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遙かなる西安 半波遺跡博物館 2005年9月24日


	
	今回の西安旅行では、兵馬俑・秦の始皇帝陵が勿論目玉となる訪問地なのだが、実は個人的にはここもぜひ訪れたい場所だっ
	た。私の古代史の興味の中心は、おもに弥生から古墳時代にかけての動乱期なのだが、実はその前の縄文・旧石器時代にも大
	いに興味がある。1万年にわたって続いた狩猟・漁獲の採集生活が、どうしてそんな長きにわたったのか?縄文人たちはどこ
	から来たのか。この時代も謎に満ち溢れている。一方、その時代に、地球上のほかのクニではどういう暮らしをしていたのだ
	ろうか、という事にも興味は尽きない。英国のストーンヘンジに行った時、あそこから出てきた土器が、日本の縄文土器によ
	く似ていたのに驚いたが、「人間の同時代性」という命題もなかなか奥深いテーマである。



	
	「半波遺跡博物館は、西安市の市街地から東へ6km離れた産河の東側にあり、黄河流域における、比較的完全に整った典型
	的な母系制社会の村落遺跡である。仰韶文化の集落跡の遺跡で、6千年の歴史を持っている。遺跡は面積が5万平方米で、居
	住区と墓葬区に分かれている。博物館はこれらの遺跡を屋根ですっぽりと覆い、集落跡、居住面や建物跡をそのまま保存して
	いる。」と日本をたつ前の資料にあったので、そのまま例会案内に載せていたら、橋本さんは、「どうして母系制社会なんて
	言うことがわかるんやろか?」「なんで6千年前とかわかるんかな?」と言っていた。

 

	
	花と樹木に囲まれた半波博物館の庭の中央に池があり、池の中に築山がある。その上に一人の少女の彫像があり、少女は麻布
	のスカートをはいて、腕に陶製腕輪をはめ、手に底尖汲水瓶を持って、しゃがんで水を汲もうとしている。少女はこのあたり
	で生活していた半波の集落の娘をイメージして作ってあるようだ。

 

	
	この遺跡のことは、日本で読んだ何かの本にあったので、今回西安を訪問するに当たってはぜひ行って見たい遺跡だった。日
	本で言えば三内丸山で、縄文人達が結構文化的な生活をしていた同じ時期に、大陸ではどんな様子だったのかを知りたかった
	し、私の持論である「人間の同時代」というテーマに迫れる、格好の資料のような気がしたのである。しかし、しかし、まっ
	たく非情なことに、遺跡はいま改修中であった。何たる不運。人々のくらした集落跡や、いろいろな生活の施設や痕跡が、ま
	ったく見れないのであった。意気消沈したが、そばに出土物を展示した博物館があったのが救いだった。これで遺跡の半分は
	見れたようなものである。張さんはどこかでその話を聞きつけて、「行っても何もないようですよ」、と訪問を断念させたが
	っていたが、「どんなところか、その場所だけでも見たい。」という我々に、半分諦めて案内してくれたのだった。しかし、
	展示物の幾つかは見れたので、目的の半分くらいは果たした気がする。



	
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	半波(バンブ)遺跡博物館 (はんぱいせきはくぶつかん)    西安市半引路1号
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	半波遺跡は、今から約6000年前の新石器時代(日本で言えば縄文前期終末)に、黄河流域に暮らした半坡人の母系制村落
	(仰韶文化の集落跡)の遺跡である。1953年から5回にわたって発掘が行われた。発掘面積は1万平mぐらいに達してい
	る。発掘によって豊富な資料が得られ、中国原始社会の様相が明瞭に残っていた遺跡として、日本でも昔から有名である。
	遺跡全体は面積が約5万平方米で、居住区と墓葬区に分かれている。村落の中央にあった大型長方形建物跡、早期の円形建物
	跡、子供棺桶、文化層断面、境界としての堀、共同墓地などの氏族社会の様子や、出土した土器や骨などから、家畜の飼育、
	陶器の製造法など生活に関わる部分の様子も判明し、各種道具、炊飯用品や、絵画芸術、符号や計算式の跡と思われるものな
	ども残っていた。1958年に、遺跡の上に中国で初めての遺跡博物館が建てられ、1961年に、国から全国重要文化財産
	に指定された。
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	できた当時の半波遺跡。ドームに覆われた中に保存遺跡があったのだ。資料によれば、早期の円形の家屋遺跡、半地下式の
	方形家屋遺跡、子供棺桶、文化層断面、境界の堀、共同墓地などが展示されている、とある。全く残念。以下はここで購入
	した資料からの転載。発掘時の様子。





















 

	
	半波博物館は、展示室が三つと遺跡ホール(改築中)が一つある。
	第一展示室には、中国原始社会の主な遺跡分布図、半波博物館の建設、半波人の生産活動、家畜の飼育、陶器の製造などが
	展示されており、第二展示室には、半波人の社会組織、村落中央にある大きな長方形家屋遺跡、道具、炊飯用品、芸術と文
	化、絵画芸術、符号の利用、簡単な計算などが展示されている。第三展示室には、補助的な目的で主に陝西省原始社会史が
	展示されているそうだ。改築中の遺跡ホールには、早期の円形の家屋遺跡、半地下式の方形家屋遺跡、子供棺桶、文化層断
	面、境界の堀、共同墓地などが展示されていたらしい。見たかった。



 

 





 

	
	日本の縄文土器も装飾性という意味では確かにすばらしいが、それとほぼ同時代のこれらの土器群はいったいどうしたこと
	だろう。全く実用的である。形状も日本の弥生土器から須恵器のようなものまであり、壺や瓶(かめ)や皿に椀、それに驚
	くことに瓶(びん)の形をしたものまであるのだ。現在の器の原型がほとんどそろっていると言ってもいいのではないか。
	6000年も前に! 全く驚く。



	
	壁には全面にこういうレリーフが飾られている。「制作」とか「器」とか「戦争」とかののテーマごとになっており、その
	下に該当する出土品が展示してある。

 

 



	
	この遺跡の土器の中でも、これらの土器は一風変わっている。取っ手がずいぶんとしたのほうに付いているのである。ずい
	ぶん研究者を悩ませたらしいが、結局下の図のように、高みから水を汲むための道具だろうということに落ち着いたようだ。
	しかし、川なら近づけばいいし、湖でもどこかに水辺はある。もしかしたら深い井戸のようなわき水の泉があったのかもし
	れない。博物館でこの土器のレプリカを買ってきた。





 



 





	
	この遺跡のもう一つの価値はこの「符号土器片」である。解説では、数値などを表す記号として使われていたようなことが
	書いてあるが、だとすれば文字の原型かもしれない。今から15000年〜30000年前に描かれたアルタミラ洞窟には絵文字があ
	るが、一般には文字が発明されたのは、紀元前3000年前シュメール人によって使われた「楔形文字」が最初ということ
	になっている。文字が発明されて、遠隔地や次の世代へ豊富な情報を正確に伝達することができるようになったわけだが、
	この遺跡に住んでいた住民たちは、すでにシュメール人たちよりも遙かな昔にそれを行っていたのかもしれない。

 

 

 



 

	
	この盆様土器の模様にも驚く。幾何学模様や、魚・鹿・人面など多くの模様が綺麗に彩色されて描かれている。これもレプ
	リカを買ってきた。







 

 

 

 

 



 





 



 

 



 



 



 

 



 

 

 











 








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