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遙かなる北京 故宮(紫禁城) 2003年2月15日




		【北京故宮(紫禁城)】

		「明」・「清」2王朝の王宮であり、世界最大で最も完全な形で保存されている帝王の宮殿でもある。24人の皇帝がそこに住ん
		だ。帝王が政務に携わり、起居したところであったため、紫禁城とも称され、明の永楽4年(1406年)から建造を始め、14年が
		かりで完工した。全体の面積は72万平方m、建築面積は約15万平方m。太和、中和、保和三殿の所在するところは外朝で、政
		治活動区である。新しい皇帝が即位するとか年号を改めるとか征戦するとかの重要な国事活動と皇帝の生誕、結婚、春節(旧正月)
		などの重要な祝典は、いずれも太和殿で行われた。生活区で日常の政務を処理するところである、残りの東西六宮、御花園は妃た
		ちが起居、遊楽、休憩するところである。1925年、紫禁城は一般に公開、故宮博物院に改称された。現在、博物院には文物が100余
		万点収蔵されており、その多くは世にも稀な珍品である。そのため、博物院は世界の博物館の中で上位にランクされ、1987年に
		世界文化遺産に入れられた。(中国観光公司)

 





 

 

30数年前、左派の学生達の神様だった毛沢東。この写真を見ながらあの激動期を振り返ると、「時」はいかに偉大であるかがわかる。

 

 


		天安門広場を抜けていよいよ紫禁城へ入る。広場から横断歩道を渡って毛沢東の写真が掲示されている天安門をくぐる。門の中は
		小さなトンネルだ。天安門を抜けると午門が見えてくる。とにかく大きい。その午門を抜けたら遠くに大和門(下右)が見える。
		さぁ、いよいよ故宮だ。

 

メンバーがちゃんと来てるかCHECKする劉さん。この旗が中青旅のマークだ。



大和門の前、左側にあった砲塔。漢字だらけの説明だけど、読んでると何となく意味がわかる。

 





故宮






		【紫禁城】

		13世紀、モンゴル帝国のフビライ汗(ジンギスカン)が中国に元王朝を成立させ、ここに居城を定めたのが皇居の始まりと言わ
		れる。元は滅亡の際に、発祥の地モンゴル高原へ逃走したため、王朝交代期によく起こる籠城戦による宮殿の破壊は生じなかった。
		しかし、明代になってここを首都と定めた永楽帝は、これらを皇居としてそのまま使うことはせず、大改修を施して殆ど新しい宮
		城に作り替え再利用した。一般的な解説では、「紫禁城は、1406年、明の永楽帝が建設し始め、15年の歳月と20万人以上
		の労働力を動員して1420年に完成させた。」となっている。




		東華門、西華門に挟まれて真ん中が、主たる行事の行われた「大和殿」への門「大和門」である。これが紫禁城の門だ。驚いてし
		まう。天井や梁、欄干などに施された龍、雲文などの吉祥模様が素晴らしい門だ。




		明滅亡後に入京した清王朝はほとんど宮殿を改修せずに利用したが、多くの宮殿は失火などで焼けてしまっていたので、現在でも
		残っている明代の建築物は、内廷にある欽安殿ぐらいである。以来、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)に至るまで500年、24人の
		皇帝の住居となり、中国の歴史の舞台となった。その宮城の荘厳さ、広大さは、古くは「北京の55日」、最近では「ラストエン
		ペラー」という映画で世界に広く知られている。




		紫禁城は、周囲を高さ32mの磚(せん:左編は土偏)製の城壁で取り囲まれ、52m幅の堀が取り囲む城で、四辺にそれぞれ一
		門ずつ、東の東華門、南の午門、西の西華門、北の神武門がある。天安門広場に向かった南側が正面で、正門は南の午門(ウーメ
		ン)である。また、城壁の四隅には楼閣が建ち角楼と呼ばれている。南の午門から北の神武門に至るまで、主要な宮殿が南北につ
		らなりその左右にほぼ対称形に多くの小宮殿が配されている。 

 


		紫禁城は大きく外朝と内廷とに分けられ、外朝は午門より順に太和門、太和殿、中和殿、保和殿を主体にした区域で、東の文華殿
		と西の武英殿を含み、皇帝が大典などを行う重要な場所であった。政治活動区である。新しい皇帝が即位するとか年号を改めると
		か征戦するとかの重要な国事活動と皇帝の生誕、結婚、春節(旧正月)などの重要な祝典は、いずれも太和殿で行われていた。
		内廷は乾清門以北の乾清宮、交泰殿、坤寧宮を主体に、東六宮と西六宮、養心殿、寧寿宮、慈寧宮を含む区域で、皇帝が日常政務
		を執ったり、皇帝や皇后貴妃たちの住む後宮があった部分である。残りの東西六宮、御花園は妃たちが起居、遊楽、休憩する所で
		ある。1925年、紫禁城は一般に公開、故宮博物院と改称され、1987年に世界文化遺産に登録された。




