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遙かなる北京 万里の長城 2003年2月15日
















	午前中天安門広場・故宮を見て、シャブシャブの昼食を取った後、午後から北京郊外「八達嶺(はったっれい)」の万里の長城へ
	向かう。八達嶺長城は、総延長6500kmと言われる万里の長城の中でも、比較的よく整備されている部分で、北京観光のほと
	んどの観光客が行くのが、この八達嶺だ。北京市郊外にある。高速道路を2時間ほど走った。

 

 


	みんな疲れているのか、それとも北京市街を抜けてからの単調な景色に退屈したのか、殆どバスの中でうつらうつらしている。
	ふと気がつくと、バスはインターを降り一般道を通って山間部へ入っている。日本の山ではあまり見かけない、赤茶けた山肌の山
	々を見ながら、北京からモスクワへ走っている国際鉄道の脇の道路に沿って、木々の間に地肌が覗く山並みを抜けていく。

 

そろそろ万里の長城が見えてきた。



「熊公園」と書いた動物園のようなところを過ぎると駐車場だ。

 






	バスを降りると北京市内より少し肌寒い。駐車場から歩いて八達嶺入口へ向かう。入り口前でガイドの劉(りゅう)さんが声をか
	けて全員で記念撮影をする。登城口にはいると、左右どちらへも登ることができるようになっている。向って左側が男坂、右側が
	女坂と言うそうで、男坂の斜面の方が急だからか、殆どの人が右側へ登っていく。






	のろし台にも小規模な露店があってしきりに商品を勧めてくるし、入場口周辺には土産物屋がひしめいていて、売り子のおばはん
	の強引さは、日本や韓国の比ではない。韓国も相当にしっこかったが、中国のおばはんにはかなわない。中国旅行で、観光地のお
	みやげを言い値で買ってくるなどと言うのは、まず最高のアホである。観光地で、言い値の半分以下にならなかったら買うのは止
	めたほうがいい。北京市内など、必ず他の所で半値で買える。どうしても売りたいおばはんは、どうかすると五分の一以下にもし
	てくる。八達嶺は日本人の旅行客が多いので、結構日本語が飛び交っている。「安いよ、千円、千円!」

	シェンエン(千円)という日本語は、他の観光地でも連呼していた。日本人は千円を気軽に払うが、現地の中国人達にすれば、1〜
	2万円の感覚なのだ。どのおばはんも、売り付けようと必死で迫って来るはずである。10枚千円の絹のハンカチを、値切って値
	切って50枚千円で買ってきたツアーメンバーがいたが、これなどはもうどっちが悪者なのか分からんね。






	【八達嶺長城】
	万里の長城は、中国の古代文明のシンボルとも言うべき遺跡で、世界中に知れ渡った古代の防御壁である。月から見える人類の唯
	一の建造物とか形容されるが、実際には月からは見えないらしい。延々と1万2700里に及んでいることから「万里の長城」と
	呼ばれている。世界文化遺産名録にも登録されており、北京市街から北に約80km行ったところにある八達嶺長城が一番保存状
	態がよく、長城の中でも代表的な区間になっている。北京域内にはまた、金山嶺、慕田峪、司馬台などの長城があるが、観光客は
	十中八九、まず八達嶺につれて行かれる。

 


	八達嶺は、居庸関の北、北京から60余キロ離れたところに位置している。関所の城楼は明の弘治18年(1505年)に建造され、城
	楼の東西両側に門が一つずつあり、額として東の門の上に「居庸外鎮」の四字が彫ってあり西の門の上に「北門鎖鑰」の四字が彫
	ってある。八達嶺長城は壮観で城壁の高さが平均7.8m、その土台が重さ約0.5トンの大花崗岩で築かれている。城壁の上で
	は馬なら5頭、人なら10人が並んで進むことができるという。城壁の外側に牆口があり、そこから遠見して警護するようになっ
	ている。射撃孔から矢を射ることができ、ほぼ800mおきに宿泊、兵器保存、見張りに使う敵楼、墻台が設けてある。

