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2006年7月16日 吐魯番(トルファン)




	吐魯番(トルファン) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	トゥルファンは中華人民共和国新疆ウイグル自治区の都市。トルファン盆地の中央に位置し、面積は1万5738km2。人口は24万人
	(1995年)。古くより交通の要所であり、シルクロードの要所として栄えた。現在は観光都市となっている。

	歴史
	前漢代に車師国の一つ車師前国があり、その王城は交河城(ヤルホト)と言った。この城の下には河が流れているので、交河城
	と言う。その当時で人口が六千五百とある(当時の首都・長安の人口が二十四万ほど)。この交河は現在のトゥルファン市街か
	ら西に10Kmほど行った所にその遺跡がある。これに対して漢は現在のトゥルファン市街から東へ45Km行った所に高昌城(カラホ
	ジョ)を築いて屯田を行っていた。
	その後、中国から戦乱を避けて高昌へと移り住むものが多くなり、北涼の王族・沮渠氏が車師国を滅ぼして 450年に高昌国を立
	てる。この高昌国は柔然に圧迫されて滅び、その後は北方民族(柔然・高車・突厥)の影響下の元に ?・張・馬の四氏が王とな
	り、498年に麹嘉(きくか)が高昌王になり、640年に唐に滅ぼされるまで続く。
	高昌を征服した唐はこの地に安西都護府を置いて西域経営の拠点とした。唐の国力がこの地方にまで及ばなくなる9世紀になると
	天山ウイグル王国の支配下に入り、夏都とされた。
	モンゴル帝国の征服後にはチャガタイ・ハン国に領有され、分裂後は東チャガタイ・ハン国の領有となる。トルファンの名前は
	明代より流布し始め、その意味はウイグル語で「くぼんだ地」を意味する。清代にはジュンガルとの間で争奪戦が行われ、清が
	勝利する。戦後、イギリスのスタイン探検隊や日本の大谷探検隊がこの地に入り、出土品を持ち帰った。その中でも文献群は敦
	煌文献と並んで貴重であり、西域と古代の研究に大量の史料をもたらした。
	地理
	トルファン盆地の中央に位置し、北に天山山脈を臨む。トゥルファンは海抜がマイナスの場所がほとんどであり、トゥルファン
	市街のそばにあるアイディン湖の水面は海抜-154mで、中国で最も低いところにある。夏の暑さは非常に過酷で、最高気温は38
	〜40℃、これまでの最高で49℃を記録した事がある。更に雨も少なく、年降水量は20mm前後。また砂漠地帯であるために風が非
	常に強く、20m以上の風が普通に吹いている。150キロ北西にウルムチ、350キロ東にハミが位置している。
	民族 ウイグル族が70%を占め、残りは漢族が多い。
	経済 観光以外では農業が主であり、ブドウ・綿花・ハミウリが特産。

	砂漠地帯に水を持ってくるための機構が特徴的である。その水源は天山山脈の雪解け水で、山の麓から20〜30mの間隔で井戸を
	掘って並べ、その底をつなげて水路としたものである。11世紀ごろにイスラム勢力より伝わったと言われ、カレーズと呼ばれる。



	■7月16日(日)
	
	下車30分くらい前になると車掌が起こしに来る。というか、前夜切符を回収され、代わりに整理券のようなものを渡されるので、
	それと切符をまた交換しに来るのである。なぜそんな面倒なことをするのかと考えたが、おそらく点呼だろうと思う。切符を持っ
	たまま列車から逃げ出さないような措置なのではないか。もちろん座席確認の意味もあるだろう。しかし切符を取り上げてしまう
	など、監視の意味合いのほうが強いような気がする。6:40分頃、新潟の2人とトルファン駅で分かれる。彼らには彼らの運転
	手とガイドが待っていた。同じようなコースを行くのならまたどっかで会うだろうと思っていたが、その後とうとう彼らには一度
	も会わなかった。






	われわれのガイドは董(とう)さん。まだ23歳で大学を出てガイド暦1年の可愛らしい女の子だった。運転手は茶髪の、元ダン
	プに乗っていたという毛(もう)さんという27歳の兄ちゃんだった。聞いたが特に「毛沢東」とは関係ないと言っていた。彼が
	稼いだ金で買ったという「紅旗」が、今日と明日2日間の足である。近く結婚するそうで、翌日の夕食はその婚約者が働いている
	レストランで取って、われわれに婚約者を紹介してくれた。しかし、酒を飲んで運転するのはいただけないので、懇々と説教した
	が、その間彼はおとなしく頭をたれて神妙に聞いていた。親父から説教されている心境だったのかもしれない。




	今日は火焔山、交河古城、高昌故城、アスターナ古墳群、ベゼクリク千仏堂、カレーズ(地下水路式灌漑施設)など、トルファン
	近郊の観光である。オプション料金を払ったおかげで目いっぱいの観光が楽しめる。トルファンは中国で気温がもっとも高い地方
	である。また古代の西域文明の遺跡がもっとも多い地方でもある。小石と泥のゴビ砂漠を抜けて40分くらいでトルファンの町。
	町中にイスラム文字の看板があふれている。敦煌とはちょっと変わった光景だ。朝食を食べて今夜われわれがとまるホテルに寄る。
	トイレのためだったのだがCHECK-INできるというので、部屋に荷物を預ける。ホテルは3ツ☆級だった。今回の旅はどこも三ツ星
	クラスである。高いツアー費用をふんだくって三ツ星とは。9時に出発。今日はスケジュールが一杯である。





