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遙かなる西安 秦始皇陵 2005年9月24日




	
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	秦始皇陵(しんのしこうていりょう:チンシーホワンリン)  陜西省西安市臨潼区 
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	西安市の東30km。秦の始皇帝(前259〜前210、在位前246〜前210)の墓で、高さ55m、周囲2000m。
	中国最初の皇帝がここに眠る。世界第3位のスケールを誇る驪山の北麓にある。高さは47m。一見普通の小高い山に見
	えるが、初めて中国を統一した始皇帝を埋葬した陵墓だ。始皇帝は紀元前259年生まれで、名は瀟政。13歳で即位し
	て、22歳で政務を執行。その後敵国を次々と滅ぼして、前221年に全土統一に成功した。中国史上初めて「皇帝」の
	称号を名乗った。紀元前209年に病死。
	陵墓は、即位間もなく始皇帝自ら陵墓の造営に着手し、37年を費やし各地の70万の囚人を使ってようやく完成した。
	『史記』の記載によれば、墓は盗掘に備えて地下深くまで穴を掘り、その下に銅を敷きつめ、墓室を作って棺を置いたと
	いう。また、墓室は宝石をちりばめた宮殿や楼閣があり、床には水銀を流して、自然界の星空や海、川を表現。数多くの
	宝物を守るため、自動発射の弓矢も仕掛けられている。1980年、陵の西約20mの地点で、実物を2分の1に縮小し
	た青銅製の馬車が2両発見され、内1両は復元されて兵馬俑博物館に陳列されている。 





	
	中国を統一した最初の皇帝・秦の始皇帝の陵墓。西安の街から東へバスで1時間の郊外にある。秦の始皇帝の陵墓は、当
	時の慣習に従って即位した時から築造開始された。司馬遷の「史記」によると、紀元前246年、秦王に即位してまもな
	く、驪山(きざん)のふもとで彼の陵墓の築造を始めたとなっている。見た目は単なる緑の丘で、テクテクテクと階段を
	のぼって上までのぼれるが、その下に巨大な地下宮殿が眠っていて、「史記」にその様子が記されている。最近ではそれ
	を再現したCGが各種出版物で再現されている。

 

訪れたこの日は「秦陵大祭典」というお祭りの期間中だった。ラッキーと思ったが、張さんの話では「いつもやってます」との事。







 



	
  	紀元前209年、始皇帝はここに葬られた。現在、前方の高さ70m程の墳丘が残るだけだが、地中には壮大な宮殿が造
	られ、周囲6.2kmに及ぶ広大な墓地である。完成時はもっと大きかったものが、2千年の時を経て次第に侵食された
	ものらしい。



	秦の始皇帝は、周の東遷(紀元前770)以降、春秋・戦国と約550年間にもおよぶ分裂の時代に終止符を打ち、史上初
	めて中国国家を統一し、中国最初の「皇帝」となったことで知られる。皇帝としての在位は前222‐前210.[秦の始皇帝」
	という呼び名から、秦の初代の王と思っている人もいるが、実は秦31代目の王である。王としての在位は、前247から
	前222までで、皇帝となるまでの間「秦王」であった。名は政。(贏政;えいせい、とも言う)荘襄王の子。




	一説では、荘襄王が人質となって趙に寄寓していたおりに、陽占の大賈(大商人)である呂不韋(りょふい)は自分の姫
	妾を荘襄王に献上したが、その時彼女はすでに呂不韋の子を身ごもっていたともいう。政は、趙の国都邯鄲で生まれ、荘
	襄王の死去により13歳で秦王となる。はじめ呂不韋を相国(大宰相)として国政を任せたが、即位10年に乾毒(ろうあ
	い)の事件に連座したために排除し自殺に追い込んだ。






