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	秦の始皇帝





	【 秦の始皇帝(しんのしこうてい)前259‐前210 】
	秦の始皇帝は、周の東遷(紀元前770)以降、春秋・戦国と約550年間にもおよぶ分裂の時代に終止符を打ち、史上初めて中国国家を統一し、
	中国最初の「皇帝」となったことで知られる。皇帝としての在位は前222‐前210。「秦の始皇帝」という呼び名から、秦の初代の王と思って
	いる人もいるが、実は秦31代目の王である。王としての在位は、前247から前222までで、皇帝となるまでの間「秦王」であった。名は政。
	(贏政;えいせい、とも言う)荘襄王の子。一説では、荘襄王が人質となって趙に寄寓していたおりに、陽占の大賈(大商人)である呂不韋
	(りょふい)は自分の姫妾を荘襄王に献上したが、その時彼女はすでに呂不韋の子を身ごもっていたともいう。政は、趙の国都邯鄲で生まれ、
	荘襄王の死去により13歳で秦王となる。はじめ呂不韋を相国(大宰相)として国政を任せたが、即位10年に乾毒(ろうあい)の事件に連座
	したために排除し自殺に追い込んだ。ついで法家の李斯を重用した。王翦(おうせん)等を派遣して「韓」を手始めに、「魏」、「楚」、「燕」、
	「斉」、「趙」の戦国6雄を次々と滅ぼし、「秦」帝国の成立を実現した。三皇五帝から採用した「皇帝」の称号を定め、自ら始皇帝と称し
	た。この辺りの展開については様々な物語に、壮大な中国史の部分として描かれている。現在、我が国の天皇も用いている「朕」、「制」、
	「詔」などの皇帝専用用語を制定し、また旧来の文や武といった諡法(しほう:皇位継承権内に於ける諡号制)を廃止した。統一の大事業をな
	しとげた英雄であることは間違い無いが、反面血も涙も無い専制君主としても知られている。制度文物の統一とともに、焚書 (ふんしよ)と
	坑儒(こうじゆ)を強行して思想および言論の統制を図った事でも有名。
	即位28年から斉,楚,燕などの故地への巡幸を開始し、山東半島で徐市(じよふつ:徐福)から海中にある三神山のことを聞き、徐市に仙人
	と不老不死の薬を求めさせた(徐福伝説)。前215‐前214年、北辺に蒙恬(もうてん)を派遣し匈奴を漠北に追い払うとともに、燕、趙、秦の
	旧城をつないで遼海から臨降(りんとう)に至る約1500kmに及ぶ長城を築き北方民族の侵入に備えた。これがいわゆる「万里の長城」である。
	前210年、巡幸の途中で病死したが、丞相の李斯と宦官の趙高は内乱の発生を危惧してこれを隠し、詔命と偽って太子の扶蘇と蒙恬を自殺させ、
	棺を咸陽に運んではじめて喪を発し驪山 (りざん)に埋葬した。末子の胡亥が二世皇帝として即位したが、始皇帝以来の法罰至上主義、たび重
	なる外征および朝宮や陵墓などの土木工事に民衆の反感を招き、山東や楚地を中心に反乱が起こり、始皇帝の没後わずか4年で秦は滅亡した。 
	秦の始皇帝でかつ終皇帝だったわけだ。
	昭和49年(1974)、陝西省(せんせいしょう)西安市郊外で井戸を掘っていた農民たちが陶俑(とうよう)の破片を見つけた事がきっかけ
	で、始皇帝陵が発見された。発掘の結果、日本でも有名になった等身大の兵士や馬の陶製人形(兵馬俑)8000体が発見さた。他にも彩色
	跪射(きしゃ)俑を含む国宝級の兵馬俑や、銅車馬、度量衡(どりょうこう)器、装飾品などの文物が山ほど出土している。いつかここへも
	いかねばなるまい。
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