Music: across the universe






はじめに

	このHPは以下のような構成になっています。黄色いBOXのページが、訪れた都市を中心に、水色はその都市の遺跡を特集
	しています。直接の上下のラインを除き、赤い線と青い線はリンクしていません。つまり、西安の遺跡のページから敦煌へ飛
	んでいくことはできません。必ず上部の都市のページへ戻って、移動してください。それでは、ごゆっくりどうぞ。



	またこのHPでは、訪れた博物館の全てが写真撮影禁止だったので、各博物館の展示目録からSCANして画像を掲示しています。
	記して謝意を表します。またその画像を、該当する遺跡のコーナーにも掲示しました。しかしその解説の日本語はどれもがお
	かしく、おそらくは帰国した留学生あたりが、中国語或いは英語の文章を日本語に訳したものだと思われます。初めの幾つか
	は日本語に訳していましたが、膨大な量なので途中で諦めました。大部分はおかしな日本語のママ掲載してありますが、何と
	なく意味はわかるのではないかと思います。勘案の上お読みください。







	シルクロード(絲綢之路 : Silk Road : 絹の道)  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆。



	シルクロード(Silk Road )は、中国と地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称である。「絹の道」とも呼ばれる。日本
	でこの言葉が使われるときは、特にローマ帝国と秦漢帝国、あるいは大唐帝国の時代が念頭に置かれることが多い。シルクロ
	ードは、ユーラシア大陸の東西を繋ぐ交易路を「絹」に象徴的させて呼んだもので、その由来は、古代に中国で産出する絹が
	長らく他地域では生産されることがなく、東南アジア諸国やインド、西アジアはもちろん、遠くローマ帝国でも貴重な奢侈品
	として渇望され、遠隔地貿易の対象となったためである。

	歴史的には、東西(中国と地中海世界)の交流の開始は、アレクサンドロス大王 (アレクサンドロス3世)の東征に始まると言
	えよう。ギリシアの北部マケドニア地方に興ったマケドニア王国のアレクサンドロス大王は、東征の軍をおこしてペルシア王
	国(アケメネス朝)を滅ぼし、その後、アフガニスタン地方、インド北西地方まで遠征した。これにより、古代ギリシアの文
	化が西アジア・中央アジアにもたらされ、各地にギリシア様式の植民都市が築かれた。 
	アレクサンドロス大王の死後、後継者の王国が成立。シリア地方、ペルシア地方(現在のイラク、イラン地方)にはセレウコ
	ス朝 (前312年 - 前63年) が興った。前3世紀中ごろ、セレウコス朝からバクトリアとパルティアが独立。バクトリア(前
	255年頃 - 前139年頃) はアフガニスタン北部に興ったギリシア人の王国で、ヘレニズム文化が栄えた。パルティア(アルサ
	ケス朝ペルシア)はイラン系の遊牧民が興した国で、中国の史書にも安息の名で現れる。 
	前3世紀頃、タリム盆地には遊牧民族の月氏があり、東西交易で栄えたとされる。月氏はその後、バクトリアへと進出した。
	前221年、中国で秦が国内を統一した。秦は北方遊牧民匈奴に対抗するため、蒙恬を派遣し討伐に当たらせた。また、万里
	の長城の修復を進めた。前200年、前漢を創始した劉邦が匈奴討伐にあたるが、冒頓単于率いる匈奴に大敗し、前漢は匈奴
	に貢納することで講和し、しばらくの間、内政の充実に努めた。前139年頃、バクトリアがトハラ族に倒される。中国の史
	書では大夏という名で現れる。大夏はバクトリアを指すという説もあり、このあたりははっきりしない。大夏はその後、タリ
	ム盆地から西進してきた大月氏に滅ぼされ、バクトリアは月氏の勢力下となった。

