Music: chinese song 13


遥かなるシルクロード アスターナ古墳墓







	アスターナ古墳墓(阿斯塔娜古墓区)

	火焔山から高昌故城をめざして行くと、アスターナ古墳群がその途中にある。トルファン市の東、42kmのゴビ砂漠にある。
	アスターナ古墳群からも前方に火焔山が見えている。新疆ウイグル自治区内のトルファン盆地には、9代にわたって麹氏高昌国
	(498〜640年)が栄えた。アスターナ古墳群は、主にこの6〜7世紀に繁栄した高昌国貴族や住民のたちの地下墓群と考えられ
	ており、その範囲は南北2km、東西5kmに及び、墓の総数は1000を超えるという。しかしその全域は、3世紀から9世
	紀にかけて営まれた晋代、唐代の漢族の墓である。今世紀初めにドイツ人によって発見されたが、現在公開されているのは3つ
	の墓だけである。内部の壁画の多くは、外国人によって国外へ持ち去られた。高昌古城およびアスターナ墓地は、ドイツ隊、ス
	タイン隊、大谷探検隊といった外国隊による調査のほか、中国人・黄文弼を中心とする西北科学考査団などによっても調査され
	た。また新中国建国後には、新疆ウイグル自治区博物館が中心となって発掘調査が実施されている。

	なお、初めにでも書いたが、ここでの出土物の写真は「新彊ウイグル自治区博物館」からの常設展示品目録からSCANした画像で
	ある。その中からアスターナ古墳群出土品の一部を掲載しているが、解説の日本語はおかしい部分が多い。初めはまともな日本
	語に直していたが、あまりに膨大な量なので諦めてそのまま掲載した。勘案して読んで頂きたい。




	1929年から今日までに、考古学者によって14回発掘が行われ、全部で500基の墓が調査された。そして文書、墓誌、絵
	画、泥俑や陶製、木製、金製、石製の器物、古銭幣、絹織物、綿織物、毛織物などの貴重な文物が1万点以上出土した。とりわ
	けここから出土したミイラは、エジプトのミイラに匹敵するといわれる。1988年には全国重点文物保護単位に指定された。また
	アスターナから出土した文書類や百点を超える墓誌の研究を通じて、西晋泰始9年(273)年)に始まり、唐建中3年(782)
	にいたる文書の存在が確認されている。この期間は、晋から十六国にいたる第1期(3〜5世紀)、麹氏高昌国の第2期(6〜
	7世紀中頃)、および唐の西州に属していた第3期(7世紀中〜8世紀)に分類されている。今日では両者あわせて数千基とも
	いわれる墳墓が発掘され、多数の文物が「新疆ウイグル自治区博物館」に展示されていて拝観出来る。アスターナは、ウイグル
	語で「首府」と言う意味だそうだが、「休息」と「安眠」の意味もあるらしい。ちなみに、大谷探検隊が持ち帰った発掘品には、
	アスターナ出土のものと高昌古城(カラ・ホージャ)出土のものの、両方が含まれている。



入り口の広場にある、西域の伝説にもとづく石像。





十二支像もここから出土した俑をモニュメント化してある。私とWIFE、ガイドの董さんと、それぞれ自分の干支と並んだ。





董さんに「そりゃ豚かい?」とからかうと「似てますねぇ。」と笑っていた。己を知っていて非常に宜しい。



この土の下すべてが、高昌王国の庶民達の墓である。勿論豪奢な生活を営んでいた貴人たちの墓も多い。

またここからは旧石器も発見されている。遙かな古代には人々が生活していた集落でもあったのかもしれない。










	三つの古墳を見学する。この一帯は乾燥地帯で、地下水位が低いことから出土品の保存状態が非常によく、高昌国の民族や歴史
	を知る上で重要な遺跡となっている。門を入っていくと、砂漠の中に土饅頭のような盛り土がいくつもあり、その中にいくつか
	地中へ潜って見学できるようになった古墳が口をあけている。幅 1.5mほどの墓道があり、石段やスロープ状に地下道が墓室
	まで伸びている。古墳の中は洞窟のようで、どの古墳も裸電球一つという設備である。






	1959年、アスターナ北区302号憤から天馬文錦(上左)が出土した。この墓からは唐・永黴四年( 653)の墓誌銘も出土
	していて、その錦には円形の連珠文のなかに向き合った2頭の、翼を持った天馬が配置されていた。更に天馬を詳しく見ると、
	頭には冠を戴き、4本の足にはリボン飾りがついている。この天馬の足飾りの起源はどうやらササン朝ペルシャにあり、古くエ
	ジプトのアンチノエのエジプト人の墓から出土した天馬文錦(現在、リヨン織物美術館蔵。上中。)にも認められる。すなわち、
	連珠文の中に一頭の立派な有翼天馬が左向きに大きく配置され、同じく冠を戴き足のリボンを付けている。ササン朝の天馬文錦
	の、イランにおける残存例は極めて希だが、その現物がエジプトに渡って発見され、またその意匠がトルファン・アスターナに
	伝わったのである。しかし、アスターナの302号憤にまで伝わるには、その前に幾段階かあり、まずソグドを介した事が確認
	される。サマルカンド近くのアフラシアブで宮殿遺跡が発掘され、その壁画に描かれた騎馬図(上右)の馬にこのリボンが飾ら
	れていたのである。馬には翼がなく天馬ではないが、盛装の貴人が乗り、リボン飾りはペルシャの天馬文から借用したものとみ
	られる。そして面白いことに、この壁画騎馬図の意匠が、前述したソグド系の虞弘墓石槨浮彫画像にそのまま取り入れられてい
	たのである。石槨には冠をかぶり頭光をつけた貴人が馬に乗って闊歩する光景が二面描かれており、その足にリボンが確認され
	る。従って馬のリボンの意匠をペルシャからアスターナに伝えたのはソグド人であることがわかり、国際商人としてのソグド人
	の活躍が窺える

