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遙かなる西安 乾陵 2005年9月25日














	
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	永泰公主墓 (えいたいこうしゅぽ)
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	西安市の西方77km、乾県の北原にある。
	永泰公主(684〜701)は、唐4代中宗(3代高宗の子)の7番目の娘で、高宗と則天武后には孫娘にあたる。彼女は、則天
	武后の甥「武延基」(武承之の子)と結婚したが、則天武后の怒りに触れ、大足元年(701)に17歳で夫とともに武則天よ
	り死を賜った。神竜2年(706)に、乾陵の陪葬墓として夫の武延基と合葬された。死を哀れんだ父中宗(則天武后の息子)
	が、武后の死後彼女をここに葬った、と言われている。永泰公主という名も、中宗によって追贈された。しかし彼女は南山
	で死んだと言う説もある。
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	1960年から3年にわたって発掘され、墓内は全長87.5m、墓道は傾斜し、四方の壁には入り口から後室までくまな
	く壁画が描かれている。特に有名なのは侍女図で、庭を逍遙する女官、如意や小箱をもつ女官などが優雅に、そして生き生
	きと描かれている。これら、羨道にあでやかに描かれた宮女たちは、死後の彼女に仕えさせるためであろうといわれ、ここ
	の壁画が、奈良の高松塚壁画のモデルともいわれている。墓は全部土を盛り上げて造られ、墓道はスロープ状で、高さ2m、
	幅3.9mである。このほか、唐三彩の陶俑や石刻、陶磁器なども千点余り出土した。これらの出土物をあつめ、永泰公主
	墓の傍に展示室を設け、現在「乾陵博物館」が開設されている。ここが、解放後発掘された最も大きな墓だそうだ。



	
	入口を入ってスロープの石廊下を下っていくと、あまりはっきりとは見えないが、両側の壁に東側は青龍、西側に白虎の壁
	画が描かれている。そして、鎧をつけた将軍や、宝剣を身につけた儀仗隊の絵、唐三彩の家屋、井戸、燭台、壷などのほか
	に婦人俑、騎馬俑や石、馬、豚、羊などの陶俑が置かれている出窓などがある。少し奥に進むと、石廊下の真ん中に大きな
	墓誌銘が見える。「大唐故永隊公主」と篆書で刻まれている。下の石台の上には830文字が楷書で刻まれており、側面に
	はつる草模様や十二支の動物などが描かれている。





	

	さらに進むと、発掘したときに発見された盗掘の穴(上右)があり、レンガでふさいでであるが、ここがそうですよとわざ
	わざ説明版がある。その時、ここで遺体と鉄斧が発見されている。この墓は明らかに盗掘されていたが、それでもすばらし
	い唐三彩、陶俑など1350点が土した。





	
	天庭の部分が終るとドーム状の墓室である。墓室は前墓室、後墓室に分かれていて、前墓室の両側の壁は一面に壁画が描か
	れている。「仕女図」は高松塚古墳の壁画に似ていて、日本でも良く知られている。これが高松塚古墳壁画の原型だろうと
	されているが、その大きさや筆致などに違いが認められる。壁に描かれている8人の宮女は唐代の典型とも見られるもので、
	頬が張り、眉が太く、いかにも意思が強そうな顔つきで、ある宮女は燭台を手にとり、あるものは扇、あるものは如意を持
	っている。彼女らはまるで主人の永泰公主の用事のためにそこに控えているといった感じである。









	
	前墓室から後墓室への間にかって石門があったが、盗掘者によって壊されたそうだ。後墓室の中には黒い大きな石椁がある。
	その周りを鉄柱の柵がとりかこんでいる。横4m、高さ2.5mあり、石椁には門もあり、その上にドアノッカーがついて、
	その脇に二人の宮女像が彫られている。巨大な石椁で、これほどのものは日本の古墳には無いようである。この中に木棺が
	あり、長期間泥水に浸かっていたため腐っていたようだ。後墓室の天井には天象図があるが、よく見えない。東の方は太陽
	を象徴する三足金鳥で、西の方は月を象徴する玉兎、その間は天の川で、星々が正しい位置に配置されている。これもキト
	ラや高松塚の原型のような。唐代の陵墓の特徴は、当時の宮殿を真似て作られ生前の生活を再現しようとした点にあり、墓
	道や玄室には様々なものを飾り、色鮮やかな壁画は写実的に描かれて、柩は全て家屋の形をしている。それらの文物は当時
	の社会生活や宮廷建築や女性の服装、髪の形などを研究する貴重な資料である。







	
	武后の権力欲の犠牲者は多いが、驚くのは近親者や孫たちまでその中に含まれていることである。乾陵周辺には、則天武后
	の怒りにふれ死を賜った唐の高官やその近親者、また高宗、武則天の近親者の墓が多い。     