	ついで法家の李斯を重用した。王翦(おうせん)等を派遣して「韓」を手始めに、「魏」、「楚」、「燕」、「斉」、「趙」
	の戦国6雄を次々と滅ぼし、「秦」帝国の成立を実現した。三皇五帝から採用した「皇帝」の称号を定め、自ら始皇帝と
	称した。この辺りの展開については様々な物語に、壮大な中国史の部分として描かれている。現在、我が国の天皇も用い
	ている「朕」、「制」、「詔」などの皇帝専用用語を制定し、また旧来の文や武といった諡法(しほう:皇位継承権内に於
	ける諡号制)を廃止した。




	統一の大事業をなしとげた英雄であることは間違い無いが、反面血も涙も無い専制君主としても知られている。制度文物
	の統一とともに、焚書 (ふんしよ)と坑儒(こうじゆ)を強行して思想および言論の統制を図った事でも有名。




	前210年、巡幸の途中で病死したが、丞相の李斯と宦官の趙高は内乱の発生を危惧してこれを隠し、詔命と偽って太子の
	扶蘇と蒙恬を自殺させ、棺を咸陽に運んではじめて喪を発し驪山 (りざん)に埋葬した。末子の胡亥が二世皇帝として即
	位したが、始皇帝以来の法罰至上主義、たび重なる外征および朝宮や陵墓などの土木工事に民衆の反感を招き、山東や
	楚地を中心に反乱が起こり、始皇帝の没後わずか4年で秦は滅亡した。秦の始皇帝でかつ終皇帝だったわけだ。






	昭和49年(1974)、陝西省(せんせいしょう)西安市郊外で井戸を掘っていた農民たちが陶俑(とうよう)の破片を見
	つけた事がきっかけで、始皇帝陵が発見された。発掘の結果、日本でも有名になった等身大の兵士や馬の陶製人形(兵馬
	俑)8000体が発見さた。他にも彩色跪射(きしゃ)俑を含む国宝級の兵馬俑や、銅車馬、度量衡(どりょうこう)器、
	装飾品などの文物が山ほど出土している。






	即位28年から斉,楚,燕などの故地への巡幸を開始し、山東半島で徐市(じよふつ:徐福)から海中にある三神山のこと
	を聞き、徐市に仙人と不老不死の薬を求めさせた(徐福伝説)。前215‐前214年、北辺に蒙恬(もうてん)を派遣し匈奴を
	漠北に追い払うとともに、燕、趙、秦の旧城をつないで遼海から臨降(りんとう)に至る約1500kmに及ぶ長城を築き北方民
	族の侵入に備えた。これがいわゆる「万里の長城」である。



徐福と後世(明代)の長城








	<呂不韋>(りょふい) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	?− 紀元前235年。中国戦国時代の秦の政治家。始皇帝の父荘襄王を王位につける事に尽力し、秦で権勢を振るった。始
	皇帝の本当の父親との説もある。呂不韋は各国を渡り歩いて商売をし、富を築いた。ある時に趙の人質となっていた秦の
	公子・異人(後の荘襄王)に目を付けて、「これ奇貨なり。居くべし。」(これは珍しい品物だ。これを買って置くべき
	だ)と言った。異人は当時の秦王の昭襄王の太子安国君(後の孝文王)の子であったが、安国君には20人以上の子があり、
	子楚の母は安国君からの寵愛を失っており、子楚が王位を継げる可能性は低かった。当時の秦は趙と対立しており、その
	趙に人質に出すと言う事は死んでも惜しくないと言う事で、異人の待遇は悪く、日々の生活費にも事欠くほどであった。
	しかし呂不韋はこの異人を秦王にし、その功績を持って権力を握り、巨利を得る事を狙ったのである。
	呂不韋は異人に金を渡して趙の社交界で名を売る事を指導して、自身は秦に入り、安国君の寵姫である華陽夫人の所へ行
	った。呂不韋は華陽夫人に異人は賢明であり、華陽夫人の事を実の母親のように慕って日々思っていると吹き込んだ。
	更に華陽夫人の姉を使って異人を華陽夫人の養子とし、安国君の世子とするようにと説いた。華陽夫人は安国君に寵愛さ
	れていたが、未だ子が無く、このまま年をとってしまえば自らの地位が危うくなる事を恐れて、この話に乗った。安国君
	もこの話を承諾して、子楚を世子に立てる事に決めた。
	趙に帰った呂不韋は子楚(異人が名を改めて子楚となった)にこの吉報を知らせ、呂不韋は子楚の後見となった。呂不韋
	は趙の芸者の女を寵愛していたが、子楚がこの女を気に入り譲って欲しいと言い出した。呂不韋は乗り気ではなかったが、
	ここで断れば今までの出資が無駄になると思い、子楚に女を渡した。この女は既に呂不韋の子を身篭っていたが、子楚に
	はこれを隠し通し、そのまま子楚の子と言う事にしてしまった。これが政(後の始皇帝)である。

