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遙かなる西安 法門寺 2005年9月25日




	
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	法門寺 (ほうもんじ)  陜西省宝鶏市扶風県法門鎮  (西安市内より約140キロ) 
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	西安からさらに西へ140kmほど行った扶風県にある、後漢時代2世紀頃に建てられた寺である。今回の旅で一番西の端
	にある訪問地だ。整備された高速道を降りて下道を、どこまでも広がるトウモロコシ畑の中を延々と行く。こんなに遠いの
	かと帰りが心配になり出した頃やっと着いた。片道2時間はゆうにかかった。この寺は、釈迦の舍利をおさめる「関中塔廟
	始祖」の寺として有名である。2千年前、インドのアショカ王が仏舎利を8万4千個の断片に分け、それを全世界に送った。
	そのひとつがこの寺にもたらされたという伝承が残る。中国には19個の仏舎利が届き、その配布された寺の名と位置もわ
	かっているが、実際に仏舎利が出現したのはこの寺だけだそうである。
	歴代皇帝が帰依するなど、多くの信仰を集めた名刹だが、1987年の寺塔再建調査の際、唐代の地下宮殿(地宮)が現れ、
	仏舎利をはじめとするおびただしい数の文物が発見された。考古学上の大ニュースとしてわが国にも伝えられた。およそ千
	百年をへてこの世によみがえった品々は、唐朝文化の優雅さや唐代社会の繁栄がしのばれる第一級の工芸品だった。初めて
	確認された幻のやきもの「秘色青磁(ひそくせいじ)」、我が国遣唐使も招来したと考えられる喫茶道具、金銀の舎利容器
	など、敷地内にある法門寺博物館にこれらの出土品が展示してあり、唐代文化の精華をつたえた一見の価値ある品が数多く
	並んでいる。
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	後漢の時代から北魏の時代まで、この寺は阿育王(アショカ)寺と称された。アショカ王は古代インドの国王で釈迦牟天が
	入寂(死去)した200年後、仏の骨(舎利)を8万4000に分骨して世界各地に塔を建て供養したと伝えられている。
	中国では19基の仏真身舎利塔が建立されたが、法門寺塔はその中で第5基といわれている。隋の文帝開皇3年(583)
	にこの寺は成実道場と改名され、唐の高祖の武徳7年(624)に法門寺と名付けられた。法門寺塔は最初4層の木造だっ
	たが、明代に潰れてしまったので、明の神宗は万暦7年(1579)にこの塔を13層の煉瓦造りの塔に造り直した。
	塔身は高さ54mあり、塔の2層から12層までそれぞれ各層に8つの仏壇があり、その中にそれぞれ銅製の仏像と菩薩像
	が1体ないし3体安置されている。合計で104尊あり、大部分の仏像は背に文字が刻まれていて、刻銘の内容によって、
	これらの仏像の奉納者は主に明代の官僚であったことがわかる。仏像のそばに南宋と元の時代の写本の経典と復刻の経典が
	置かれていた。





	
 	「帯ィ尓游西安」(観光解説書)

	「BC485年 釈迦牟尼がマガダ国からコーサラ国へ行く途中亡くなった。付近の8カ国は火葬した舎利を8つに分けて
	持ち帰り、塔を建てて供養した。佛典によると200年後、阿育王が法力によって佛骨舎利を8万4千に分け、一日で世
	界各地に8万4千の塔を建て供養させた。法門寺は阿育王塔の一つである。相伝によると法門寺は東漢年間に建てられ、
	寺名を阿育王寺と言った。 唐初になって名前を佛法之門という意味の法門寺と改めた。    ・・(略)・・
	法門寺塔が1981年に西半分が崩れたので、再建するため1985〜1987年に取り壊した時、塔の基礎部分に地宮
	を発見し、そこから多くの珍らしい文物とともに佛舎利4枚が見付かった。 ・・・・
	佛教協会が鑑定したところ4枚のうち第3枚が佛祖の真の指骨で、他の3枚は“影骨”(ダミー)であることが分かった。
	・・・」 