	9時5分ホテルを出発、50km先の高昌故城に向かって国道312号線を走る。火焔山山脈の赤土の山が連なっているのが遠く
	に見える。赤茶けた山並みと岩と小石ごつごつのゴビ砂漠を抜けていくと、深い谷に削られた土の山が谷の両側に大きく迫ってき
	て、車道はその中を蛇行して走り、やがて火焔山が近づいてきた。侵食された山肌のひだが日に照らされて抽象画のような影を作
	っている。西遊記をテーマにした遊園地のようなところを過ぎると、火焔山駐車場だ。車から降りて見上げると目の前に、日本で
	はまず見られない異様な光景が立ちはだかっている。山全体が、赤土を手で盛って、大きな上呂でその上から水をかげたような模
	様をしている。夕陽を浴びると燃えるような赤い光景になるらしい。火焔山の由来はそこにある。駐車場の隅では、ウイグル族の
	お姉ちゃんたち3人組が民族衣装を着て踊っていた。観光客相手に一緒に写真を撮らせたりしていたが、待ち行列が大勢いたので
	パスした。特にお金を取られることはなさそうで、単なるサービスのようだった。火焔山山脈は全長300km、幅10kmの山
	塊で、最も高いところでも851mしかない低い山脈で、西遊記にも登場する。





	カレー井見学の後、近所のブドウ農家でスイカを食べる。葡萄棚の下にしつらえた長い縁台の下でいただく。甘くてうまい。葡萄
	の葉の間からこぼれる陽の光がキラキラと輝いている。ハミウリ、干し葡萄などもいただいて2時間ばかり歓談する。亭主はアイ
	(山江)さんという31歳の太ったおっさん。奥さん、4歳の娘、両親とここで暮らしている。今日の夕食はここで郷土料理をい
	ただくことになる。

	ホテルへ戻ってシャワーを浴び、荷物の整理をしてくつろぐ。董サンたちと8:30にロビーで待ち合わせて、wifeがホテルの隣
	にある青空市場に行きたいというので、董さんに付き合ってもらってしばらくなにやら買い物三昧。

ホテルの部屋の窓から見た、その市場の屋根。





	再びアイさんの家で夕食。シシカバブー、ラーメン、干し葡萄入りのチャーハンなどなど。旨かった。シシカバブーはさすがに本
	場で、日本で食べたことが無いような羊の肉だった。


アイさんの愛娘。名前は忘れた。クリクリした目の可愛い子だ。






	アイさんの家の中庭に下がっている葡萄棚。木漏れ日がさわやかで、「こんな所で昼寝したら気持ちいいだろうなぁ」と言ったら
	アイさんが「気持ちいいよう。」という。「この家の敷地は700坪くらい在るけど、日本で買ったらいくらぐらいする?」と聞
	くので、「東京や大阪にはそんな広さで買える家はないね。もしあったら4,5億かな。」と言ったら、アイさんも運転手の毛さ
	んも、「ヒェーっ」と驚いていた。「もっていけるなら、東京へ持っていって売りたいねぇ。」
	アイさんは日本語を習い初めて3ケ月だというのにめちゃ上手だった。愛娘が見ているのがその教科書で、先生は富山県出身の三
	十才の女性で、近くに住んでいるが今は日本へ帰省中と言っていた。



嫁半がおみやげにアイさんが作った干しぶどうを買う。何種類かの葡萄があって結構高かった(wifeの話)。日本人には高いのかもしれない。


	下右はベッドである。あまりに暑いので、外にベッドをしつらえて家族全員外で寝るのだという。我々の感じでは全然暑くなく、
	その感覚は理解できなかった。アイさんの家は門があってここは中庭のようなところだが、門の無い家では、道路上に日本の飯台
	のようなものを出して、その上で寝ていた。なんと大らかな。そういえば道ばたにいっぱい出ていたのはその為か。

	wifeがさわっているのはナツメ(だったと思う)。イチジクやその他の果実も庭にたくさん植わっていた。
 


左から、ガイドの董さん、我々、運転手の毛さん、アイさん。




	<ブドウ畑>

	ブドウ畑の間に乾燥小屋が点在している。格子戸を四方から立てかけたような格好で、最初は何かと思ったがこれが葡萄の乾燥小
	屋だった。壁は日干し煉瓦で造られ隙間が多いので、風通しは良いが中には日は当たらないそうだ。ブドウをこの中にぶら下げて
	おくと乾燥したブドウは自然に落ちて干しブドウが出来上がるのだ。畑からもいできて、そのまま吊るしておくのである。




	ブドウは西アジア原産といわれる。歴史書の『漢書』は、漢の武将・李広利(りこうり)が今から2100年前に西域の大宛(だいえ
	ん)を下して汗血馬(かんけつば)を持ち帰ってから後、大宛をあらためて訪れた漢の使節がブドウとウマゴヤシをもたらした、
	と記している。張騫(ちょうけん)、李広利らを西方に派遣した漢の武帝は、離宮のわきにブドウとウマゴヤシを植えさせたとい
	う。絹はシルクロードを東から西に渡り、ブドウは西から東に伝わった。ブドウに託された西方へのあこがれは、葡萄唐草(ぶど
	うからくさ)文様として、中国からさらに東の日本にまで伝わっている。




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