Music: 僕さぁ、ボクサーなの -boxer-
大江神社・勝鬘院(愛染さん)・藤原定隆の墓

2003.6.29(日曜) 歴史倶楽部第74回例会






		【愛染(あいぜん)坂 】

		口縄坂から松屋町筋を南へ下ると、大江神社の108段ある煩悩の階段が見える横道がある。神社の右手には、大江神社の木々と星光
		学園の壁とにはさまれてうす暗くなっている坂があり、これを愛染坂と呼ぶ。ゆるやかな勾配の坂を息を切らして登り切ると、左
		手に大江神社と愛染さんの名で親しまれている勝鬘院(しょうまんいん)がある。

 

 



大江神社


		祭神は、素盞鳴命(すさのおのみこと)、豊受大神(とよけのおおかみ)、欽明天皇(きんめいてんのう)、少彦名命(すくなひこ
		なのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)となっている。「大江」の名前からここに大きな入江があったのだろうと推測さ
		れる。少彦名命は大きな船で海の彼方からやってきたという言い伝えがあるので、もともとは少彦名命だけを祀っていたのかもし
		れない。先ほど訪れた安居神社も天神さんという事で菅原道真を祀っているが、もともとはここの祀神も少彦名命である。これら
		の事実は、この辺りが古代に外部からの訪問者を受け入れた最初の上陸地であった可能性を示唆している。古代の浪速は、上町台
		地以外は海の底だったので、西から来た渡来人達(だけとは限らないが)は、このあたりに一大「外来者集落」を形成したものと
		思われる。大江神社から20m程行くと、左側に勝鬘(しょうまん)院、通称「愛染さん」がある。

 









勝鬘院(愛染さん)


		【勝鬘院(しょうまんいん )】 大阪市天王寺区夕陽ケ丘5-36 

		聖徳太子が四天王寺を建立した際、四院も造営しここはその一つ施薬院(せやくいん)であったと言われている。一般的には愛染
		(あいぜん)さんと呼ばれ、ここで行われる愛染祭は大阪の夏祭りの先頭をきり、大阪3大祭りのひとつである。宝恵駕篭(ほえ
		かご)が出て賑わい、芸能関係者、商人、縁結びを願う人達がたくさん訪れる。境内には縁結びの霊木として有名な、かずらと桂
		が一体となった愛染かつらがあり、桂にからみつくかずらは、愛染祭の時期に満開となる。
		今回見そこなったが、境内の奥に立つ多宝塔は大阪市内に唯一残る桃山時代の建造物で、秀吉が建立した。慶長初期(1600年頃)
		の建造といわれ、全国有数の大きさを誇り、重要文化財である。勝鬘院の北側には藤原定家と並ぶと言われる鎌倉時代初期の歌人、
		藤原家隆の墓がある。木の繁る小さな丘に、墓と「夕陽丘」の由来となった歌碑が建てられている。



 







 



藤原定隆の墓


		愛染堂の東側を左(北)へ入り、マンションの角を左へとると右側に明治の元勲、陸奥宗光の娘「清」を祭った清地蔵があり、
		その先に藤原家隆の墓がある。

 




		【藤原定隆の墓】 天王寺区夕陽丘町5 大阪府史跡

		藤原家隆(1158〜1237)。後鳥羽上皇の命により藤原定家を含む5人で「新古今和歌集」を編纂した。承久の乱により上皇が隠岐
		へ流された後も歌を送って情義を結んだという。定家と並び称される平安後期から鎌倉初期にかけての代表的歌人である。晩年の
		嘉禎(かてい)2年(1236)この地に「夕陽庵(せきようあん)」という小庵を設け、日想観(にっそうかん)を修め往生したと
		言われている。「夕陽丘」はこの庵名に由来する。当時はここから大阪湾に沈む夕日が見えたのであろう。よほど気に入った場所
		だったと見えてこの地で没している。しかし庵があったのは確認されているが、墓がここにあったかどうかは確実ではない。
		この上町台地から、海に沈む夕陽をみて石碑の「ちぎりあれば…」の歌を詠んだといわれる。

 

 

 






		元の道へ戻って左側へ曲がり、しばらく行くと道は間もなく右へ曲がっている。すぐ左側に浄春寺という寺があり、その境内に田
		能村竹田の石碑と麻田剛立の墓がある。







邪馬台国大研究 / 歴史倶楽部 /chikuzen@inoues.net