 


	現在の八達嶺は完全に観光地化している。ここを運営しているのは、香港の証券取引所に上場している一企業だというが、上がり
	は国庫に入っているのかしらん。城壁の周辺には観光バスが乗りつけ、チャイナグッズやら記念写真やらを売りつける露店がずら
	りと並んでいる。





	【万里の長城(ワンリーチャンチョン)の歴史】

	中国大陸にあって、外敵防御のために築かれた長大な人工の城壁である。一般には、紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝が、
	北方からの外敵進入を防ぐため築かせたものとして知られているが、秦の始皇帝が一から建造したわけではない。紀元前数世紀頃、
	中国各地に分立していた国々が北方の騎馬民族・匈奴の進入に対して造った防壁を、中国を統一した秦の始皇帝がつなぎ合わせ、
	大修理を施したものである。それは現在のものよりはるか北方にあった。現在の長城は明代(1368〜1662)に蒙古族の侵入を防ぐ
	ため新たに築かれた。東は河北省の山海関から西は甘粛省に至る全長約2,400kmの山河野に連なる。

	長城の起源は、文献によれば戦国時代である。当時の長城は北防だけに限らず、多くの国々も長城を築いて自らの領土を守ってい
	た。斉、中山、楚、燕、趙、魏、秦などの諸国もまた長城を築いて外敵の侵入に備えた。このうち、燕・趙・秦の3国の北辺の城壁
	については文献に記載がある。秦の始皇帝は燕や趙のつくった北辺の長城を連結し、さらに西方へと延長して北方遊牧民族に対す
	る防衛線とした。西方は甘粛の岷県付近を起点とし、黄河の北をまわって趙の長城とつなぎ、東端を燕の長城につないだ、赤峰か
	ら遼陽付近に至る部分が始皇帝の長城であった。



	前漢時代の長城は、その東部についてはほぼ秦代のままであったが、西方では甘粛の回廊地帯を匈奴の侵攻から守るため、武帝の
	代に武威・酒泉の二郡を置き、その北に長城を築いた。のちさらに張掖・敦煌の二郡を設け、これにともなって長城も酒泉から西
	へ、玉門関にまで延長された。後漢時代になると匈奴の勢力は衰え、中国と争う力を失ったので,長城の補修は行われなかった。

	北魏の領土を受け継いだ北斉と北周も大規模な築造を行った。この長城は山西省離石県付近から渤海湾岸まで、ほぼ今日の長城の
	位置に新たに築かれたものである。つまり春秋戦国時代にはじまり、漢や北魏の時代に補修されてきた旧長城は放棄され、この時
	代には遺跡もわからなくなっていたものと思われる。

 


	隋は中国統一後、長城の補修につとめるとともに新しい長城も設けている。唐代になると、北方遊牧民族に対して攻撃的となった
	ため、長城の補修・新設などはなかった。五代以後は長城一帯の地が、遼,金,西夏など異民族の支配地となったので、長城は放置
	されていた。しかし金は、モンゴル高原の東端に住むタタール部の侵入を防ぐため新たに興安嶺の西側に大規模な長城を築造した。
	現在のチチハル(斉斉哈爾)の北西、興安嶺を越えたあたりから、南あるいは南西にのび、陰山山脈北側の草原を西に走り、包頭の
	北方に達していたらしく、その遺跡は今も断続的に残っている。

 


	元(げん)はモンゴルと中国を全面的に支配したため長城の必要はなかった。元代の記録に長城のことはまったく見当たらないと
	言う。何度も長城辺りを越えたマルコ・ポーロも「東方見聞録」に長城のことは一行も記していないと言うから、おそらく建設以来
	数百年を経てすでに破壊されつくして、もはや長城の姿をとどめていなかったのであろうと想像できる。






