Music: chinese song 6


遥かなるシルクロード

フートン(胡同)




	胡同(こどう、ピンイン:hu tong / フートン)

	フートンとは、主に中華人民共和国の首都北京市の、旧城内を中心に点在する細い路地の事である。胡同(フートン)とい
	う言葉はモンゴル語に由来する。モンゴル語で「集落」の意味だという(諸説ある。)。元の時代も首都は北京であったが
	(当時は大都と呼ばれていた)、「元」が滅んだとき元軍は北京を焼かずにそのままモンゴル高原へ逃げ去ったので、フー
	トンは長い間(7−800年間)ほぼ当時のままに残っていた。
	集落は「〜胡同」と呼ばれ、北京庶民の代表的な居住形態だった。伝統的家屋建築である四合院(井戸を中心にして廻りに
	四棟、建物がその井戸を取り囲む。)が多くこの胡同に面し、古き良き北京の面影をしのばせる。井戸、すなわち水が生活
	の中心にあったのだ。四棟は一つの家族の時もあるし、まったくの他人同士もあった。しかし、年々老朽化し外観もみすぼ
	らしくなってきたので、文化大革命後、中国政府により半ば強制的に、フートン居住者たちは移転させられ、転居していっ
	た。今「人民広場」と呼ばれている広大な広場も、かってはあそこにフートンがひしめいていたのである。オリンピックを
	控えて、多くのフートンがここ4,5年で急速に消滅した。今では観光用にわずかに残り、一般の人も住んでいるが、かな
	り老朽化している。




	紫禁城の裏手にあり、人力車の元締めのような所まで車で運んでくれて、そこから人力車に乗る。ガイドと運転手はそこで
	待っているという。人力車に乗って1時間ほど町中を走るコースである。解説兼通訳に、若い兄ちゃんが我々の人力車の後
	を自転車でついてきた。




	1267年から現在の北京に建設が始まった元朝の都大都の道路建設に関する規定では、幅二十四歩(約37.2m)を大街、十二歩
	(約18.6m)を小街、六歩(約9.3m)をフートンとしている。のちに明朝三代皇帝永楽帝が南京からこの地に都を移した際、
	大都を基礎として北京城を形成したが、城内のほとんどの道路は大都からそのまま継承した。
	しかし明代以降道路建設に関する規定はほぼ無くなり、不規則な路地が多数出現した。十二代嘉靖帝の時代に、北京城の南
	側に補強する形で外城の建設が始まって以降はさらにその数を増やしていった。フートンは、清朝の頃には2076、1949年の
	統計では6,000以上存在したとされている。



屋根の形と敷居の両脇に小さな石柱が立っている家は、かって紫禁城に働いていた役人クラスの家だという。





「棋牌室」とは何でしょうか? 古いサラリーマンならピンと来るはず。そう、マージャン屋です。





フートンは特に外国人に人気があり、どうかすると路地が人力車であふれて離合するのに大変である。





	フートンの中へ入って、まだ人が住んでいるところを見せてもらう。どうやら人力車の業者と契約していて、観光客に宅内を
	見せているもののようだ。宅内は話に聞いていたとおりの四合住宅だった。真ん中の広場に井戸があり、その傍らに大きな木
	が生えている。広場を四軒の住宅が取り囲む。ここは今の持ち主(上右)のお爺さんが買ったものだそうで、「最近は北京の
	フートンはどんどん取り壊されているそうですね。」という質問には、少し気色ばんで、「この家は誰にも壊させない。」と
	言った。おそらくこのあたりは観光用として残るのかもしれないが、馬鹿な質問をしたと少し後悔した。












	古くからの北京の街並みを留めていることから、フートンは、近年は観光スポットとして内外から、主に海外からの観光客か
	ら人気を集めており、自転車タクシー(輪タク)での胡同めぐりが、新たな観光手段として注目を浴びている。
	旧市街(旧城内)の北部や外城部を中心に、いまでも多くの胡同が残っており、北京一の繁華街王府井あたりでも、一歩裏通
	りに入ると胡同が残されている。そのような地区では共同トイレを持ち回りで清掃する人や、台所のない家の住民向けの安価
	な食事場所である「小吃」(軽食堂)などが見られ、胡同に住む庶民の生活が垣間見られる。








	しかし、胡同の家の多くは各住居にトイレを持たず(台所を持たない家も多い)、そのために胡同ごとに共同管理のトイレを
	設置しているが不便なことは否めず(胡同の共同トイレは、北京の観光地ではほぼ絶滅した壁なしトイレが多い)、近年の中
	華人民共和国の経済発展や2008年の北京オリンピックに向けての再開発に伴い、保存地区とされる一部を除き改築されていく
	ものと思われる。





北京一の繁華街、「王府井」のあたり。







興慶宮公園の廻りをめぐる。この公園の中に日中協会が立てた「阿倍仲麻呂」の石碑がある。



フートンを見て、故宮の周りをめぐってホテルへ帰る。雨がパラパラ降ったり止んだり。



紫禁城の壁と門。





ホテルへの帰り道、例によってまた購買所へ寄る。今度は家具屋さんだったが、清朝御用達の家具屋だそうで、なかなか由緒があった。







上が、中国にとって日清戦争敗北の元凶と言われる西太后。右は彼女がこの店を訪れたときの写真だという。



薦められる一竿何百万等というタンスなどはとても買えないので、せめて玉座にて記念撮影。


毛沢東と田中角栄もここへ来た(上左)そうで、周恩来とニクソンはここで握手をしている(上右)。

その場所で我々も記念撮影。



	北京には数年前一度来たのだが、そのときフートンをゆっくりと見ることができなかったので、今回は是非見たかった。
	元の時代からある建物というだけで興奮してしまう。もしかしたら、ここに住んでいた者のうち誰かは、かり出されて
	日本へ攻め込んだ(元寇)かもしれない。博多湾に沈んだ者が、ここの住人だったかもしれないのだ。歴史はホントに
	「稜々(りょうりょう)たる」である。



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