	前2世紀後半、前漢の武帝 (在位前141年 - 前87年) の時代に中国の西域進出がはじまる。劉邦の時代に匈奴に大敗を喫し
	た前漢は、内政の充実に努め、武帝の時代になると西域、ベトナム、朝鮮半島などへ拡大をはじめた。武帝は、長年の宿敵で
	ある匈奴を挟撃するため「張騫」(ちょうけん)を大月氏国に派遣した。この交渉は失敗に終わったが、張騫の遠征により中
	央アジアの事情が中国にもたらされることになった。武帝は、この後も匈奴の討伐に当たるとともに、タリム盆地に勢力を伸
	ばした。このことを以て、「シルクロードが開けたのは、一人の皇帝が西方の名馬を渇望したことに始まる。」と言われる。

	前漢第七代の皇帝武帝は、中国北辺から西辺にかけて強大な勢力を誇っていた匈奴に対し、それまでの卑屈な外交政策を改め
	反転大攻勢に出た。対匈奴作戦の一つは「夷(い)をもって夷を制する」外交策。勢いを増した匈奴によって、中国西辺から
	追われ現在のアフガニスタン北東部にいた月氏(げっし)と手を結び、東西から匈奴を挟撃しようというのだ。そのために派
	遣されたのが西域開拓史上有名な張騫だった。

	張騫以下百余人の部隊は二度も匈奴に抑留される目に遭いながら西域諸国を巡り、13年後に長安(いまの西安)に帰った。
	月氏との同盟という本来の使命は失敗したが、大旅行がもたらした豊富な西域情報は匈奴攻撃と西域開拓の原動力となった。
	なかでも武帝の心をとらえたのは、大宛(だいえん)国(ウズベキスタン・フェルガナ)に産する汗血馬(かんけつば)の
	存在だった。優勢な匈奴の騎馬軍団に勝つために、漢や匈奴の馬より大型の速い名馬を渇望した。こうして李広、衛青、霍去
	病(かくきょへい)ら名将たちが率いる大軍が相次いで派遣された。彼らは、西域に通じる要路である河西回廊(甘粛省蘭州
	から敦煌に至る地域)から匈奴を追い払い、植民地化するのに成功した。
	さらに、目指す大宛に二度の長征軍を送り、ついに汗血馬をも手中にした。司馬遷の『史記・大宛列伝』に次のようなくだり
	がある。「宛はその善馬を出して漢をしてこれを自ら選ばしめ・・・その善馬数十匹、中馬以下牡牝三千余匹を取る」。武帝
	の喜びはどれほどだったことか。武帝による西域制圧は、漢帝国の版図を飛躍的に広げたうえ西方諸国との貿易も拡大し、世
	界帝国として雄飛させるものであった。いま、西安郊外に残る驃騎(ひょうき)将軍霍去病の墓所に、大きな石像が立つ。
	仰向けになった匈奴を踏みつけて立つ馬の姿は意気天を衝(つ)く漢王朝の気分を十二分に伝える。

	絹の製法は、6世紀にサーサーン朝(ペルシア)へ絹の製法が伝わり、東ローマ帝国にも伝播したが、生産量は限られ、品質
	も中国産に太刀打ちすることができなかったので、長らく重要性は残った。さらに、かなり後の時代になっても、西アジアの
	イスラム世界には陶磁器や絵画など中国の優れた美術工芸品が輸出され、中国は技芸に優れた国として認識されていたほどで
	ある。

	また、シルクロードは単に交易路であるだけではなく、東西文化交流の重要な通路でもあった。西方からシルクロードをつた
	って中国に伝播した文明の代表格は仏教であり、また唐代にはゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教など様々
	な宗教が中国に伝来した。唐の都長安(現在の西安)の大秦景教流行中国碑や、日本の奈良の正倉院に残るサーサーン朝ペル
	シア製のガラス器(琉璃碗)は、シルクロードが様々な文明と文化を伝えた時代を物語る遺物としてしばしば取り上げられる
	ところである。

	シルクロードという語は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『シナ China』(1巻、1877年)にお
	いてザイデンシュトラーセン Seidenstrassen(ドイツ語で「絹の道」の意)として使用したのが最初で、彼の弟子ヘディン
	がその中央アジア旅行記の一つの書名にこの言葉を使用して以来有名になった。リヒトホーフェンやヘディンらこの語の元来
	の使用者は、東トルキスタン(現在の中国新疆ウイグル自治区)を東西に横断する交通路を意図していたが、のちには中国を
	起点・終着点とする国際交易路を広く指しても使われるようになった。現在では時には、シルクロードの通過する地域である
	中央アジアを地域的に指す言葉としても使われることがあり、日本ではシルクロードの通る地域を中国で伝統的にいった「西
	域」(さいいき)という言葉とともに、砂漠を含んだオアシスの街々というイメージでとらえられる事が多い。

