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遥かなるシルクロード 2006年7月12日 関空から北京へ





	■プロローグ

	7月中旬、Wifeと「7泊8日シルクロードの旅」に行った。私は自動車免許をとった直後だったので(30年前に取り消しに
	なったのを、離職を機に再び取り直した。)、北海道の原野を車で思いっきり飛ばしてみたいという気持ちもあったが、来月
	からまたサラリーマン生活に戻るのだと思ったら、もう今のようにブラブラしている時間などないだろうし、果たして7泊8
	日の旅など、今度はいついけるかわからないので、思い切ってシルクロードへ行くことにした。
	いくつかのツアーを調べてみたが、もう今は6月末で7月のツアーは締め切っているか、参加者僅少でツアーの開催が中止さ
	れているのが殆どだった。そんな中「ABload」のHPでみた、東京神田の「ファイブスターズ・クラブ」というところが開
	催するツアーは「1人でも開催する」というものだったので早速大阪営業所に電話して申し込んだ。準備期間が短くバタバタ
	決めたのだがこれが良くなかった。この旅行社に対する不満はこのHPの最後に特集したのでそちらをご覧になって、是非参
	考にして頂きたい。
	ツアー会社は最低だったが添乗してくれたガイド・運転手はみんな親切だった。北京を除けば西安、敦煌、トルファン・ウル
	ムチと3人のガイドはいずれも若く、我々の子供たちと同じくらいの年齢だった。皆それぞれ、大学を出て現地の日本語学校
	で2,3年学び、卒業して日本語ガイドになっていた。大学をでても就職口がなかなか無いらしく、3人ともとりあえず収入
	のよいツアーガイドになって、そのうち日本の会社に就職したいという希望を持っていた。若さもあって皆一生懸命で、何と
	か客に喜んでもらおうという姿勢が満々で、非常に好感がもてた。

	小泉首相の靖国参拝に端を発して、日中関係は今、政治的には非常にまずい状況にあると思うが、民間レベルでは何とか友好
	関係を保つように努めている。現在中国政府は色んな局面で、かっての日本軍の戦時中の行為を風化させまいとして、若者に
	対してもキャンペーンを展開しているが、実はこれが日中間の友好を阻害していると思う。政府は政府を糾弾すればいいので
	あって、大衆レベルにその思想を押しつけてはならない。そもそも「政府と民衆は別物」であると言い続けていたのは中国政
	府そのものではなかったか。いずれにしても、そういう事で夢にまで見た「シルクロードの旅」が実現した。終わってからの
	感想は、「感動、興奮、また感動」であった。



	今回も例によって中国の観光局を訪ねた。大阪はなんばのOCATビルの中にあった。中国本土の、あらゆる観光地のパンフ
	レットがあって、へたなガイドブックよりよほど詳しい出版物が揃っている。日本語は多少怪しい部分もあるが、十分役に立
	つ。今回は行かないところの分まで貰って、抱えきれないほど持って帰ろうとしたら、女の子が頑丈な紙袋をくれた。
	shopping place案内や博物館案内など、分野別に分かれた小冊子もあってなかなか便利である。写真集のような立派なものも
	あった。



	今回の旅は、歴史散策に重点を置いているわけではなく、あくまでも観光を中心にしたツアーだったのだが、それでも訪問地
	には歴史的な遺跡や資料館が多くて大いに満足感を味わったのだが、「日本人の源流を訪ねる」という意味においては、まず
	頭に浮かんでくるのはなんと言っても江上波夫博士の「騎馬民族日本列島征服説」である。博士は、列島を征服した騎馬民族
	の直接の発地としては高句麗を想定しているのだが、騎馬民族と言えばシルクロードであり、シルクロードと言えば騎馬民族
	である。果たして、そういう意味での「日本人の源流」には、今回どこまで迫れるのであろうか。「騎馬民族列島征服説」に
	ついては、「日本古代史を取りまく謎」のコーナーで「騎馬民族は日本を征服したか」として取り上げているが、この際もう
	一度復習をしておきたいと思う。


	「騎馬民族日本列島征服説/騎馬民族征服王朝説」

	騎馬民族日本列島征服説とは、故江上波夫博士が唱えた学説で、「ユーラシアの騎馬民族の歴史的諸類型と日本の古墳時代後
	期が著しく照応する、すなわち、古代日本の歴史は騎馬民族型、特に征服王朝型である」という説である。