	
	創建は東漢の恒帝年間にさかのぼるという。古代史の世界では有名な、倭国が乱れまくっていた「桓霊の間」(後漢の桓帝
	と霊帝の時代:147〜189)である。伽藍は、前に宝塔、大殿が後ろにひかえる早期唐代のものであるが、現在の宝塔
	は明代の47mの磚塔である。その他の法堂、方丈などは最近復元されたもの。門前には広場と300mの宝塔路を中心に
	して観光みやげ店が並ぶ、日本で言えば完全な門前町である。



前殿。1939年再建。華嚴三聖像と18羅漢がまつられている。



	
	当初ここにはさほど興味があるわけではなかったが、地図で見ると、茂陵、乾陵の延長にあるし、楊貴妃の墓とされる場所
	が近くだったので予定に入れておいたものだった。ここへ行く途中で楊貴妃の墓にも寄っていけるだろうと考えたのだ。
	しかしこの寺と楊貴妃の墓は遠く、「時間があれば」という張さんの言葉に期待したが、やはりこの日のスケジュールでは
	訪問はかなわなかった。しかし、
	「楊貴妃ははっきりどこで死んだかもわからないし、まして遺骸もないのにあそこに墓を建てただけですから、あそこより
	法門寺に行くほうがいいですよ。法門寺まで行く日本人はそうそういませんよ。楊貴妃の墓に寄ってたらおそらく法門寺は
	断念しないといけないでしょう。どうしますか?」
	という張さんの言葉通り、楊貴妃の墓よりここのほうが遥かに訪れる価値は高かった。仏舎利の信憑性はいったん置くとし
	ても、この寺の宝物がすごかった。「仏舎利の寺」と言うことで、歴代の唐の皇帝たちの寄進がすごかったのだ。当時最高
	の宝物の数々がこの寺に集まってきたのである。



	
	しかしながら、というわけで宝物警護の警備員の数も多く、おまけに写真撮影禁止で、いつものように隠れて撮ろうとする
	と、めざとく見つけた警備員がすぐ近づいてくるので、残念ながらそれら宝物群の写真がない。手に入る限りのものは数点
	入手したが、全体をここに公開できないのはまことに残念である。図録も販売していなかったので、写真をみようとすると
	かって奈良の国立博物館で開催された「法門寺展」の図録でも古書店で探すほかない。



	
	法門寺塔は最初4層の木造であったが潰れたため、1579年明の神宗が、13層の煉瓦造りの塔に建て替えた。塔身は
	高さ54mで、塔の2層から12層まで各層に、8仏壇とその中にそれぞれ銅製の仏像と菩薩像1ないし3体安置されて
	いる。これらの仏像の奉納者は主に明の官僚だという。13層の塔の地下に入れば,塔の地宮の見学ができる。宝物は別
	棟の法門寺博物館にある。



舎利が納められた寺塔の、地下宮殿(地宮)への入り口。





	


	例によって、地宮内は撮影は禁止である。多すぎるほどの警備員が目を光らせている。よってここに掲示できる写真がな
	い。中は円形になっていて、派手な装飾にいろどられた壁の真ん中に祭壇があり、仏舎利を納めていた箱もがここにあっ
	た。それをガラス窓ごしに見ることができるが、小さな容器が遠くに見えるだけで、とても骨であるかどうかも判別でき
	なかった。当然釈迦の骨などと確認はできない。「ほぉー、あれがそうか。」と言うだけである。ここで見た資料に、
	「佛骨」の科学的検査の結果でも人間の骨であることは十分に有りうる、江沢民が間違いなく「佛骨」であると言った、な
	どというものもあった。本家のインドにも何も残っていないので、唯一法門寺だけが本物の佛舎利を持つ寺であるという
	ことになる。
	
