Music: chinese song 2


遥かなるシルクロード 高昌故城







	<高昌古(故)城>  古代の高昌国の都城遺跡。ホッチョ、Chotscho、カラホージャ、Kara Khojaなどと記す。

	トルファン市街地から東南40kmのゴビの中に位置している。漢代に軍事用の要塞が築かれたのが高昌国の始まりで、その
	建国は5世紀である。高昌古城は南北1.6km、東西1.7kmあり、城内は、外城・内城・宮城の三つに分かれ、最盛期に
	は人口3万人、僧侶3千人がいたという。しかし、3世紀から14世紀にかけて栄えた、新疆東半の政治経済・文化の中心地
	で、5万人が住んでいたという資料もある。しかし本当のところは、紀元前の漢代に高昌郡の郡都となり、5−6世紀に麹氏
	高昌国首都、さらに9世紀末頃までウイグル王国の首都となっていたようである。したがって、その時点時点ではどの資料も
	正しいということになる。その考古学的資料としての価値は交河古城よりも高いといわれるが、都市を構成する日干しレンガ
	の破損がひどいため、修復が急ピッチでおこなわれている。


ここを我々の乗った「紅旗」は進んで行くのだった。


	高昌古城は交河古城から移って来た都の跡である。ここも交河古城同様に、土で出来た建物は風化して都の面影は留めていな
	い。我々を乗せた紅旗は人々で溢れたア−ケ−ドの中を進んで駐車場に入る。日本では考えられないような光景である。大型
	バスも、人でごった返す、天幕に覆われた屋台街の中を、ぶつかりそうになりながらクラクションを鳴らして進んで行く。
	舗装されていない、所々雨水の溜まった駐車場に、バスも乗用車も一緒に留める。ガイド付きの観光客は優先されるのか、そ
	れとも毛さんが強引に割り込んだのか、居並ぶ車を尻目にわりとすんなり駐車出来たような気がする。








	しかし古城の入口の門を入ると、そこにロバの引く馬車が何台も並んでいて、ここから又この馬車に揺られて10分ばかり行く
	のである。歩いていけば古城の中心までは30分と言っていた。ガイドは、それぞれ自分の連れて来た客を先に乗せようと馬車
	の奪い合いである。それに一般の観光客も加わるものだから、馬車の出発点は怒号と罵声の渦であった。ここでも我々はすん
	なりと馬車に乗れた。コトコトと時速6、7kmくらい(歩くより少し早い、小走りと言った速度。)で、高昌城の中心、行政
	府や寺院のあった所を目指す。進んで行く道の両側にも、風化した建物跡が並んでいる。






	高昌故城入り口から、観光用のロバ車に乗りかえて中心部へ向かう。ロバ車の御者は、日本人観光客が多いのでカタコトの日
	本語が分かる。日本人が乗っているとみると、ロバに「頑張れ、頑張れ」と声をかける。もっとも、われわれの乗った馬車は、
	回りは韓国人か中国人かわからない団体だったので、あるいはいつでも「頑張れ。」と声を出しているのかもしれない。





ここは何か役所の跡のようなことを董さんは言っていた。レンガの建物は風化したら土と化して、とても建物跡とは思えない。

















ここは「大仏寺」という寺院の跡らしい。学芸員の一団が何か測量作業をしていた。






	玄奘三蔵がインドに仏典を求めに行く旅の途中で、漢人の王・麹氏(きくし)に要請され、2ヶ月間滞在し経を講じた寺院址
	も残っている。現在は、版築で築かれた城壁や建物址が面積約3平方kmの地域に残る。




	玄奘が説法を行った寺院址に残る壁龕(へきがん、仏像を祀る壁の窪み。)。雨がほとんど降らないので屋根はない。壁には
	小さな仏像を収めた凹みがある。玄斐三蔵は講堂の中央に立って説法し、大臣たちは周りに下座して話を聞いた。当時は僧が
	8000人いたという。









ここも寺院仏塔の跡。ここはレンガがわりとよく残っている。

















これは門の跡である。







「ガンバレ!ガンバレ」と声をかける後続の御者。ロバはつらそうだった。



我々の乗った馬車の御者も、我々が馬車を降りたとき、我々に「サヨナラ」と挨拶した。






  
邪馬台国大研究 / 吐魯番(トルファン)/ 高昌故城