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遙かなる西安 華清池 2005年9月24日(土)




	
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	華清池(かせいち)
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	楊貴妃が愛した温泉保養地として有名なところである。秦代から続く温泉地。楊貴妃の使用したといわれる浴槽も残る。唐
	の6代皇帝玄宗(685〜762)がここに華青宮を造り、毎夜宴を催したという。門を入ると蓮の浮いた池があり、散歩
	道となっている。華清池は池の名前だが、そのまわりに歴代皇帝によって離宮が建てられていてそこも見物できる。西安中
	心部から30キロ、3000年の歴史がある温泉地である。
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	華清池は西安から東に30kmほど離れた、秦嶺山脈の支脈である驪山(りざん)の麓にある。ここからは温泉が出て、な
	んと驪山の湯元は3千年前の西周時代からあるという。3千年ほど前に、驪山が爆発して温泉が湧き出たといわれ、歴代の
	皇帝が、ここを一大行楽地にしようと、大掛かりな工事を行った。海抜1256mの低高原地帯にあり、気候も爽やかで風
	光明媚とあって、歴代の帝王たちは代々、ここを遊興の地として使ってきたのである。后妃や愛妾たちとさまざまな享楽に
	耽った場所でもある。西周時代末期の周の幽王は、ここを驪宮として時々愛妃「褒似」を伴なって酒宴を行っていたし、秦
	の始皇帝もここの温泉に入ったと言う話が広く伝えられている。



	
	周の幽王は褒似を溺愛していたが、彼女は一度も笑わず幽王はそれを気にしていた。ある日、手違いで外敵侵攻を知らせる
	烽火(のろし)が打ち上げられて、四方から駆けつけてきた武将たちの、間違いと知った時の困惑と憤慨とを見て褒似は笑
	いこけた。幽王は、褒似が笑う顔を見たいがために何度も烽火をあげさせた。そのたびに諸侯は駆けつけたが次第にその数
	は減っていくようになった。さらに幽王は、皇后と太子の宜臼を廃し褒似とその生んだ伯服を立てようとしたため、皇后の
	父親「申侯」は西戎と連合して周を攻めた。またも烽火があがったが、虚報に懲りた諸侯の救援は得られず、幽王は殺され、
	周は滅亡したと伝説は語る。

 



	
	唐の玄宗皇帝は、747年この温泉地に「華清宮」(かせいきゅう)と名付けた本格的な宮殿式建物を造営し、あの有名な
	傾国の美女「楊貴妃」(ようきひ)との甘美な日々をそこですごした。唐の詩人白楽天(白居易)の、玄宗と楊貴妃の華清
	宮におけるロマンスを素材にした長編の長恨歌、「春寒くして浴を賜う華清池 温泉の水滑らかにして凝脂を洗う」は、ふ
	たりの愛と贅沢な生活振りを歌った歌として有名である。また、近代歴史上では、西安事件の舞台となったことでも有名で
	ある。 

	<西安事変>
	1936年12月12日、南京にいた蒋介石は、共産党討伐のため南京を出発して西安を訪れた。華清宮の五間庁に泊まっ
	ていた蒋介石を、張学良の軍隊が襲った事件が西安事変である。蒋介石は寝室を脱けて山へ逃れるが、その中腹の亭で捉え
	られる。張学良や楊虎城は、延安にいる毛沢東に電報を打ち、代表団の派遣を要請した。毛沢東は周恩来を西安に派遣した。
	周恩来は何度も蒋介石と交渉し、共産党との内戦を停止し、抗日のための統一戦線を築くことを説いた。これによって、第
	二次国共合作が成立した。五間庁の窓には今も当時の弾痕が残っており、驪山の山腹にはこの事変を記念して、石造の東屋
	が建てられ、「兵諌亭」と名付けられた。 

 

 

	
	華清宮は現代になって発掘調査が繰り返され、玄宗と楊貴妃のための専門の浴槽「蓮花湯」と「海棠湯」など唐代の浴槽も
	発掘・復元されている。当時の蓮花湯は規模が極めて大きく、大理石で造営し、白い玉石で魚、竜、雁、蓮の花などの形を
	彫刻し、18の浴室を飾った。特に白い玉石で彫刻された蓮の花は温泉の湯の中で、まるで芙蓉の花が水面に咲いているよ
	うだっとと伝わる。飛霜殿は玄宗と楊貴妃が泊まったところで、また、宴会と歌舞に明け暮れていたところでもある。この
	殿の南に九竜池があり、温泉の湯が流れ注いでいた池である。



 