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	3世紀末頃、満州周辺の東北アジアにはツングース系の遊牧民・騎馬民族がいた。その首長である扶余が朝鮮半島を南下して、
	任那に築いたのが「辰」王朝である。そして、「崇神天皇」は、元々日本にはいなくて、朝鮮半島南部からやってくきた。
	扶余の後継である「辰の王・ミマキイリヒコ」は、4世紀に北九州へ上陸した。すなわち、「ミマキイリヒコはハツクニシラ
	ススメラミコト(初めて国を統治した天皇)=崇神天皇」である。そして、北部九州に、扶余・韓・倭の連合国を作る。
	これが、北部九州の筑紫の人々の勢力を加えて、「応神天皇」の時に東へ進み大阪平野へ進出し、日本列島の支配統一を目指
	して、国の名前を「倭国」と改める。そして、応神以降の「倭の五王」で、征服を成し遂げ、「雄略天皇」の時代前後に、大
	和朝廷を始めた。そして、初代天皇のルーツは縄文・弥生時代からの古代日本人ではなく、大陸からの渡来人である。
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	騎馬民族が日本を征服したという事になると、当然、日本における考古学上の馬の出現が問題になるが、日本列島には馬はい
	つから存在するのであろうか? これについても私は「学ぶ邪馬台国」の中で、「古墳時代を駆けた馬展」として特集した事
	がある。その結論から言うと、日本列島において馬の存在が確認できるのは古墳時代に入ってからである。かっては、縄文時
	代や弥生時代の遺跡から馬の骨が出土する例が多くあるとして、それが馬の存在証明になっていた。ところが、近年フッ素含
	有量を調べることで骨そのものの年代測定ができるようになった結果、縄文・弥生の馬の存在は否定されるようになった。
	また貝塚というのは、後世に馬やその他動物の死骸の捨て場として利用されることがあり、結果的に遺跡にまぎれこむことに
	なったという例もあった。
	日本列島の縄文時代、春秋戦国時代の中国において、東シナ海を挟んだ日本列島の対岸である山東半島には、戦車をつけた状
	態で発掘される屠殺馬が多くみられることから、縄文人が馬を入手した可能性は否定できないという見方もある。しかしなが
	ら可能性はあっても、現時点では日本列島の縄文・弥生の馬は証明されていない。
	また、馬具から馬の存在を立証できないかという問題もあるが、弥生時代馬具は宝物として一部を利用するので、馬具があっ
	たからといってそれが馬の存在証明にはならない。今のところ、日本における馬の存在を立証できるのは、古墳に殉葬された
	馬である。馬具によって年代もわかり、古墳に殉葬された馬こそは確実な日本における馬の出現という事になる。では、古墳
	殉葬馬の事例は、騎馬民族の風習ともかかわりがあるのだろうか。

	江上波夫氏によって騎馬民族征服説が発表されたのは昭和23年(1948)のことである。発表当時は学界のみならず、広く社
	会的にも大きな反響を引き起こし、皇国史観への反動もあってセンセーショナルに取り上げられた。唯物史観にもとづき歴史
	像を書きかえる動きも活発だったと言う。それまでの日本中心の史観でなく、広くアジア史のなかに日本を位置付けて考察さ
	れたこの説は、一般大衆には概ね好意的に受け入れられたと行ってよい。しかし専門家の中には反対する意見も多く、学界に
	は未だに賛否両論が渦巻いている。