	「章懐(しょうかい)太子」 高宗と武則天(武后)の第2子で、学問にすぐれていたが、684年、武后から死を賜った。 
	「懿徳(いとく)太子」   中宗の長男で、701年に、武后から死を賜った。 
	「永泰(えいたい)公主」  中宗の第7女で、700年郡主に封ぜられ武延基に嫁したが、翌年、兄や夫とともに17歳
				  で武后から死を賜った。



	
	永泰公主の墓の前には乾陵博物館があり、いくつかの陪塚から発掘された出土品が展示されている。第一室は乾陵と永泰公
	主墓の説明で、乾陵の復元鳥瞰図もある。第二室は永泰公主墓と同じように、章懐太子、懿徳太子の部屋である。唐三彩の
	出土品が多い。そして唐代の優れた絵画、壁画も目をみはるものが多い。





































	
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	乾陵(けんりょう:チェンリン) 陜西省乾県乾陵旅游区
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	唐3代目の皇帝高宗(李治:在位649〜 683)と、中国唯一の女帝「則天武后」(中国では「武則天」:(在位690〜 705)
	の合葬墓である。中国歴史上、夫婦が皇帝で共に葬った例はこの乾陵しかない。日本では天武・持統天皇陵のみである。
	西安の西北約80km、陜西省乾県の県城の北方6kmの梁山中腹、海抜1047mにある。乾陵博物館からは3kmほ
	ど西北にあり、とにかくでかくて圧倒される。端から端まで歩いたらいったいどのくらいかかるのか想像もつかない。山
	沿いに築き、二重の周壁をめぐらし、四面に闕門と大型の石刻を置く。広大な規模で、仁徳天皇陵などの比ではない。唐
	代皇帝陵の中で代表的な大型陵墓で、最も保存状態が良い。
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	684年に高宗がここに葬られ、706年に武則天が合葬された。地下宮殿は盗掘に遇っていないと言い、未発掘である。
	1960年に一度、墓室へのトンネルの掘削を試みたが,石と鉄漿で堅牢に封じてあることが分かり,当時の技術では無
	傷で開けることは困難と判断されて中断されている。陵墓の南東には17の陪塚があるが、そのうち5つはすでに発掘が
	済んでおり、4300点あまりの出土品が乾陵博物館に展示されている。官女たちの壁画が有名。曽(城内)は城壁で囲
	まれ東西南北に門があったが、今は南門に一対の華表(石柱)がある。





	
	高宗の寵愛を受け、政治的能力にも長けていた則天武后は、高宗の死後、実権を握り、「聖神皇帝」の名で天下を統治し
	た。中国史上唯一の女帝である。
 








	
	立ち並ぶ石像の中でも有名なのが、その服装から内外の少数民族とみられる61体の首なしの石像である。高宗の葬儀に
	出席した諸蕃族の酋長と、外国の使者をあらわした石像だそうだが、後世の破壊で頭部はすべて欠けている。一説では、
	清朝の時、旱魃がこの地を襲った。それはこれらの外国人のタタリだとして村民が首を打ち落としたという。シルクロー
	ド沿いの諸国家の王や使節とみられるこれらの石像は、帯び揚げをし、長靴を穿き、中国外民族の服装をしている。もと
	は背中にそれぞれ官名、国名、姓名などが刻まれていたが、1300余年の風雪で、摩滅してしまったという。この乾陵
	から、唐の時代に陵墓の前に多数の石刻を並べるようになったという。我々も中国人観光客のマネをして記念写真を撮っ
	てみた。張さんも、「私も!」といって並んで写った。









	
	ふたりを埋葬する乾陵は、梁山の峰を利用して造られており、陵の南を南北に走る、石を敷き詰めた長さ500mの参道
	(司馬道:神道)には、120余りの文武百官の石像のほか、華表やペルシア風の1対の翼馬と駝鳥(朱雀)、5対の石
	馬、10対の武人、首の無い61王賓像、石獅子などの石像や無字碑、述聖紀碑が立ち並んでいる。



あの山のどこかに高宗と、則天武后の墓がある。一度発掘されたらしいが、掘った学者は埋め戻してしまって、今はその場所もわからないという。



順番を待って我々も記念撮影。



	
	門外には一対の豪壮な石獅子がうずくまる。参道は陵から南へ一直線に伸びており、長さは数kmに及ぶという。我々も
	帰りにこの道を通って帰ったが、じゃがいも畑のような台地の中を、確かに延々と1本道が続いていた。