	射撃孔から雄大な山並みと、どこまでも伸びている長城が見える。舗道はほんとに急で、よじ登らなければ進めないところもある。
	八達嶺付近の長城は、高さ平均約9m,幅は上部で約4.5m,底部で9mにおよび,上には鋸歯状の女牆(ひめがき)を設けて射
	撃孔とし,約100mごとに各台(とんだい)が置かれている。射撃孔(矢眼)を銃眼と書いてある資料もあるが、秦の時代まだ銃は
	ないので、銃眼はおかしい。






	明は永楽帝の時代まで北方民族に対し攻撃的であったが、以後しだいに防御的となり彼らの侵入を防ぐため、歴代にしばしば長城
	の修築を行った。北辺へのモンゴル族の侵入は絶えず、明は万里の長城を修築してこれに備えたのである。現存の長城は大半が明
	代後半期に築造されたもので、東は渤海湾岸の山海関から中国本土の北辺を西に向かい、北京と大同の北方を経て南流する黄河を
	越え、陝西省の北端を南西に抜けて再び黄河を渡り、いわゆるシルクロードの北側を北西に走って嘉峪関(かよくかん)に至る。
	この間、全長約2700kmであるが、北京の北西、八達嶺付近から居庸関を経て大同の南、雁門関に至る部分は二重に築かれて
	いて、2700km全てが同じ構造をもつわけではない。今日に残る長城がほぼ完成したのは、16世紀末のことであった。
	清代になると、満州、モンゴルから新疆に至る地域が中国となったので、長城は軍事的意味を失い、このため修理されることもな
	く荒れるにまかされて20世紀の前半にいたった。中華人民共和国成立後、徐々に整備の手が加えられ、山海関や八達嶺は観光地
	として特に有名である。

 

長城のあちこちで落書きが目につく。まさか日本人はあるまいなと思ったが、「千葉県某」というのがあった。


	長城の大半は、今でもいっさい修復の手が入っていない。崩れ落ちたレンガやうっそうと生い茂る木々、そして荒廃してしまった
	城楼などなど。この文化遺産は、後どのくらい生き永らえるのだろうか。中国政府は文化財保護の法規をつくり、長城の一部を直
	接監視しているそうだが、まともに取り締まりが行わている様子はないとも言う。望楼の上に、携帯電話用の中継基地まであるそ
	うだ。最も堅固なのは山海関から黄河に至る区間で、長城の外面はいわゆる専(せん)で覆われているが、内部は粘土をつき固めた
	版築(はんちく)であり、いわば土塁の連続に過ぎない。従って、殆どが風化されるままで朽ち果てているものも多い。また、当
	時の専(せん)の作り方を再現できる職人はもうおらず、今日、一部がコンクリートで復元されたりしているが、ひび割れたり、
	重みで傾いたりして、建造当時の専に勝るものはないという。




	長城は、急坂を除けば自転車でも行けそうだが、天津市の万里の長城で、自転車で城壁を飛び越えようとした山西省の男性が転落、
	死亡したそうだ。男性は高さ35m、長さ76mの滑走路を自転車で走り降り、城壁を飛び越えようとして失敗したという。また、
	日では長城はコンサートや、100kmマラソンなどにも利用されており、中国人は長城の新たな活用法を見いだしているのかも
	しれない。





 


	長城が尾根を越える場所に望楼が築かれている。この「望楼」だが、各種資料では、各台(とんだい)、烽火台(のろしだい)、櫓
	(ろ)というような表現があって、それぞれ違うものなのか、それとも同じものを幾つもの表現で表しているのか、どうも判然と
	しない。しかし、長城には石坂の他はこの望楼にあたる部分しかないので、おそらく同じものなのだろう。望楼の中は兵士の住居
	だと書いてあるものもあるが、ただの見張り台だけの役目しかないものもありそうだ。





歩けども歩けども、長城はその先に無限に続いている。そんな感じである。



遠くへ続く遙かな山並みを長城から眺める。青い空を白い雲がゆっくりと動いていき、2000年の時が静かに流れてゆく。

 