		紫禁城の、東西750m、南北960m、敷地約72万平方mの城内には、60以上の殿閣(宮殿と楼閣)と、9,999の部屋
		があると言われ、毎晩違う部屋に泊まって27年かかる勘定だ。それぞれの部屋や宮殿には、かつて使用された宝物や調度品、ま
		た収集された歴史的文物が展示されていて、それら貴重な財宝の総数は約90万点におよぶと言われる。

		故宮博物院とは、明・清時代からのこの宮城全体を言い、「元の宮殿」という意味から故宮と呼ばれている。ちなみに紫禁城とい
		う名前は、「天帝の座・紫微星」から来ており、ここが宇宙の中心であることを示す。

 

 


		太和門をくぐると、太和殿、中和殿、保和殿の三大殿がある広大な前庭に出る。正面に太和殿がそびえ立っている。ここは紫禁城
		の中心といってもよい場所で、三殿はちょうど工字形の基台の上に建てられている。三層になっている基台は、三台と呼ばれ、漢
		白玉石で出来ている。大和門前庭の石畳に立つと、建物のスケールに感動する。どうしてここまで大きくする必要があるのだろう
		か。中国人の「大きなもの」「巨大なもの」に対する執念はただ事ではない。ただただ驚き、呆れ、そして感動する。



大和殿。






		「ラストエンペラー」で、3歳の溥儀がバッタを追いかけていた太和殿。広い。この建物は、1695年に建て直されたもので、現存す
		る中国最大の木造建築。「ラストエンペラー」では即位式のシーンもあった。中央の石段には龍が彫られており、皇帝だけがこの階
		段を使うことができた。
 
 

大和殿前の石段を上った右手にある「日時計」(上)と「鶴・亀」のモニュメント(下)。

 

 

		【太和殿】
		太和殿は公務の場としての三大殿の主殿にあたり、最も重要な式典・祈念等に使用された。溥儀の満州国皇帝即位式もこの場所で
		行われた。太和殿の中央に皇帝が座る玉座がある。階段上の高台にあり、龍の彫刻を施した玉座でその頭上には玉を抱えた龍がい
		る。この龍は皇帝にふさわしくないものが玉座に座ると玉を落とす、と言われており、袁世凱はわざわざ玉座をずらしたと言う。
		建物も規模、設備、装飾ともに、故宮では最高のものとなっている。

 

金のメッキが無残に削りとられてしまった大きな壷。イギリス軍の兵隊が攻め込んできたとき、はがしていったのだという。

 

 


		【中和殿】
		式典に出るためにやってきた皇帝の控室。準備や休憩の場所である。こじんまりとしている建物だ。一度焼けて再建したと解説には
		書いてある(ようだ)。



 


		ガイドの劉さんが、彫刻の細かさについて説明する。窓枠の細部にまで龍が彫ってあるのだ。「こんなチマチマした事よくやるよね
		ぇー」と劉さんが言う。おい、おい。劉さんは7年日本語を勉強したというが、「皆さん、ごはん早くするです。」なんて言う。






		【保和殿】
		皇帝の宴会場でもあり科挙(官吏の採用試験)の最終会場・となった所でもある。会場として使いやすいようにかこちらもシンプルな作り。
		玉座くらいしかない。     

 

 



 

 


		保和殿のちょうど後ろにあたる場所には、故宮で最大の石彫櫓陛石がある。これは一枚の石を彫られてできており階段のところに
		設置してある。このような石は北京の付近には無いため南の黄山のあたりから運ばれたそうだ。しかもこの大きな石をどうやって
		運んだかというと、いかにも中国らしく冬に道に水を撒き凍結したところを引っ張って行ったそうな。彫刻は、下から下界、雲上
		界という具合に続き皇帝が一番上に来る。何たって天子なのだから。

		ここまでが三大殿。その後ろに皇帝、皇后、宮女たちが日常生活を送った後三宮が続く。その奥に文物が展示されている珍宝館が
		あり、ほかにも絵画館や陶磁館などが展示公開されている。



 


		絵画館の前には九龍壁があり、写真のように、皇帝の象徴である龍が描かれた見事な壁面。長さ約30m。高さ3,5mの長い壁。
		270個の瑠璃片で装飾されていてなかなか見事。劉さんと並んで写真を撮る。

 

 

  


		上左は、このツアー中我々と一緒に行動してしじゅうVIDEOを撮り廻っていた写真公司(?)のおねぇちゃん。万里の長城も駆け回
		ってみんなを撮していた。我々夫婦は相当写っていたが、ツアーの最後に1本6,000円と言われて、悩んだが購入はやめた。2,3
		人買っている人がいたが、今思えば買っとけば良かった。
		
