賑わしく」「傍邊の貸食屋(りょうりや)には荷葉(蓮の葉)飯を焚て進むさる程に遊客の手拍子き音が鼓の音に混じ三
		絃のしらべ神前の鈴の音に合して四時ともに繁盛なる」 とある。
		この賑わいを利用して様々な興行が催され、その中に、寛文13年(1673)当時「井原鶴永」と名乗っていた32才の西鶴が、
		行った「万句興行」がある。12日間かかって百韻百巻におよぶ俳句を作り続けるという大興行であり、「出座の俳士総べて百
		五十人、猶追加に名を連ねた者を加へると、優に二百人を超える」という大興行であり、それまでほとんど無名だった西鶴の、
		浪速文壇への本格的なデビューであった。同年(延宝元年)六月にはそれが「生玉万句」として刊行されている。

 


		「好色一代男」「好色五人女」「好色一代女」「日本永代蔵」「世間胸算用」といった、「浮世草紙」の作者として日本文学史
		上に名を残す西鶴だが、その出発点は俳諧だったのである。散文作家として活動し52才で没するまでの11年間より、実ははる
		かに長い期間を西鶴は俳諧に費やしている。その素地があって、「浮世草紙」の作家として大成したとも言える。

 


		延宝8年5月7日夕刻から8日同時刻までの一夜一日、大坂生玉寺(生国魂神社)内で行われた西鶴の矢数俳諧は、「その発句天下矢数
		二度の大願四千句也」の通り、ひとりで百句続きの連句を詠む独吟で、四千句を完成させた。この矢数俳諧とは京都の三十三間堂の通し
		矢の古式にならい、一昼夜に句をどれくらい詠めるかを競う競技であるが、この興行が西鶴の名を天下に知らしめた。

 

 

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