前方の丘の上に二つの建造物が見えるが、あれが元々の乾陵の門である。あの間に巨大な壁があったというから驚く、というより呆れる。



	
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	武則天 (ぶそくてん  623年 - 705年 : 在位690年 - 705年 )
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	稜々たる中国史上、唯一の女帝として君臨した則天武后(624?―705年、在位690―705年)は、唐の国号を周と改変し、
	政敵を次々と葬るなど、専横で暴虐的な人物として有名である。姓は武 。諱は照 。日本では則天武后 の名前で呼ばれ
	るが、最近の中国では武則天と呼ぶ事が多くなってきている。
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	14歳の時に唐2代目の皇帝太宗の後宮に入り、才人(最下級の妃)となったが、太宗にはあまり召しだされる事は無く、
	太宗の死後には尼になった。高宗は才人の頃から武則天を気に入っていたといわれる。
	永徽6年(655)、高宗は王皇后を廃し、武照を皇后に立てた。 皇后となった武則天は病気がちな高宗に変わり、垂簾政
	治を行った。唐は隋と同じく基本的に貴族政治である。武則天はこれを嫌い、新しい人材を積極的に登用した。武則天は
	外事にも取り組み、顕慶5年(660)に新羅の要請に答え、百済討伐の軍を起こす。百済を滅ぼした後の日本と 百済の遺
	臣連合軍との白村江の戦い(中国の史書では「白江の戦い」と表記される)にも勝利し、更にその5年後には孤立化した
	高句麗を滅ぼした。一方で、武則天は薛懐義、張易之・張昌宗兄弟といった自身の愛人、武三思、武承嗣らの武氏一族を
	重用し、その専横を招いた。また許敬宗などの佞臣を使い、反対者には容赦をしない密告政治を行い、来俊臣、索元礼、
	周興ら酷吏が臣下たちを監視する恐怖政治をしいた。

	弘道元年(683)に高宗が死去すると息子の「中宗」を即位させるが、中宗の皇后 韋后が自分の縁者を要職に付けようと
	した事に怒り、中宗を廃し「睿宗」を立てた。睿宗は自らの立場を理解して傀儡に徹したので無事にいることが出来た。
	武則天に対し左遷された李氏の皇族たちは反乱を起こすが、すぐに鎮圧された。反乱鎮圧の後、武則天は女帝が出現する
	事が書かれた預言書を流布させたり、周代に存在したと言われる明堂(聖天子がここで政治を行ったと言われる)を再現
	させたりと自らの王朝を立てる準備を行った。
	690年、ついに武則天は皇位につき、国号を周とし、自らを「聖神皇帝」と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格
	下げされ、李の姓に代えて武姓を賜ることとなった。この周は彼女の姓を冠して武周と呼ばれる。

	武則天は仏教を偏重し、諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、この事を記したと
	言われる「大雲経」を作り、これを治めるための寺院を全国の州にそれぞれ作らせた。これが後の日本の国分寺制度の元
	になった。武則天も老いて来ると病床にあることが多くなり、指導力も衰えてきた。次第に唐復活の機運は高まり 705年
	1月24日に宰相張柬之により譲位を迫られ、中宗が復位する事になった。武則天はその後まもなく死去した。


	武則天はこれまで、横暴で残虐な人物とされてきた。しかし、一方では有能な官僚の登用や沌用の奨励をはじめ、シルク
	ロードを整備して諸外国との活発な交流を促進させたほか、詩文や書をはじめとする文化の振興、仏教や道教に対する深
	い信仰など、政治・経済・文化・宗教の諸方面において優れた業績を残した。近年、中国では、彼女の生涯が映像化され
	たり、展覧会も開催されるなど、にわかに脚光を浴びているという。



	武則天は改名が非常に好きであった。660年にはそれまでの皇帝と皇后と言う呼び名を「天皇」と「天后」とに改めて
	いる。他にも洛陽を「神都」と改めたりしている。彼女は漢字も改変し、則天文字と呼ばれる新しい漢字を作っている。
	20個ほどあったといわれるが、これらはほとんど使われることは無かった。今の中国には残っていないが、ただ唯一、
	圀の字だけが日本の「徳川光圀」の名の中に残っている。武則天はまた元号も頻繁に変更した。睿宗が即位して改元(文
	明(684))した以降の改元は次の通りである。

		光宅(684) 
		垂拱(685) 
		永昌(689) 
		載初(690) 
		天授(690) 
		如意(692) 
		長壽(692) 
		延載(694) 
		證聖(695) 
		天冊萬歳(695) 
		萬歳登封(696) 
		萬歳通天(696) 
		神功(697) 
		聖暦(698) 
		久視(700) 
		大足(701) 
		長安(701) 

	武則天が行った政治は創業期を過ぎた唐の政治的な矛盾点を改め、人材を登用し、黄金期を導いたと言う事で司馬光など
	の歴史家達も非常に高く評価している。武則天が子供をも容赦なく殺した残酷さを非難する歴史家は多いが、しかし一方
	で必ず武則天の政治的手腕に言及している。唐代で彼女の政治能力を上回る皇帝は唯一太宗があるだけだと言って良いと
	いう人もいるほどである。





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