		後三宮へ入る前にはスリッパをはかされる。靴の上から履くのだが、何の役にも立たないように思う。粗雑な造りですぐ破けてし
		まうし、皇帝、皇后、宮女たちの寝間を見ることに対する単なる礼儀なのかなと思う。

 

劉さんが説明している門の脇の路地が、映画「ラストエンペラー」で、子供時代の溥儀が自転車に乗って遊んでいた場所である。

  


		内廷の南の入り口である乾清門へ来る。左右の壁には色鮮やかな装飾が施されている。乾清門前の塗金獅子。これはメスで子供が
		足元にいる。そして乾清宮。皇帝の寝室として使われていた。屋根の装飾がきれいだ。

 

 


		皇帝の寝室だった乾清宮である。寝室だけに、ここでは様々な物語が残されている。皇帝が官女達に襲われて首を絞められた事件
		とか、皇帝が毒殺された事件などなど。明代は寝室として使用されたが、清代には執務室として内廷の中心になった。

 


		【内廷・乾清宮】
		3つの殿を抜けると乾清門が見えてくる。乾清門から北、つまり故宮の後ろからは皇帝の日常生活が営まれた内廷になる。明代から
		清代初めまでの皇帝の寝室に続く門であり、同時に后妃が住むいわゆる後宮への入り口でもあった。この乾清門に囲まれている乾清
		宮・交泰殿・坤寧宮を後三宮と呼ぶ。門の左右に通路があり、これが後宮への道である。門を挟んで左右に東・西六宮あった。それ
		ぞれ東太后と西太后の后妃が住んでいたので入口も2つである。



そのすぐ後ろには、皇后が朝賀を受けたという交泰殿がある。

 

 


		そして皇后の正殿とされる坤寧宮、内廷の北側の門である乾寧門と続いて、ようやく故宮見学も終わりに近づいてきた。
坤寧宮は
		明代、皇后の寝室だった。清代になると、西側を祭祀(し)場、東側を皇帝の結婚時の寝室「洞房」として使用した。康熙帝(清
		朝第二代皇帝)、宣統帝ら四人の皇帝がここで婚儀を行い、その日から三日間を過ごした。




		一画に書画骨董を飾った部屋があって、ラストエンペラー溥儀の甥っ子(弟の子)という人が書を書いていた。逆さまに字を書い
		たりしていたが、中国では人間国宝にあたるような著名な書家だそうで、書いて貰った書に落款を押して販売していた。2万3万
		で買う人が何人かいたのには驚いた。他のHPで見た中国紀行記には、このおじさんとは違う人が「溥儀の甥っ子」として登場し
		ていたが、深く詮索するのはやめとこう。



 

出口近くにある御花園には、大石の奇岩がある。そして故宮の一番北の門である神武門をくぐって出口へ向かう。

 


		紫禁城にはとにかく圧倒される。あるいは飽きてくると言ってもいい。次から次に門が現れ、幾重にも重なり、その背後にどでか
		い建物がある。ここは公務室、ここは後宮と説明されても、もうどこがどこやらわからなくなってくるのだ。同じような門に同じ
		ような建物。その一つ一つに細かな彫り物の装飾が施され、石段さえも見事な装飾で覆われている。気が遠くなるような作業だ。
		これでは、当時ここに住んでいた連中でも迷ったのではないかと思わせるような広さである。



		【明・清代主要年表】

		1368 朱元璋(洪武帝)が明を建国
		1399 靖難の変(〜1402)
		1402 永楽帝即位
		1404 日本との勘合貿易開始
		1405 鄭和の南海遠征(〜33)
		1421 北京に遷都 紫禁城を造営・万里の長城を修復
		1631 李自成の乱(〜45)
		1636 国号を清に改称
		1644 李自成が北京占領、崇禎帝が自殺し明朝滅びる 清、北京に遷都 辮髪令発布
		1661 康熙帝即位
		1689 ロシアとネルチンスク条約締結
		1709 円明園造営始まる
		1722 雍正帝即位
		1735 乾隆帝即位
		1782 「四庫全書」完成
		1840 アヘン戦争(〜42)
		1842 南京条約
		1851 太平天国の乱(〜64)
		1856 アロー号事件(〜60アロー戦争)
		1860 英仏と第2次アヘン戦争 英仏軍北京に入り、円明園を焼き払う 北京条約締結
		1884 清仏戦争(〜85)
		1887 西太后摂政をやめ、光緒帝の親政始まる
		1894 日清戦争
		1895 下関条約成立
		1898 戊戌の政変
		1899 義和団事件ぼっ発(〜1901)
		1900 八国連合軍、北京に入る。西太后と光緒帝西安へ待避。その際、珍妃をあやめる
		1901 北京議定書
		1908 光緒帝、西太后死去 宣統帝即位
		1911 辛亥革命
		1912 中華民国成立  宣統帝退位し、清朝滅びる  (中国観光公司)


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