	西域 (さいいき、Xi-yu; Hsi-yu)は、古来、中国人が中国の西方にある国々を呼んだ総称である。本来は東トルキスタンをさ
	したが、拡張されて西トルキスタン、さらに西アジアをもいう。中国の西方の国々が記録のうえに明確に現れたのは『史記』
	の「大宛伝」が最初だが、ここには西域の語はみえない。『漢書』にいたって初めて西域の語が現れ、西方の国々のことを記
	した「西域伝」が作られる。この西域伝では西域の地理について「南北に大山あり、中央に川あり、東西六千余里、南北千余
	里」と述べているので、タリム盆地、すなわち東トルキスタンをさしていることが明らかである。しかし、『漢書』西域伝に
	は東トルキスタンの国々ばかりでなく、西トルキスタン、インド、イランなどの国々についても記されている。その後、中国
	歴代の正史のいくつかは西域伝を載せているが、その地理的範囲はすべて『漢書』と同じである。大まかにいって、西トルキ
	スタンの東南にはガンダーラがあり、東トルキスタンにはホータン・クチャがあり、シルクロードの分岐点にあたる。

	シルクロードの起点と終点は、シルクロードを中国とローマとの間の主要貿易路とするならば、その起点は長安(西安)であ
	り、その終点はシリアのアンティオケイアだと定義することができる。この名称をリヒトホーフェンとヘディンが使用した意
	味で理解すれば、この隊商路の主要な路線は次の3本になる。

	・敦煌(とんこう)からアルトゥン山脈に沿い、ホータン、ヤルカンドなどタクラマカン砂漠南辺のオアシスを通過してパミ
	 ール高原に達する南方の交通路 (西域南道)。これが最も古い。砂漠の南を通ることから漠南路とも呼び習わす。 
	・敦煌からトゥルファンを経てウルムチに達し、イリ川流域にいたるもの。この北方のシルクロードはおそらく紀元後数年に
	 開かれた。天山山脈の北麓を進むことから天山北路とも呼び習わす。 
	・敦煌から楼蘭(ろうらん)を経てコルラに達する中央路は北方路よりも古く、南方路と同じ頃の紀元前2世紀にさかのぼり、
	 最も重要な隊商路として4世紀前半まで使用されていた。天山南路あるいは漠北路ともいう。広義のシルクロード、すなわ
	 ち西トルキスタン(ソ連領中央アジア)以西の東西隊商路は多数の路線に分岐していた。

	シルクロードという語は中国と関わる貿易路の代名詞のようにもなっており、中国の南から海に乗り出し、東南アジア、イン
	ド洋を経てインド、アラビア半島に至る海路のことを「海のシルクロード」と呼ぶこともある。

	日本では、奈良の正倉院に残る数多くの中国製、ペルシア製の宝物や、天平時代に遣唐使に随行してペルシア人が日本に来朝
	したことに関する記録などがある。こうしたことから当時の日本は唐代の東西交通路に連なっていたと認識されており、摂津
	国の住吉津(現在の大阪市住吉区)は「シルクロードの日本の玄関」、飛鳥京や平城京は「シルクロードの東の終着点」と呼
	ぶことがある。そもそも日本では学校教育でシルクロードを取り上げてはいたが、中華人民共和国との文化交流が進む過程で
	NHKが1980年に放映した「NHK特集 シルクロード(絲綢之路)」によって一躍シルクロードの名は有名になった。
	日本ではシルクロードという語は独特のエキゾチシズムと結びついており、西安や新疆、ウズベキスタン、イラン、トルコな
	どへの海外旅行情報やツアーの広告には必ずと言っていいほど「シルクロード」という言葉が記されている。特に中央アジア
	(敦煌〜サマルカンド)といえばシルクロード、という発想は非常に強い。



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