	この指の舎利は8重の宝石箱の最も内側の、第8重目の純金製の小塔の中にある銀柱の上に挿してあった。この8重の宝
	石箱は、唐の「懿宗」が奉納したもので、金・銀・珍珠・漢白玉石・白檀などを材料として製作されている。8重の宝石
	箱の両側には石刻の四天王が舎利を護持するために侍立している。第2枚の指の舎利は地宮にある漢白玉石製の小塔の中
	に安置してあった。第3枚は地宮後室にある小龕の中の鉄箱にあった。この鉄箱の上辺に「奉納皇帝敬造釈迦牟尼仏真宝
	函」と刻まれている。第4枚は地宮の前室にある彩色の菩薩舎利塔の中に安置してあった。

	これまで、釈迦の指の舎利と称される舎利は四枚発見されているが、その中の1枚だけが釈迦の本当の指で「霊骨」と呼
	ばれ、他の3枚は「影骨」と呼ばれる。影骨は霊骨から複製したものだが、仏教の世界では影骨もやはり聖骨で、仏の真
	身舎利と考えられている。この4枚の指の舎利は世界で始めて発見されたもので、現在も指舎利は世界中でこれしか存在
	していない。しかし最近では、サイズが大きいため指の骨とは考えにくく「指状の骨」としているようだ。




	
	清の順治年間(1644−1661)に地震のため塔が傾き、中に亀裂が生じた。1981年8月に台風による雨で塔身
	の側面の半分が倒壊したため、1987年1月に倒壊寸前の塔を解体したところ、基壇部に4室からなる地下宮が発見さ
	れた。唐時代の地下石室(地宮)が現れ、その前室、中室、後室からは金銀器、ガラス器、8重の金銀の箱に収められた
	仏骨、青磁器、宮廷茶器、絹織物などの文物が大量に発見された。さらに数日後、地宮後室で中から佛舎利4片を含む唐
	代の大量の宝物が土出し、始皇帝の兵馬俑坑に次ぐ考古学的大発見と、世界的に注目を浴びた。



	
	その他、法門寺塔の地宮からは首の無いガラスの壷、青い釉薬の水差し、純金の糸で刺繍した礼拝用のクッション、真珠
	の瓔珞を付けた金めっきの菩薩像が出土した。さらに、金銀の器131点、錦、綾、羅、紗などの織物700点、珍珠や
	宝石400点、ガラスの器17点なども出土した。皿や碗、瓶は上辺に青、黄、緑、白などの色がつけられ、とても華麗
	なものである。ガラスは西域から中国に伝来したもので、西アジアの特徴がある。これらの珍品の中で純金の「単輪十二
	環錫杖」は非常に精巧にできている。巨大な杖(つえ)であるがあくまでも儀礼用とみられ、実用には大きすぎるようだ。



	
	法門寺は長い間皇族の御用寺院として歴代の皇帝から崇められた。北魏の時代にその塔の地宮を開いて釈迦の指の舎利を
	見せたことがあると伝えられている。唐代のほとんどの皇帝が仏教を崇拝し、法門寺の仏骨を何回も宮廷に迎え盛大な行
	事を行なった。法門寺唐の舎利は30年毎に開帳されたが、唐代の末期から行われなくなり、やがて唐の滅亡という激動
	の中で人々の関心から消え、時の流れの中に埋没したまま、地下宮殿で今日まで永い眠りについていたのである。



	
	前述したように、博物館内は撮影禁止で写真がない。館内は唐代のすばらしい宝物であふれていたが、また写真撮影等を
	監視する警備員でもあふれていた。したがって、この看板にあった写真と入手できた数点の写真、館外にあったモニュメ
	ント等々で想像してもらうほかない。いずれまたここの宝物にお目にかかる機会があるかもしれないので、その時はここ
	に掲示したいと思う。百数十点の金・銀器がまばゆい程に輝いていた。