	江上氏自身もしばしば言及しているが、この説は決して江上氏の独創的な見解ではない。喜田貞吉の「日鮮両民族同源論」
	(1921年)と見解を大筋のところで一致している。「日鮮両民族同源論」は、戦前の朝鮮支配の学問的根拠ともいえる論であ
	る。江上氏は、古墳時代前期と後期とでは、「突然変異的な変容」がみられることに着目し、とりわけ副葬品の変化に注目し
	ている。「前期の副葬品は、鏡・玉・剣さらに車輪石・鍬形石など宝器的・象徴的・呪術的なものが中心であり、弥生時代と
	本質的には変わっていない。しかし後期になると生活・戦闘など実用的なものに変わる。」という。後期になると、食器・
	酒器などの容器、帯金具・耳飾り・冠など金工服飾装身具、盾・靱・鏃・刀・甲冑などの武器類、轡・鐙・鞍などの馬具類な
	どに変わっているという。江上氏は、こうした「突然変異的な変容」は「その社会それ自身の内部的な発展によって生み出さ
	れるものでは決してなく、別種の社会形態をもった、別種の人間がそこに移動してきた場合に限って見られる現象である。」
	と考えたのである。
	平たく言えば、古墳時代の後期、すなわち4世紀後半の中頃以後に、乗馬の風習や文化を持った民族が、日本列島にやってき
	て、瞬く間に、その地を制覇したことを想定しなければ、この激変は説明できないと言うのだ。しかし、前期古墳から後期古
	墳にかけての副葬品の内容の変化は、江上氏の言うような激変ではあり得ず、百年近い時間を要した緩やかな変化であったと
	いう反論が、現在学界では主流である。しかしながら、今日、歴史を学ぶに当たって、日本列島の歴史は、朝鮮半島や中国の
	歴史と切り離したところにあるはずがないと考えるのはもはや常識である。
	この説は、歴史的変化は、孤立し完結した社会の生産力の発展といった一元的な理解をして考えていては解釈できないことを、
	初めて日本人に広く知らしめた説といっていいだろう。












	■7月12日(水)

	朝9:40分頃家を出る。南千里までタクシーで行き、阪急電車で梅田へ。10:50の梅田発のリムジンバスに乗る。集合
	時間の12:00に航空券を受け取るが、14:00発が15:10発になるという。レストラン街で食事をして南ウイング
	中間駅へ。そこでブラブラと過ごす。アームにはいつまでたっても飛行機が着かない。14:50になってやっとAir china
	が到着した。アナウンスによると今から  準備をするという。これではいつ頃出発になる事やら。と思ったら、な、なんとア
	ナウンスが「15:05分頃皆様を機内に・・」とやりだした。幾ら何でもそれは無理だろうと思ったら、15:05分にほ
	んとに客を誘導し始めた。えらいもんだ。飛んできて、即トンボ帰りである。相当遅れて来たので、あわてて飛んで帰るよう
	に見えた。機内は日本機の普通のエコノミーと変わらない。しかし当たり前だが、「中国国際航空公司」 (Air china)なの
	で、日本語は一つもない。アナウンスも日本語はないし、日本人のスッチーもいない。1時間ほどで簡単な軽スナックのよう
	な食事がでた。コーヒーは日本の昔のネスカフェよりもまずかった。前回の西安旅行でもうまいコーヒーを手に入れるのに難
	儀したが、今回はドロップ付きのコーヒーを持参して正解かもしれない。












	18:20分北京空港着。曇り。11歳の息子がいるという「許」さんが迎えに来ていた。プジョーの乗用車で北京市内の
	ホテルへ。楡(にれ)林の続く高速道を一直線に40分ばかり走った北京郊外にホテルはあった。現地時間で19:30頃。
	日本との時差は1時間。ここはホテルというよりもマンションの1室のような感じで、ダイニングも付いている。




	荷物を置いて、許さんが教えてくれた水餃子の店を探したが見つからずホテルへ戻ってホテルのレストランで食事をとる。
	全く日本語は通じず、英語もあやふやでオーダーするのに閉口した。それでも青島(チンタオ)ビール、牛と鳥の串焼き、
	□□(自分で書いた字が読めない。)、豚と鳥のオイスター・ソース掛けの定食を食べて、同じホテル内にあるスーパーで
	水・お菓子などを買って部屋へ戻る。TVは当たり前だがすべて中国語。荷物を開いて、明日からの西安、敦煌、トルファ
	ンなどのコースを確認する。部屋には洗濯機も乾燥機もあって、Wifeは洗濯しながら寝てしまう。
	明日は5時半のMC(モーニングコール)で6時にホテル出発。7時55分の便で西安へ飛ぶ。昨年歴史倶楽部で来た西安
	にまた行く。今回はシルクロードがメインだが、我々の参加したツアーは一度北京でおりるのでここに一泊。翌朝西安へ飛
	んで西安に一泊。そこからまた敦煌へ飛ぶというスケジュールになっていた。私は昨年に続いて2度目の西安だ。今回は前
	回見逃した所も行きたいが、Wifeが初めてなので果たして新しいところはどのくらい見学できるだろうか。まだ洗濯機はう
	なりを上げているがそろそろ寝ることにしよう。疲れた。午前1時(現地時間00:00)就寝。





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