	
	楊貴妃は絶世の美女として有名。718年蜀州の官吏「楊玄炎」の娘として生まれ、名を「楊玉環」と言う。16歳の時、
	美人(官名)に選ばれて宮殿に入り、玄宗皇帝の子、寿王の妃となった。唐の開元28年(740)10月、玄宗皇帝が華
	清宮に行幸中、宦官の高力士の推薦によって玄宗の御前へ召し出された。楊貴妃を見た皇帝は一目で気に入り、息子の嫁を
	自分の愛妾にした。その後、楊貴妃は女道士となり、太真と称し、太真宮に住んだ。官名通りに美人で聡明、その上下歌舞
	に長じた玉環は、玄宗の寵愛を一身に集め、745年には皇后に次ぐ高位の貴妃となり、それ以来、玄宗は毎年秋から翌年
	春まで楊貴妃と共に華清宮に住み、温泉に入り、歌舞を観賞し、歓楽の日々を送ったという。また楊貴妃の姉3人は妹のお
	かげで宮中に入り、まもなく一族の「楊国忠」が宰相の要職に就き、楊氏は栄華を極めた。

	貴妃池は楊貴妃専用の浴槽で、蓮の花の形をしている。楊貴妃は入浴してから、飛霞閣に上がって髪を乾かし、その後すぐ
	に桐蔭軒で踊った。玄宗はその入口で惚れ惚れと眺めていたと言う。楊貴妃は茘枝(ライチ)が好きで600kmも離れて
	いる蜀集から、3日間かかって馬で長安に運ばせたという。

 

ここが玄宗皇帝専用の浴槽である。こんな広いとこで。泳いでたんかねぇ。



 

	
	現在の華清宮には温泉の湯元が4ケ所あり、一時間の湧出量は125トンである。温泉は摂氏43度、石灰、炭酸マンガン、
	硫酸ナトリウムなど、9種類の有機物質が含まれていて、関節炎や皮膚病に効能があるという。最近発見された唐の太宗皇
	帝の星辰湯、玄宗皇帝の蓮華湯、楊貴妃の海棠湯などの浴槽遺跡の上に、当時を復元した古典的な建物が作られた。




 

 

	
	華清宮には、皇帝たちだけでなく女官や将兵たちの風呂もあった。上左の浴槽に、丸い穴が幾つか開いているのが見えるが、
	これは料理人たちの風呂で、彼らは浴槽につかる事は許されず、たったままで温泉にはいらねばならなかったし、同じ場所
	にたったまま動いてもいけなかった。決まった場所にたち続けたため、その場所に足の跡が残ったというわけである。昔の
	皇帝たちは、なんと狭量な心だったのだろう。



	
	ここが飛霜殿。ここからの眺望は、驪山の美しい風景の庭園に広い池があり、朱塗の亭や楼閣、東屋などの唐代の風格を保
	っている建物が点在し、枝垂れ柳や百日紅の木が茂り、古代のロマンスが偲ばれる。 




	●楊貴妃(ようきひ)719〜756 中国・唐の玄宗の妃。【出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』】

	幼名玉環。735年、玄宗の第18皇子、寿王瑁の妃となった。玄宗は寵妃であった武恵妃を失いその代わりとして744
	年楊氏を宮中に迎え、翌年、貴妃の称号を与えた。楊貴妃を迎えるに当たって、玄宗は彼女がなんといっても息子の妻であ
	ったため、一度道観(道教の寺)に入れて女冠(道教の尼)とし太真という名を与えるという手続きを踏んだ。彼女は天成
	の美貌に加えて才知に富み、音楽を解し舞いをよくしたので玄宗の気に入り、寵愛を一身に集めるようになった。彼女は宮
	中では「娘子」と呼ばれ皇后なみの待遇を与えられた。玄宗は楊貴妃に惑溺するのに比例して政治的惓怠の度を深めていっ
	た。また、族兄の楊国忠は財政面の官職につけられ、前後19年間宰相の位にあって専制的権力を振るっていた。李林甫が
	死ぬと、代わって楊国忠が宰相となった(752)。彼は狡智に長け、楊貴妃の恩寵を背景に権勢を振るった。官界の阿諛
	者は楊氏の門に群がったと言われる。
	安禄山は、最初は楊国忠と手を結んで李林甫に対抗したが、李林甫の死後,楊国忠との間に確執が深まり755年ついに反
	乱を起こした。玄宗は成都へ向けて避難したが、その途中、都を去ることいくばくもない馬嵬駅という小村で、行幸に従う
	兵士たちは国難を招いた元凶として楊国忠を斬り、さらに楊貴妃の処断を玄宗に要求した。玄宗はやむなく楊貴妃を縊死さ
	せ成都へ無事逃避することができたのである。兵士たちはさらに、復讐を恐れて楊貴妃につながる一族を根絶やしにしたの
	で、ここに楊氏一族は滅んだ。楊貴妃は自ら政治に口出しするタイプの女性ではなかったらしいが、亡国の危機に際して犠
	牲となった。唐の詩人白居易の詩『長恨歌』は、楊貴妃と玄宗の悲恋を歌い有名である。




