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竹本義太夫の墓・一心寺

2003.6.29(日曜) 歴史倶楽部第74回例会






	【竹本義太夫(たけもとぎだゆう)の墓・超願寺 】

	庚申堂を出て、真正面に四天王寺を見て歩いていると、左側の建物の前に石柱があって「竹本義太夫の墓」となっていた。「え、あれっ、
	これってあの義太夫?」「そうでっしゃろなぁ。」「そうでっせ、浄瑠璃の義太夫ですわ。」「あ、このあたりの人かい。」

 

 


	竹本義太夫は、慶安(けいあん)4年(1651)、この超願寺から南へ約100mほど行った辺り(摂津国東成郡天王寺村南堀越(現・大阪市
	天王寺区))の農家で生まれ、子供のときから浄瑠璃(三味線に合わせ,節をつけて語る語り物)に夢中で、家の手伝いなどはせず、少
	年のころにはすでに近郊で芸達者の名声を得ていたといわれる。附近の路上に生誕地の碑が立っているそうだ。研究熱心で小唄・俗謡か
	ら物売りの呼声まで身につけ、修練を積んだ。

 




	古浄瑠璃の一派である播磨節を主としていたが、播磨節の創始者・井上播磨掾(はりまのじょう)の指導は受けず、高弟の清水(きよみ
	ず)理兵衛について修業した。その後も京・大坂で修業を重ね、延宝5年(1677)独立、道頓堀(どうとんぼり)に竹本座という人形芝
	居の常打ち小屋を開設した。作者に近松門左衛門を迎え、三味線(竹沢権右衛門(ごんえもん))・人形の名手(辰松八郎兵衛)、経済
	面での協力者(竹田近江・出雲一族)を得て『曾根崎心中』で空前の大当たりをとった。数多くの古浄瑠璃各派を押さえ、義太夫節が浄
	瑠璃節を代表する勢いを持つに至ったのは、竹本義太夫の語りのすばらしさに加えて、近松門左衛門の文章が当時の人々の心をつかんだ
	ためである。古浄瑠璃作品が出来事だけを書き連ね、悪人や善人など型にはまった人物しか描かなかったのに対し、近松作品は登場人物
	の心理を巧みに描写して、観客の心を舞台上の人物と一体化させることに成功した。義太夫の独特の語りは「義太夫節」とよばれ,浄瑠
	璃の代名詞にまでなった。こうして脚本家・スタッフ・経済的サポートによって義太夫節は見事に大成し、竹本座は隆盛を極めることに
	なった。正徳4年(1714)64歳で没、



 


			竹本義太夫墓所 
			大阪市天王寺区大道1−14−1 超願寺内 
			TEL   06-6771-6654    
			開館時間   10:00−16:30
			拝観料 無料
			最寄り駅 市バス大道一丁目 JR天王寺駅 地下鉄御堂筋線・谷町線 天王寺駅  






この後「四天王寺」を巡ったが、写真が多いので独立したコーナーにした。以下は、その後廻った「一心寺」のレポートである。







	【一心寺(いっしんじ)】

	一心寺は、文治元年(1185年)、法然と後白河法皇がこの地で一緒に「日想観」を修めた故事をもって開基と伝えるが、もともと四天王
	寺の塔頭であった。元和元年(1615年)大坂冬・夏の陣では徳川家康が茶臼山一帯に布陣し、一心寺も宿舎にされた。幕末以降、納骨の
	寺として有名になり、1周忌が済むと、家の仏壇に祭っていた故人の遺骨をここへ納骨する風習が出来た。この寺では納骨された骨を砕
	いてセメントに混ぜて大きな仏像(骨仏)を作成して祀っている。明治20年(1887年)に約5万体の納骨でもって「骨佛」が造立されて以
	来、10年ごとにその間に納められた骨でもって「骨佛」が造立され、現在までに12体が造立され、納骨堂には戦後の6体が安置されている。

 

	
	門の前で、一心寺浪曲寄席のチラシを配っていた。門は黒い鉄骨の造形でモダンアートのようであり、仁王像は「仏」と言うより西洋の
	荒ぶる神々を思わせる。一心寺では江戸末期以来、年中無休で、申し込み次第法要が出来、すぐ納骨も出来るというので参拝者が多い。
	我々の訪れた日も結構多かったような気がしたが、自身もここに納骨して貰おうと考えている河内さんによれば、「いやいや今日は少な
	い方でっせ。」と言う。今日では大体、年間に1.5万〜2万体が納骨されているというので、10年目ごとに約15万〜20万体の骨でもって
	「骨佛」が造立されつづけている事になる。河内さんも砕かれてやがてここで仏像になるのだ。

 

 



	
	遺骨を砕いて仏像を造るという発想はちょっと私にはショックだったが、考えてみれば死んでしまってからは別にどうされようといいじ
	ゃないかという発想にたてば、案外平気なのかもしれない。火葬場でも、骨壺には入りきれなかった骨はまとめて静岡県かどこかへ運ば
	れて埋められていると言うし、現に河内さんも別段気にしていないようだ。一心寺では納骨された骨はただちに粉抹状に加工し、他とあ
	わせて保存するので、返してくれと言ってももう不可能だ。まとめて仏像を造るのでペットなど人間以外の納骨はできない。

	この寺では、毎月1回日曜学校が開かれていて、誰でも参加することができ、佛教に関するQ&Aや、生活で直面する「生と死」、「親子」
	「お金」などといったテーマを取り上げ、有名人をゲストに招いたり、歌や芝居、落語などを交えてのユニークな講座らしい。メインは、
	釈迦の話が主体でエンターテインメント付きの釈尊クラスと、阿弥陀のお話が主体の弥陀クラスがあるなど、極めてユニークであるが、
	それはこの寺へ入ってきた時の門構えをみただけで納得できると言うものだ。



	
	一心寺の前の信号で向こう側に横断して左へ少し歩くと安居神社の入口である。通路のような狭い境内を入って行くと右側に本殿があり、
	その手前に「真田幸村戦死の地」という大きな石碑がある。安居神社を出た北側に、なだらかで広い天神坂がある。安居神社が菅原道真
	を祭神としていることに由来して坂の名がついた。天神坂の上り口から高台にある安居神社の境内へ上ることができ、通り抜けると「天
	王寺七坂」最後の逢坂につきあたる。 



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