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天王寺周辺の歴史 「追加版」

近松門左衛門の墓
2003.7.5(土曜)









谷町6丁目で降りて、地下鉄の車掌さんに近松門左衛門の墓を尋ねたら上の地図をくれて、赤エンピツでググーッと線を引いた。




		【近松門左衛門の墓 】

		近松門左衛門の出生地については諸説あって、しかもその候補地は全国に及んでいて驚く。享保9年(1724)に死亡した近松門左衛門に
		対して、数十年経ってもう、その出生地をめぐっての議論が巻き起こっている。出生地についての、存命中や没後すぐの資料があれば
		こういう事にはならなかったと思われるが、どうやらそういう資料は全く存在しないようだ。京都、近江(滋賀県)、備前唐津(岡山県
		南東部)、越前(福井県東部)、三河(愛知県東部)、北越(新潟県・富山県)、長州萩(山口県萩市)、雲州近松村(島根県東部・出雲)
		などがおもな出生地候補である。これらに対して、大正14年8月号の「国語と国文学」に、福井の郷土史家田辺密蔵が「近松門左衛
		門の所出に就て」という論文を発表し、近松門左衛門の出身は越前であると唱えた。「杉森家系譜」をもとに論考し、近松の父(信義)
		は福井藩主松平忠昌に仕える武士であり、後に浪人して京都に住んだことがほぼ明らかとなった。この説は大阪市立大学文学部教授森
		修(もりおさむ)によって検証が進められ、森は杉森家系譜のほか福井藩の記録をもとに、越前と杉森家の関係を明らかにした。
		(「国語国文」昭和33年10月号 「近松門左衛門と杉森家系譜について」)これによって、今日では越前鯖江説がほぼ定説となっ
		ているようだ。

 




		以下は、その越前鯖江説を元にした解説である。

		近松門左衛門の本名は杉森信盛で、幼名を次郎吉という。承応2年(1653)、吉江藩士杉森市左衛門信義の次男として誕生する。父の
		信義は松平昌親に仕え、300石どりであったが後に浪人となる。近松3歳の明暦元年(1655)、藩主松平昌親(まさちか)の吉江入
		封に伴い、杉森一家も吉江に移住した。近松12歳の寛文4年(1664)には、父信義が吉江藩に在籍していたことは資料により明らか
		であり、その後藩を辞して京都に移るまでの10年余りを父母と共に吉江の地で過ごしている。近松門左衛門の母は岡本為竹法眼の娘
		とある。岡本為竹法眼は越前藩「万病回春病因指南」(享保6年11月奥書)によると、藩主である松平昌親に仕えた医師である。それ
		がどういう事情かは分からないが、近松門左衛門の一家はいつの頃か京都へ移住して来たようである。寛文11年(1671)の、京都の俳
		人山岡元隣の「宝蔵」(たからぐら)に近松門左衛門の俳句があらわれている。「しら雲やはななき山の恥かくし」これが、近松門左
		門の数え年19歳の時の句だという。とにかく19才の時には京都に居たようである。

 

 


		寛文12年(1672)に、仕えていた公家の一条恵観(昭良)が死去している。 また、師事していたと見られる「宝蔵」の山岡元隣もこの
		年に死去している。近松門左衛門はこの二人を通して古典や俳諧の奥義を学んだものと思われているが、この二人を失った近松門左衛
		門の落胆は想像に難くない。しかし翌年、寛文13年(1673)月より多くの浄瑠璃作品が著されており、天和三年(1683)には 「世継曽
		我」が宇治座で上演されているので、宇治で浄瑠璃作者として10年程修業していたものと思われる。また、上方の名歌舞伎俳優坂田
		藤十郎との緊密な提携のもと、歌舞伎制作にも情熱を注いでいる。代表作として「傾城仏の原」(けいせいほとけのはら)がある。
		藤十郎が都万太夫座(京都)の座元を引退すると近松は大阪に移住し、「世継曽我」が貞享元年(1684)に大坂道頓堀で旗揚げした竹本
		義太夫によって語られて大評判になり、浄瑠璃作者としての地位を確保する。元禄16年(1703)「曾根崎心中」(そねざきしんじゅう)
		で大当たりをとって以降、次々と傑作を生み出していった。宝永2年(1705)年、竹本座は、座付作者として正式に近松門左衛門を迎え
		ることになる。竹本、近松の出会いで、以後、長きにわたって大阪が浄瑠璃の拠点として日本中に君臨する事になり、義太夫は浄瑠璃
		の代名詞ともなっていくのである。



  

 


		享保9年(1724)11月22日、大阪天満で没し、約40年に渡る作家生活を終えた。大阪の法妙寺と尼崎の広済寺に葬られた。
		法妙寺は現在の大東市へ移転したので、墓だけがこの地へ移された。

 

 




		広済寺を開山した日昌上人と近松門左衛門は知己があり、広済寺の開山にあたり、「広済寺開山講中列名縁起」(享保元年9月)に
		近松門左衛門の名前が記入されている。この年に亡くなった母「智法院貞松日喜」(享保元年9月9日命日)を広済寺に葬っている。
		当時、広済寺本堂裏には「近松部屋」という、六畳二間、奥座敷四畳半の建物があったそうで、近松はここでも著作したと伝わって
		いる。近松門左衛門の戒名は「阿耨院穆矣日一具足居士」。
		「曽根崎心中」「冥途の飛脚」等の不朽の名作を残した近松門左衛門の菩提所として、広済寺の墓碑は国定史跡に指定されている。





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