2mほどあった杖(じょう:つえ)。あまりに大きいので実用ではなく儀礼用だと思う。金色に光り輝いていた。



釈迦の指とされている舎利が入っていた8重の金銀の小箱。



	
	金貴石貼付 宝相華文函 (きんきせきてんぷ ほうそうげもんかん)。舎利は4つ発見され3つはダミーだった。1つが
	本物だったが、これはダミーが入っていた箱群である。盗掘者が間違うように、ダミーほどすばらしい保管箱に入ってい
	たのだ。もっとも仏教界では、ダミーも偽物ではなく本物として扱うとある。


これ(上)が本物の入っていた函。最小の箱は石でできた「家型」だった。











青磁 八稜形長頸瓶 (せいじ はちりょういがた ちょうけいへい)唐時代 9世紀





銀鍍金 人物禽獣文高脚香入れ(ぎんときん じんぶつきんじゅうもん こうきゃくこういれ)唐時代 9世紀



銀鍍金 亀形盒 (ぎんときん かめがたごう) 唐時代 9世紀



1987年、倒壊寸前の塔が解体され、調査された。発掘中の地下宮(地宮)。







ここが博物館への入り口。



ここから見た法塔が一番綺麗に見えるというので、早速撮影した。なるほど様になってる。





博物館のベランダから見た法門寺周辺。塔の左側(上)と右側(下)。







博物館を出たところにもう一つ博物館があった。こちらは宝物館ではなくて、レプリカと写真やモニュメントで構成された展示館だった。





仏舎利を唐の皇帝の元へ運ぶ行列の絵。舎利はしばらく宮殿に置かれ、やがて、皇帝からの多くの寄進物(宝物)とともに、法門寺へ戻ってきた。



上左は、1981年に台風による大雨で倒壊した塔。右半分が完全に崩れてしまっている。土のレンガが一気に崩れ落ちた。





	
	中国の名僧・高僧と言われる人々の肖像画が掲げてあったが、最澄・空海もあったのには驚いた。二人がここへ来たかどうか
	は確認されていないが、中国の仏教界でも、二人は名僧として扱われている。



警備員が見ていたので、柱の陰から写した。そのためあまりピントも合っていないし暗い。



	
	また2時間以上かけて西安の町へ戻ってくる。西安に着いたらもう真っ暗だった。車も家の中も、相当暗くなるまで電気をつ
	けない。張さんに聞いたら、「まだ目で見えるからじゃないですか。」とか「家に誰もいないんでしょう。」とかはっきりし
	ない返事をしたが、推測するに、おそらく電力統制が行われているのじゃないかと思う。しかし、車のライトは点けないと危
	ないような気がするが、相当暗くても無灯火なのでみんな驚いていた。日本ならすぐ捕まると思うが、そういえば町にパトカ
	ーや警官の姿は殆ど見かけなかった。





	
	夕食は、今回初めて肉がいっぱい出てきた「しゃぶしゃぶ鍋」。昨夜と同じような火焔鍋もあったが、豚肉とマトンと牛肉を
	敵のように食べ尽くして満腹、満腹。もうカラオケにも飽きたので、今夜はホテルのカフェで、今回の旅で初めてのコーヒー
	を飲むが、これがまたまずかった。ホテルのレストランにも町中にもうまいコーヒーを飲ませるところがない。「中国人はあ
	まりコーヒーは飲みませんから。」と張さんは言っていたが、それにしてもホテルくらいうまいカフェがあってもよさそうな
	ものだ。五つ星に泊まればあったんだろうか。ホテルの土産物屋で青銅器のレプリカを買う。中国では、買い物は店員との値
	切り交渉だ。







	
	カフェには、明らかに西域の血が混じっているなと思われる、ハッする美人のウェイトレスがいた。残念なことに英語も喋れ
	なかった。ホンマに美人だった。




西安での最後の夜に、張さんも入れて全員で記念撮影。



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