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遥かなるシルクロード 2006年7月15日 敦煌から吐魯番(トルファン)へ








	敦煌 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	敦煌市 面積 26960km2 人口 13万人(2002年)

	敦煌(とんこう、ピンイン:D?nhuangトゥンホワン)市(-し)は中国甘粛省北西部の都市。かつてシルクロードの分岐点として
	栄えたオアシス都市。近隣にある莫高窟とそこから出た敦煌文献で有名である。歴史的な敦煌は現在の敦煌市と安西県を合わせ
	た領域にほぼ重なる。
	地理
	敦煌の位置青蔵高原の北縁、河西走廊の西端にあり、古くから中国と西域との出入口として使われる。西にはタリム盆地が広が
	り、北にはゴビ砂漠、南は祁連山脈とツァイダム盆地を望む。 年平均気温9℃、降水量39mm。作物は主に綿花、小麦、トウモロ
	コシ、果物など。 約250キロ東に玉門、300キロ北に新疆ウイグル自治区のクムル(ハミ)が位置している。
	歴史
	敦煌の名前は後漢の学者応劭によると「大にして盛ん」と言う事だが、実際には紀元前からこの地を支配していた月氏の言葉の
	音訳であるようだ。紀元前2世紀前半に匈奴に冒頓単于が立ち、月氏を攻めてこの地は匈奴の支配下に入る。冒頓の時代には匈
	奴に押され気味であった前漢だったが、武帝が即位して、西域に対して積極的に遠征を行い、この地に敦煌郡を設置した。敦煌
	郡の設置年代についてはかっては紀元前111年と言われていたが、紀元前92年ごろの李広利将軍の大宛(フェルガナ)遠征の
	際に設置されたとする説が有力となっている。
	その後、甘粛を漢が制圧すると敦煌の西に防御拠点の玉門関と陽関が設置され、漢の西域経営の中心地となり、西方からの汗血
	馬・ブドウ・ゴマなどの産物や仏教がこの地を通って漢に運ばれ、漢からは絹が西方へと運ばれた。漢にとっての経済・軍事に
	於ける重要な拠点となり、豊かな土地と防衛拠点としての使命から厳しい政治を避けると言う事があり、税も物価も安く、住民
	は平和と豊かさを楽しんでいた。この頃の人口が3万8千ほどと言う記録があり、現在の3分の1ほどだが、中国の全人口が現在
	の20分の1以下(注:現在の中華人民共和国の領土は前漢よりかなり広い)の6千万ほどであるから、この頃の敦煌がいかに
	栄えていたかがわかる。ただしこの地の住民は漢政府により送り込まれた窮迫農民や犯罪者であった。そして敦煌の住民が漢の
	中心地へと帰ることは禁じられていた。
	その後の魏晋南北朝時代には中央から自立した西涼がこの地に首都を置いた。これ以後は沙州(現在の敦煌市)・瓜州(現在の
	安西市)と呼ばれる。西涼は北魏によって滅ぼされ、北魏に於いても西域に対する拠点として重要さは変わらなかった。魏晋南
	北朝時代は仏教が中国に布教した時代でもあり、この地では竺法護などの僧が西方よりやってくる経典の訳に励み、布教に大き
	く貢献した。また366年から僧楽?によって莫高窟の掘削が始まっている。
	唐代にも引き続き、西域への玄関口として重要であった。五胡十六国時代から敦煌は張氏・索氏・令狐氏・范氏・宋氏と言う五
	家の名族によって実質的に支配されており、名族社会を形成していた。しかし安史の乱により唐政府の統制力が弱まり、この地
	は781年に吐蕃の侵攻を受けて、以後はその支配下に入った。
	その後の70年は吐蕃の支配が続くが、唐と対立している吐蕃の支配下では交易が行われず、経済の動脈を絶たれた敦煌は一気に
	衰退した。その後、漢人の張義潮が吐蕃に反乱を起こしてこの地に独立し、唐に帰順して帰義軍節度使とされた。この頃には唐
	政府の権威は更に衰えており、実質的には独立勢力である。張義潮勢力の元で交易は再開されたが、かつての盛況振りからすれ
	ば比べ物にならないほど衰えていた。
	北宋代に入り、タングートが力をつけて西夏を建てて、この地を占領した。敦煌文書が莫高窟の耳窟の中に放り込まれ、入口を
	塗り込められたのはこの時代と考えられている。その後に西夏をモンゴル帝国が滅ぼし、引き続いて元の支配下に入る。しかし
	この頃になると中国と西方を結ぶルートがシルクロードから南方の海の道へと移行し始め、この地の価値は下落し、寂れた町へ
	となっていく。
	その後、長らく忘れ去られた町となり、莫高窟も見向きもされていなかった。しかし1900年、この地にいた道士・王円 ?(おう
	えんろく、? は草冠に録)が偶然に莫高窟中の第16窟の壁の中に隠されていた耳窟(第17窟, 後に「蔵経洞」と命名)から大量
	の文献を発見した。王円?も王円?から報告を受けたこの地の地方官もこの文書の価値に無知だったので、この文書はしばらくの
	間は放置された。
	1907年にその噂を聞きつけてやって来たイギリスのオーレル・スタインが王円? から数千点の文書・絵画を買い込んでイギリス
	へと持ち帰った。翌年にフランスのポール・ペリオが同じようにフランスへ持ち帰った。これを見た清政府は大慌てで敦煌文書
	を北京へと持ち帰るが、まだ残されていた文書を日本の大谷探検隊(西本願寺の大谷光瑞によって派遣された)・アメリカ・ロ
	シアの探検隊が前二者に比べれば少量であるが、持ち帰った。莫高窟も中華人民共和国が成立すると保護を受けられるようにな
	り、1987年に世界遺産に登録され、観光名所として栄えている。