	山口県油谷町・二尊院の楊貴妃伝説 

	油谷町は、本州の最西北端、山口県北西部に位置して、北長門海岸国定公園には荒波が砕ける奇岩、断がいが続く雄大な景
	観が続き、向津具半島に抱かれるように位置する油谷湾の波穏やかな自然を有しています。また、大陸に近く古くからその
	影響を受けていたこの地には、楊貴妃伝説が生まれ語り継がれています。伝説と史跡が豊かな自然の中で交差するロマンあ
	ふれるこの地をもっと知ってみませんか。
	油谷町向津具(むかつく)の二尊院というお寺に2冊の古文書が残されています。これは今からやく230年前(1766)当時の
	二尊院福林坊55世住職恵学和尚が、この地に伝わる話を古老から聞き取り書きとめたものです。

	日本で云えば奈良朝の昔、唐の国では 天宝15年(756)7月のことじゃったげな。向津具半島の岬の西側に唐渡口(とう
	どぐち)ちゅう所があってな、そこへ空艫舟(うつろぶね)が流れ着いたげな。舟の中にはな、長い漂流でやつれておられ
	たが、たいそう気品のおありなさる、それはそれは美しい女人が横たわっておられたそうな。お側の侍女が申すに「このお
	方は唐の天子、玄宗皇帝の愛妃楊貴妃と申される。安禄山の反乱により処刑されるところを、皇帝のお嘆きを見るに忍びな
	いで近衛隊長が密かにお命を助け、この舟で逃れさせ、ここまで流れ着きました。」と涙ながらに云うたそうな。
	息も絶え絶えの楊貴妃を里人たちは手厚く看護しましたがの、そのかいものう間もなく息を引き取られたげな。そこで里人
	たちは、西の海が見える久津の丘の上にねんごろに葬ったそうな。それが今、二尊院の境内にある楊貴妃の墓と伝えられて
	おる五輪の塔でのう。いつとなく「楊貴妃の墓に参ると願い事が成就する。」というのでの、多くの人が参詣するようにな
	ったと申しますいの。

	 一方玄宗皇帝は 楊貴妃への恋慕の情断ち難く、悶々として悲しみの日々を過ごしていましたが、ある夜不思議な夢を見ま
	した。「私は日本に流れ着きました。土地の人々から優しくしてもらいましたが私の体は弱り切っており、とうとうこの世
	の者ではなくなりました。天上と人間界とに別れてはいても、いつの日かきっとお会い出来る時が参りましょう。」
	夢の中の楊貴妃の言葉に、玄宗皇帝は白馬将軍陳安(ちんあん)を日本へ遣わし、楊貴妃の霊を弔ろうために秘蔵の霊仏阿
	弥陀如来と釈迦如来の2体の仏様と十三重の大宝塔を持たせました。
	日本についた陳安は、楊貴妃の漂流地を探し歩きましたが、何処の浜か、何処の浦かどうしても分からないので京都の清涼
	寺へ預け帰国いたしました。やがて清涼寺には、この預けられた仏様を拝みにお参りする人々が日増しに多くなりました。
	そうこうするうち、朝廷は楊貴妃の墓が長門の国、久津の天請寺(てんしょうじ)にあることを知り、二尊仏を移すように
	命じました。
	ところが清涼寺では霊験あらたかな仏様を手放したくないので、このまま京都に置いておくように朝廷に嘆願いたしました。
	困った朝廷では仏工の名手、天照春日(あまてらすかすが)に命じ、そっくりの2体の仏様を造らせました。そして1体づ
	つを2つの寺で分け合って安置させたということです。阿弥陀如来と釈迦如来を本尊としたので「二尊院と名乗り、天下太
	平・五穀豊饒の祈願怠りなく奉るべし。」との勅命を賜ったと申します。【山口県油谷町ホームページより】




	●陜西省の楊貴妃の墓

	755年の安史の乱で玄宗皇帝と楊貴妃はここまで逃げてきた。部下の楊貴妃に対する不満が爆発したため、玄宗皇帝はや
	むなく楊貴妃に死を命じた。時に楊貴妃37歳であった。墓は土饅頭ではなく磚積になっている。墓の周りを磚で囲ってい
	る。下部は、周りをコンクリートで固めている。その脇には楊貴妃の像が建っている。わずかに身をくねらせ、妖艶ともと
	れるポーズであるが、顔は、今の感覚で言う美女にはほど遠いような。今回は、行きたかったがスケジュールの関係でとう
	とうここには行けなかった。しかしガイドの張さんによれば、「はっきり墓とは言えないので、あまり行く価値もないです
	よ。」とみんなを慰めていた。



何か祭りでもはじまるのか、それとも観光客相手のイベントだろうか。はじまるまで見ずに出発した。


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