	紀元前252年、秦で昭襄王が死に、孝文王が立つと子楚は秦に送り返され太子となり、その後すぐに孝文王が死んだた
	めに即位して荘襄王となった。呂不韋は丞相となり、文信侯と号して洛陽の10万戸を領地として授けられた。呂不韋の狙
	いは見事に当たり、秦の丞相として権勢は並ぶものが無かった。紀元前246年、荘襄王が死に、政が王となった。呂不
	韋は仲父(叔父)と言う称号を授けられ、呂不韋の権勢はますます上がった。
	この時期には孟嘗君や信陵君などが食客を集めて天下の名声を得ていたが、呂不韋はこれに対抗して3000人の食客を集め、
	呂不韋家の召使は1万を超えたと言う。この客の中に李斯がおり、その才能を見込んで王に推挙した。更に客の知識を集
	めて『呂氏春秋』と言う書物を作った。これは当時の諸子百家の書物とは違って思想的には中立で百科事典のような書物
	である。呂不韋はこの書物の出来栄えを自慢して、市の真ん中にこれを置いて「一字でも減らすか増やすか出来る者には
	千金を与える。」(一攫千金の由来)と触れ回った。中国の教科書にも載っている。

	権勢並ぶものが無い呂不韋は元の愛人の太后と密通していた。これは元々太后が荘襄王が死んで、物足りなくなったので
	呂不韋を誘ったのだが、政が大きくなるにつれてこの関係を続かせるのは危ないと感じた呂不韋は別の■アイ(ろうあい)
	と言う巨根の男を紹介した。太后は■アイに夢中になり、子を二人生んだ。■アイはその後、権勢を振るったが、太后と
	の密通が発覚して誅殺された。王は呂不韋をも殺す事を望んでいたが、今までの功績を重んじて丞相の罷免と蟄居に留め
	た。紀元前236年、呂不韋はその後も客と交流する事を止めずにいたので、王は呂不韋が客と謀って反乱を起こすので
	はないかと恐れて呂不韋を詰問する手紙を送り、蜀への流刑とした。この事に呂不韋は絶望して、翌年服毒自殺を遂げた。
	呂不韋が始皇帝の実の父であると言う話は広く流布しており、半分事実のようにも扱われている。しかしそれを否定する
	歴史家もいる。どちらにせよ本当の所は呂不韋と太后だけが知っている事であり、今後も定説が出来る事は無いだろう。





	「史記」の記述では、墓穴は地下水脈あたりまで掘り、周りの壁には天文図や地形図が刻まれ、宝物があちこちに置かれ
	たという。また、水銀を注いで大河とみなし、灯がずっと燃え続ける仕組みで、要所には盗掘者の侵入を防ぐための弓矢
	が仕込まれていた。墓の内部はぜいたくをきわめ、多くの宝物が収蔵されていた。そして、始皇帝の没後2千2百年後に、
	敷地内から偶発的に「兵馬俑」が発見されることになる。

 





	
	周囲は、ザクロ林が二重にとり囲んでおり、観光客のために陵墓の頂上まで階段がつくられている。まだ陵全体を解明
	する発掘調査は行われていない。



陵へ登る石段(上左)と、頂上から見た光景(上右)。



始皇帝陵の頂上。

	
	とくれば、いかにも頂上まで登ったように見えるが、実は上までは行かなかった。「遠いですよ。」という張さんの言
	葉にみんなあきらめたのだが、帰国して後悔した。ここまで来て登らなかったのはどう考えてももったいない。あれは
	張さんが疲れていただけかもしれないし、無理して登っておくべきだった。