	■7月15日(土)

	6:00、モーニングコール。6:30分フロントに、黄さんと運転手の李さんが迎えに来る。今日はハードスケジュ−ルだ。
	朝食前に鳴沙山(めいさざん)と月牙泉(げっかせん)に行くのだ。昨夜は遅かったのにキチンと迎えに来てくれた。旅行業
	も大変だ。到着した昨夜は暗くて、どんなホテルなのかはわからなかったが、まぁまぁのホテルだった。でも3つ星やね。



 


	鳴沙山の見学は日中は温度が高くて、とても「ラクダに揺られてのんびりと」とはいかないらしい。ヘタをすると日射病にや
	られて具合が悪くなったりするというので、いきおい朝のうちか夕方以降ということになる。幸か不幸か、日本人は「月の砂
	漠」のイメージを強く持っているので、夕方とか夜の見学はむしろ喜ばれるそうである。しかし砂漠の全容や遠景を楽しもう
	としたら、夕方よりも朝のほうがいいとガイドの黄さん。「どちらも見れればそれが一番ですけど。」とも言ってたがとても
	そんな暇は無い。ここに2、3泊すればいいのだろうが、我々は今夜はもう寝台夜行列車でトルファンへ発たねばならないの
	だ。機会があればもう一度ゆっくり来たいものだ。






黄さん
	この旅(ツアー)は途中あまりにオプションが多く、「そこは500元です。」「1000元です。」とやられたものだから、
	とうとう現ナマが底を突きかけて、あわてて「中国銀行」へ駆け込む。黄さんも付いてくる。私は知らなかったが、VISA、と
	かDINNERSとかAMEXなどの国際的に流通しているカードでは、世界中の主要銀行でCASHINGができる。カード1枚持って旅行し
	ているノルウェー(ハンガリーだったかな?)の女の子に、wifeはスペインで出会って、その事を覚えていたらしい。ものは
	試しとやってみると、ちゃんと「元」でも「ドル」でもお金が出てくる。「円」はダメだったし、ダイエー・カードとかORIX
	カードなどもダメだった。


	敦煌からトルファンへの寝台列車に乗る。敦煌の町から列車の駅までは2時間の距離で驚いてしまう。何故そんなに離れてい
	るのかという質問に黄さんは、「昔鉄道を建設するときに、とにかくお金が無くて鉄が買えなかったので、レールが余分に必
	要になるカーブは極力避けて、とにかく直線に直線にとレールを引いたのです。そのせいで幾つかの重要な都市は鉄道から遠
	く離れてしまったのです。」と言う。それにしても2時間とは。2時間かけて車で行っても、目的地へはおそらくそれが一番
	安くすむ方法なのだろう。駅までの路線バスは走っていないそうなので、敦煌の町の人はどうやって駅まで行くのだろうと思
	ったら、「乗り合いタクシーか、知り合いにお金を払って車で運んでもらうのです。」さもありなん。日本で2時間タクシー
	に乗ったら一体幾ら取られることだろうか。





 


	石と土のゴビ砂漠を2時間走ってひたすら駅へ向かう。途中に崩れた漢代の長城の跡が見える。この辺りでは長城はもう土の
	塊である。ボチボチ夕方かなと思える光景になってきた頃、ようやく駅に着いた。駅周辺は鉄道関係の宿舎や工場が建ち並ん
	でいる。自動車の修理工場らしき建物もいっぱいあった。混雑する駅の駐車場に車を入れて、黄さんが待合室まで付き添って
	くれる。19:40分初の夜行列車でトルファンへ。出発まで半時間近く黄さんも待機。ハミ瓜とジュースのお土産をくれて、
	出発時間に黄さんと別れる。昨夜遅くまで待っててくれ、今日も一日付き合ってくれてありがとう。色々お世話様、元気でね。







	列車は最新車両だそうで綺麗だった。4人1部屋の寝台車と聞いたので、一体どんな人が乗ってくるのだろうと若干心配して
	いたが、我々と同じ中年男女2人組の日本人だった。しかもバッグを見ると「ファイブスター・ツアーズ」のタグが下がって
	いて、我々と同じ会社のツアーの参加者だった。秋田から2人で参加しているそうで、何はともあれ同じ日本人ということで
	話がはずんだ。ほぼ同年輩だったがどうも夫婦ではないようだった。詮索はやめてこの旅行と旅行会社について意見交換した。
	しかし何が違っていたのか我々とはだいぶツアーの待遇が異なっていた。彼らはすべて4つ星以上のホテルに宿泊していたが、
	我々は殆ど3つ星だったし、食事もずいぶん差があった。しかし彼らもこの会社のツアーには不満があるらしく、だいぶツア
	ーに対する不平が飛び交っていたが、それについては最後のコーナーに譲ることにする。夜中何度か目が覚めたが真っ暗で景
	色は殆ど見えなかった。しかし目を凝らすと岩ごつごつの砂漠が延々と広がっていた。明け方、砂漠に月が昇っていたのでみ
	んなを起こしてしば砂漠の月を楽しんだ。


	列車に乗り込んだらほどなくおばちゃんの車掌が現れ、切符を取り上げられた。代わりに切符の預かり証をくれて、翌朝停車
	駅の30分くらい前になって、また交換しに来る。つまりそうやって寝込んでいる人を起こしているのである。面倒臭いよう
	な親切なような。



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