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遙かなる西安
茂陵
2005年9月25日
西安城壁を見て、郊外の茂陵、乾陵、法門寺をめざす。上の写真はかっての唐代の長安城の西の門にあたるところ。獅子や
他の動物を彫刻した石像が、西の方向を目指して歩き出そうとしている。我々はここから前漢の武帝の陵「茂陵」を目指す。
ほどなく近代的な建物は姿を消し、トウキビや高粱畑とレンガつくりの家並みが点在する田舎町の風情になってくる。
興平県の県城東方15kmにあり、前漢の皇帝の陵墓ではもっとも大きい。武帝は即位の翌年から造営に着手し、53年の
歳月と毎年の税収の3分の1の費用をついやして完成させたという。陵は正方台形で、高さ46.5m、陵の周囲は916
mで、総面積5400平方m、底部の一辺は230m、頂部の一辺は40mである。記録によると、陵墓には外国から送ら
れた玉の箱、玉の杖や武帝が生前に愛読していた本など、いろいろな宝物が入れられたとされている。陵墓には一体どのく
らいの宝物があったのかは今となっては不明であるが、当時毎年国の租税の3分の1が墓造りや副葬品の買い入れに用いら
れていたという記録がある。この山自体が墓である。博物館からは意外に遠く、博物館の塀沿いを歩いて15分ぐらい、車
で3分くらい行ったところにある。まわりは一面のトウモロコシ畑だ。
茂陵博物館の門前では、露店ともいえないような籠だけならべているおばちゃんたちが手持ち無沙汰に果物を売っていた。
門亭を入ると回廊式の池があり、その上段に霍去病の墓がある。1978年に、霍去病の墓のそばに「茂陵博物館」が開設
された。かっては400m四方の城壁が築かれ、墓を守護する兵舎があったと言う。霍去病の墓は堂々とした造りで霍去病
の碑字を撫でると病気が治るといわれ、観光客が碑字を撫でたらしく碑は光っていた。
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茂陵[もりょう:マオリン] 興平市茂陵
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西安市の郊外西北部約40km、咸陽市の北原に、前漢の皇帝の陵墓が一直線に並んでいる。前漢王朝214年間の皇帝は
計11人だが、そのうち、文帝劉垣(在位:前180〜前157)の覇陵と、宣帝劉諭(在位:前74〜前49)の杜陵を
除く9つの陵墓は、渭水(いすい:西安市を流れ黄河に注ぐ)北岸の北原に東西50kmにわたって並んでいるのだ。西か
ら武帝の茂陵、昭帝の平陵、成帝の延陵、平帝の康陵、元帝の渭陵、哀帝の義陵、恵帝の安陵、高祖(劉邦)の長陵、景帝
の陽陵の順である。このうち、長、安、陽、平、茂を五陵と呼び、漢代には陵邑(陵を守るための村)を設けていた。茂陵
は、前漢の第5代皇帝・武帝の墓陵で、前漢の皇帝陵の中では最も西に位置している。茂陵の地下宮殿には、様々な貴重品
が副葬品として埋葬されていた。「漢書」貢禹伝には、金銭財物のほか生きた馬、虎、豹 なども埋蔵されたとある。近く
に李婦人、霍去病などの陪葬墓がある。
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上下4枚は展示品ではなく売店にならんでいるものだった。人もいずCASHERも無いので、最初展示品かと思ったがどうやら商品だった。
武帝劉徹(前156−前87)は漢の第5代皇帝である。紀元前141年、16歳で即位し、紀元前87年、70歳で亡く
なった。武帝はシルクロードの開拓の皇帝として有名だが、また優れた才能と遠大な計画をを持つ有能な政治家で、汗血馬
を導入し強力な騎馬軍団を作り上げた軍略家でもあった。紀元前138年には張騫を遣わしてシルクロードを開通させた。
これは中国と中央アジア諸国との経済、文化の交流にとって画期的な出来事であった。中央集権体制を強化し、前漢の黄金
時代を築いた。儒教の国教化、塩・鉄の専売化による財源の充実、また、対外的には匈奴に対する全面的な開戦、西域への
積極的な進出など、その後の古代中華帝国の規範的な姿を出現させた。「漢字」を周辺諸国に浸透させ、全盛期には国際的
にも、高度な文明を持つ強国として鳴り響いていた。
「こんなオバサン撮ったって。」といいながらまんざらでもない張さん。
馬踏匈奴。匈奴を踏みつける馬というのは、こりゃまたすごい。
茂陵の東にあるのが、茂陵の陪葬墓のひとつで、武帝の重臣、名将・霍去病の墓である。死後、武帝により手厚く葬られた
という。霍去病(かくきょへい:前140〜前117)は武帝時代の卓越した将軍で、18歳のときに叔父の衛青(?〜 前
106)について旬奴の地に出撃したのを皮切りに、あいついで北方へ出撃し、その数は6回におよんだ。そのたびに匈奴
を殲滅させ、河西回廊と西域との間の交通路を漢に帰順させ、シルクロードの基礎を開拓した。若くして驃騎将軍となり、
叔父の衛青と共に行った匈奴との戦いは「史記」にも詳しい。しかしながら、前117年、霍去病はわずか24歳で病死し
てしまう。武帝はその死を惜しみ、長安と茂陵の間数10kmにわたって隊列を並べ葬送の儀を行った。
墓は霍去病が匈奴との戦いに明け暮れた「祁連山」の形を象った塚で、墓前に武帝がその戦功をたたえて建てた大型の石刻
が並ぶ。匈奴を踏みつける馬、臥馬、躍馬など14点が並んでいる。墓碑の裏側に階段がある。楼へは階段を昇って行いけ
る。てっぺんに楼があり休憩所になっているそうだが、我々はパスしたが、そこからの眺めは気持ちよく、茂陵をはじめ、
陪葬墓がよく見えるそうだ。
茂陵博物館にある、自然石を生かした動物の石刻。中国の彫刻の初期作品で、匈奴を踏む馬、臥牛など前漢期の傑作がそろ
っている。ここから背後に見える小高い山が「李婦人」の墓「英陵」で、東南を向けば、「衛青」「金日彈」「霍光」など
重臣たちの墓が点在する。茂陵のまわりには約20の陪塚が点在しているそうで、これらの陪塚は方形、円形、山形の三種
類に分けられ、皇族や功績のあった武将・大臣の墓などである。
当時、漢代の埋葬制度に従って、茂陵の東南の辺りに町を造ったという。「漢書」の記録によると、おびただしい文官、武
官、貴族が相次いでここに移住し始め、町の人口は28万人にもなった。現在でもこの付近には幾何学模様と青龍、白虎、
朱雀、玄武のついた芸術的に高い価値がある「空洞煉瓦」などが出土しているが、当時の建物はひとつも発見されていない。
霍去病と張騫は共に武帝に仕えて西域で活躍した。墓の前に石刻像を置くのは霍去病と張騫が最初だというが、これはもと
もと西域の風習であった。天然の石で彫った石獣などが飾られているほか、茂陵周辺から出土した漢代の貴重な文化財が陳
列されている。中でも「馬踏飛燕」像などが有名である。
これは怪獣がなにか蛙のようなもの銜えている。これらの石像は、もともと自然石の中から、それらしいものを加工してつくった。
何のためにこの写真を撮ったんだろうと後から思ったが、このレンガを見てもらうためだった。庶民の家もこれと全く同じ
レンガで造ってある。ほんとに土の家である。
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