	「ソグド」の名前が歴史に登場するのは、アケメネス朝ペルシャのダレイオス大王(在位紀元前522〜486)の碑文に、ペ
	ルシャの州のひとつとして、「Sug(u)da」とあるのが最初である。アレクサンドロス大王は、この地を征服するのに極
	めて手を焼いあた。その後、『史記』や『漢書』では「康居国」として紹介されている。漢書によると、戸数12万、人口60
	万だった。また時代によっては、「栗特(ソグド)」、「?利(ソグド)」、「悉万斤(サマルカンド)」などとも呼ばれた。
	ソグド人は、独自では大きな国をつくらず、他の民族の国家に政治的には属しながらも、経済的にはシルクロードの商人として
	活躍していた。玄奘の『大唐西域記』では、”力田(農民)と逐利(商人)が半ばしている” と記されている。商人が人口の
	半分もあったとは、注目すべきことである。ソグド人は、中国にも集団で村を作って住み、出身地ごとに異なった姓を名乗って
	いた。石(タシュケント)、安(ブハラ)、何(クシャーニヤ)、曹(カブーダン)、康(サマルカンド)、米(マーイムルグ)、
	史(キッシュ)などが知られている。ソグド人は、独自の大国は持たなかったが、独自の「ソグド文字」を創造した。ソグド文
	字は、西方のアラム文字をもとに発展した文字で、この文字は東に伝えられ、後世のモンゴル文字や満州文字のもとになってい
	る。ソグド人たちは、商品の移送だけでなく、文化や文字も伝えたのである。
	唐の天宝14年(755年)、玄宗皇帝が重用した節度使の安禄山が、突如反乱を起こした。安禄山は、その姓からソグド人だ
	ったといわれている。安禄山は、ソグド商人たちを利用し、軍資金を貯えていたことが想像できる。安禄山が実子に殺された後
	を継いだ史思明も、同じくソグドの出身者である。763年、ウイグルの援軍を得た唐朝によって「安史の乱」は鎮圧された。
	乱の後、唐ではソグド弾圧の嵐が吹き荒れた。「胡面の人間がことごとく誅された。胡人を殺した者には賞金が与えられた」と
	伝えられている。同じ頃西方ではイスラムに侵略され、780年ころ、家を捨て山中に逃れようとした1万人以上のソグド人の
	集団が虐殺された。さらに北に逃れたが、ここでも同朋1万4千人が殺された。10世紀になるとソグドの文化は消滅した。

	昨年(2005)、新聞に「中国でソグド人の古墓が発見された」という記事が掲載された。このことは、シルクロードを往来
	していたソグド人達が遥か中国の果てまで来て暮らしていたことを示すものだった。当然、古代から遣隋使・遣唐使たちが行き
	来していた中国と日本の関係であるから、商人であるソグド人たちが来日していないわけはない。しかも渤海使として日本を訪
	れた人々の中にも、ソグドの名前を持つものが多く存在したことは史料からも明らかである。彼らがもたらした品物や書物や文
	化は、当時の貴族や知識人たちの憧れの的だった。そして異国人との出会いは更に興味深かったに違いない。これらの出来事が
	その後の日本文学へ多大な影響を与えたことは、『竹取物語』『宇津保物語』『源氏物語』に反映されているという意見もある。




	二つ目の古墳。内部は4m四方くらいの大きさで、正面に鳥や草が描かれた壁画が並んでいる。董さんの説明によれば、遠く離
	れて古里を想い画家に描かせた花鳥画で、この風景には中国南部の文物が描かれているため、墓の主は中国南部出身の金持ちで、
	墓の主は故郷の風景を懐かしみながら亡くなったのだろうという。入り口の左右には副葬品を入れる耳室も造られていた。




	三つ目の古墳は、壁面に四人の衣冠を着けた人物が屏風絵風に描かれ、この四人には漢字で名前が書いてある。それぞれ「玉人
	(物欲を慎む人)」「金人(口を慎む人)」「石人(必要なことを言う人)」「木人(正直な人)」と記されている。ここにも
	耳室がある。
	他にもこの古墳群からは多くの文物が出土していて、実に多様な文化と民族が長きにわたってここで生活した痕跡を残している。
	新彊ウイグル博物館に行くと、ここからの出土品がヤマほどある。それらを見ると、この地方でも人々の生活は1000年以上
	殆ど変わっていないと思われる。人間の知恵は、相当昔にもう生活様式を確立していたことがわかるのである。































































	墓室は高さ3m、四方 3.5m。奥壁につけて高さ50cmほどの土台が築かれ、棺が安置されていたという場所に、ガラスの
	ケースに入った夫婦のミイラが完全な姿のまま残っていた。いずれも中国人ではなく、現代の西欧人に近い風貌をしていたので
	はないかと思わせる。身長も結構あって、とてもモンゴロイドとは思えなかった。ここのミイラは、エジプトのミイラのように
	再生を願って人工処置したものではなく、乾燥により自然にミイラ化したものである。




























  
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