Music: Fool hill
清水の地蔵さん・庚申堂

2003.6.29(日曜) 歴史倶楽部第74回例会






JR天王寺駅東出口


	【清水の地蔵さん】

	JR天王寺駅東出口から陸橋を渡ってJR阪和線の下をくぐり、直進すると広い道路に出て暫く行くと、四つ角の左側に
	清水の地蔵さんがある。地蔵さんの側には井戸があり、「清水の井戸」とある。四天王寺石水の一なりとあるが、ここに
	この泉が湧いていたところからこの辺りを清水と呼んだものらしい。地蔵さんがいつごろ立ったのかは不明。ここから左
	へゆっりとした坂道を上ってゆくと、間もなく左側に庚申堂があり、その前の道を「庚申街道」と呼ぶ。

 

 




	【庚申堂】

	清水の地蔵さんから歩いてすぐの所に庚申堂(こうしんどう)がある。その由来については、下の資料をご参照いただき
	たいが、そもそも庚申信仰は中国の道教からきた思想で、「60日に1回廻ってくる庚申(かのえさる)の日、人間の頭
	と腹と足に三尺(さんし)という虫がいて、この虫が体を抜け出して天帝に、その人の罪科を告げると命が奪われるとい
	うので、その夜は眠らずに身を慎んでいなければならない」という延命長寿の思想らしい。



 


	「人間が寝ている間にお腹に潜んでいる3匹の虫が抜け出して天に昇って天帝に密告すると、その人は長生きできない」
	というのだ。だからその晩は庚申堂に籠もり、寝ないで夜を明かすという慣習が生まれたと言う。しかし、私の田舎にも
	「庚申尊天」と掘られた大きな石碑が道の四つ角に立っていて、小さい頃は「台所の火の神様」とか「水の神様」とか聞
	いたような気がする。聞けば全国に庚申信仰は広まっており、今日の参加者全員ご存じだったし、田舎にいくとよく「庚
	申尊天」と刻まれた石塔を見つける。このような庚申信仰がなぜ全国津々浦々へ広まって行ったのだろうか。道教思想を
	すんなり受け入れるほど、日本人が道教に親しんでいたとは思えない。申=猿というのもなにか、日本神話に言う天孫降
	臨の猿田彦神との関連を想像させる。








	文武(もんむ)天皇大宝(たいほう)元年( 701)正月7日庚申(こうしん)の日に、青面金剛童子(せいめんこんごう
	どうし)がこの地に出現し、当時大流行の疫病をしずめたといい、その為ここが庚申信仰発祥地といわれ、三猿信仰や庚
	申の日に北向きで「こんにゃく」を食べるなどの風習を生んだと言う。

 


	境内には、「申=猿」と言うことで、あちこちに猿が祭られている。上の屋根の上にも猿がいる。三猿堂や(見ざる、聞
	かざる、言わざるを祀る。)三猿を刻んだ石碑もいくつかある。うぅ〜ん、庚申堂、庚申尊天かぁ。僕が子供のころは
	「おこじんさま」とよんでたなぁ。一体どっから来た神様なんやろ。

	 相当気になったので、田舎に電話してお袋に我が田舎の庚申尊天について聞いてみた。

	「なんか、おこじん様のお祭とかやっとったね。」「今でもしちょるよ。」
	「えぇー、どげな祭りね。俺りゃ全然知らんばい。」「そら知らんやろ、集まって酒飲むんやから子供は知らんじゃろ。」
	「酒飲むだけね?」「いやぁ、2ケ月に一回当番が回ってきてね、だんごを61個作って御神酒と一緒に供えるとよ。そし
	 て夕方3軒が集まってその団子を食べて、男子(おとこし)は酒を飲むとよ。」「それだけね。」
	「それだけよ、余った団子は3軒で分けて持って帰るとよ。」「なして3軒なん。」「さぁ、なしかねぇ。内と隣と下ん
	 新屋が終わったら次に行くとよ。」「次?つぎて何?」「次の組たい。」「次の組?」
	「その3軒が1組になって来年は次の組が当番になるとたい。」「いー、長谷山みんなが3軒づつ組になっとるとね?」
	「長谷山にゃ2っしか、おこじんさまは無いけんね。当番が回ってくるとは20年に1回ぐらいたい。」「20年!」

	 2ケ月に1回。団子61個。飲んで食って夜を明かす。我が田舎でも庚申信仰は根付いていたのだ!50歳を過ぎるまで
	 知らなかった。なんたる事!
	「ばってん、こんにゃくやら食べよらんかったよ。」団子を食っとるやんけ!
	「あたしが嫁入って来たときから、教わった事をそのままやっとるだけやもんねぇ。」

 

福岡県の私の実家近くの「庚申尊天」。上左の坂を登っていくと実家である。

 


	以下、私も書き込んだ「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」からの転載。(2007.2.21)

	<庚申塔> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて
	建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、
	塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。
	庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行く
	のを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って宴会などをする風習である。
	庚申塔の石形や彫られる神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、
	聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。 同様の理由で庚申の祭神が神道では猿田
	彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、猿田彦神は道祖神とも信仰されるため、庚申信仰が道祖神信仰と
	も結びつくこととなった。さらに仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。
	庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。これは道祖神など他の路傍の石仏にはあまりみ
	られない機能であり、庚申塔の特色とされている。
	庚申塔は全国的な分布が確認されているが、地域によって建立数に差が見られる。特に旧相模国を中心とした地域では
	数多くの庚申塔が建立された。なお相模国には日本ではじめて三猿が彫られた庚申塔(茅ヶ崎市輪光寺、市重要文化財)
	や青面金剛が彫られた日本最古の庚申塔などが残っている。

	<歴史>
	庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からである。以降、近世を通して多数の
	庚申塔が建てられた。当初は三猿像や青面金剛像を彫り付けたものが大多数であったが、しだいに「庚申塔」あるいは
	「庚申尊天」と文字のみ彫り付ける形式が増加する。
	明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を勧めた。さらに高度
	経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。
	現在、残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転されたものや、もともと交通量の少ない街道脇に置かれてい
	たため開発による破壊を免れたものである。田舎町へ行くと、今でも道の交差している箇所や村落の入り口などに、
	「庚申尊天」とかかれた石柱を全国で見ることができる。


邪馬台国大研究 /歴史倶楽部ホームページ/ 庚申尊天