	

	<墳丘・内陵園・外陵園>
	中央の大きな墳丘の地下に司馬遷の史記に記されている謎の地下宮殿があったと思われる。墳丘の周りは2重の城壁で
	囲われていた。内側の城壁の中を内陵園、外側の城壁の中を外陵園と呼ぶ。一番外側の外陵園の大きさは南北2Km東
	西1Kmである。東西南北にそれぞれ門があり、角には角楼があった。城壁の高さは約20mという立派なもの。

	<便殿・園寺吏社> 
	真ん中手前に整然と並んでいるのが「便殿」である。これはこの墓で行われる儀式を執り行う役人のための施設で、右
	に並んでいる3っのブロックが「園寺吏社」で、役人の宿泊施設であった。左側にある空き地は始皇帝の側近として使
	えた位の高い臣家達の集合墓地である。穴を掘って埋めただけでピラミッド状の墳丘は作られなかった、現在27個が
	確認されている。大きな墳丘の足下に見えるのが「寝殿」である。始皇帝に供える食べ物が置かれていた。

	始皇帝は、即位と同時に70万人の囚人を動員して自らのの陵墓を造り始め、地下に宝石をちりばめた宮殿があり、盗掘
	を防ぐ為水銀の河などのさまざまな仕掛けがされているというが、後に項羽に破壊され財宝は掠奪されてしまったとも
	いわれていた。しかし現地ガイドの張さんの話では、盗掘されてないと言う。
	死んだ始皇帝の遺体は棺に納められ地下宮殿に埋葬された。始皇帝陵は東側が正面であり、埋葬時には大勢の臣下達が
	東門に整列して始皇帝の棺を送ったと思われる。遺体を埋葬したあと、地下宮殿の真上に大きなピラミッドの墳丘が築
	かれた。 



	
	<門兵・寝殿の塾>
	墳丘の足元に「寝殿」はあった。正面に見えるのは寝殿の入り口の門で「塾」と呼ばれる。「塾」を通り抜け「寝殿」
	の内部に入ったところ。中に本殿があり死後の始皇帝に毎日食べ物を供える場所だった。

 



 



	
	<工事中の墓坑> 
	工事中の墳丘。中央の穴はさらに深く掘り進められ最終的には3段の層になったと思われる。 



	
	<地下宮殿内の棺を納める箱> 
	地下宮殿は司馬遷の史記に記されているが、発掘されておらず謎のままである。復元は他の墳墓の発掘状況からの類推。
	最深部の地下宮殿内に作られた棺を納めるための外箱である。
 


	
	<施工中の地下宮殿の墓室>
	司馬遷の史記に記されている地下宮殿である。復元は想像。3層の穴の中央にさらに4層目の穴が掘られ、そこに棺や
	財宝を納める墓室が作られた。CG画像はその墓室の工事中の様子を復元したもの。真ん中の箱の中に棺本体を受け入
	れる外箱が作られたと思われる。
 


	
	<阿房宮遺跡> (あぼうきゅういせき)

	秦の宮殿の遺跡。西安市の市街西方約7.5kmの阿房村にある。秦の始皇帝(在位前247〜前210)は紀元前212
	年に咸陽の宮城が手狭になったとし、70万人を動員して渭水の南岸の上林苑に新しい宮殿の造営を始めたが、存命中に
	完成したのは前殿の阿房宮のみであった。『史記』秦始皇本紀に「前殿の阿房、東西五百歩、南北五十丈にして、上に万
	人が坐すことができる」とある。秦の始皇帝の死後、秦2世(胡亥。在位前210〜前207)が造営を続けたが、入関し
	た楚の項羽(前232〜前202)によって焼かれた。現在でも、大規模な土の土台だけは残っている。時間があればここ
	にも行きたかったが、張さんは時間がないというし「行っても何もありませんよ。」とすげなかった。






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