これは写真が傾いているのではない。長城が傾いているのだ。斜めにレンガを積むというのは結構難しそうだ。




	敷き詰めた石の舗道はほんとに急である。一定の間隔で「各台(とんだい:烽火台:櫓)」があって、そこだけが平坦である。
	この2階建ての城楼の下層は兵士十数人の住居となり、上層は見張り台と戦闘台を兼ねていた。八達嶺付近の長城は、高さ平均約
	9m,幅は上部で約4.5m、底部で9mにおよび、上には鋸歯状の女牆(ひめがき)を設けて後に銃眼としている。

 


	急勾配の石段の上は、手すりに掴まっていないと目眩がしそうだ。登る人と降りる人が恐る恐るすれ違う。登るよりも降りる方が
	神経を使う。こんな急な坂で転がったら大けがをするか、ヘタしたら死んでしまう。足元を注意して一歩、一歩慎重に下っていく。

 

万里の長城の側、向こうに見える2階建ての城楼は、兵士10数人の住居兼見張り台である。現代でも兵士が見張っているのだ。

 


	黄河以西の部分が、乾燥させただけの日乾鮭瓦を使用した粗雑な作りで、清代に入ってから補修がほとんど行われなかったため、
	日乾鮭瓦造りの部分は破損がひどく、すでに原形を想像できぬほど崩れた個所もあるのに対し、この八達嶺の長城は堅固である。
	かってはここも荒れていたらしいが、北京に近いこともあってケ小平が補強させたそうだ。1980年頃、すでに長城の3分の2
	が崩壊寸前だったのを、当時の最高実力者ケ小平は、「長城再建キャンペーン」を展開して修復した。長城は、何百年も風雨にさ
	らされ、農民たちは家を建てるために長城のレンガを勝手に持ち出していたと言う。

 


	長城の上でも、みんな携帯電話で話している。中国ではほんとに携帯が活躍している。広大な国土に針金を張り巡らすような事は
	せず、先進国が開発した技術をサッと取り入れ一番いい方法でインフラを確立する。しかも特許権や著作権などには知らん振り。
	全く中国人はしたたかだ。






	ほんの小1時間くらい長城を見ただけだったが、これが延々と中国大陸を巡っていると思うとほんとに気が遠くなりそうだ。
	見終わった私の感想としては「徒労」。この一言である。こんなもので蛮勇でならす騎馬民族を防げるとはとても思えない。
	今となっては、建造にかり出された連中こそ全く迷惑な話だ。






	例によっての赤茶けた山々を見ながら北京市内へ戻る。この後土産物屋に寄って絹製品の加工を見た。下の写真は、北京郊外に建
	造されかかったままのディズニーランドである。建造途中で何かの問題で労働者が去って、戻ってこないのだそうだ。劉さんは、
	「全く。中国人が日本人ほど働けばいいんですけどねぇ。」とボヤいていた。白雪姫のお城が遠くに見えている。



 


	万里の長城建造の目的は、見てきたように防衛線としての軍事的意味であるが、実際には期待されたほどの効果はほとんど無く、
	北方民族はどの王朝の時代でも簡単に長城を越えて中国の農耕地帯に侵入し、華北の農村は大きな被害を受けるのが常であった。
	つまり長城はほとんど役には立たず、その巨大な建築構造によって心理的な威圧感を与える程度のものであった。その建造に当た
	っては様々な悲劇も伝えられており、人々が過酷な労働に駆り立てられ、何十万もの人が死んでいったのである。また長城の構築
	に当たっては燃料や部材に森林を切り尽くしたといわれ、かって黄河流域の山野にりっぱな森林があったが、全て長城建設に切り
	倒され、大規模な自然破壊も引き起こしたという。万里の長城は結果的に、何の役にも立たない文字通りの「無用の長物」だった
	のである。


	その後、このHPを見た歴史倶楽部の橋本さんが、万里の長城は人ではなく、北方民族が中国に攻め込んで来るとき、食料として
	つれてきていた羊が飛び越えられないように造ったものだ、という話をしていた。確かに羊には飛び越えられないかもしれないが、
	そのため長城内の農村はよけいに被害を被った可能性もある。
















★その他の長城名所★















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