Music: think
遙かなる北京 頤和園 2003年2月14日
			【頤和園(いわえん)- The Summer Palace - 西太后の離宮 】

			1998年世界文化遺産に登録された、中国に現存する最大の王室公園。北京市の中心から西北へ15km離れた
			海淀区にあり、1750年に築造が開始され1764年に完成したが、八ヶ国聯軍の災禍など三度に渡って破壊
			の憂き目にあった。二度の修復を経て現在の姿をとどめている。古代中国の皇室園林建築の代表作で、昆明湖と
			背後の万寿山(景山)が一帯となった、巨大な別荘 (面積 : 290.8ha) である。昆明湖を掘った土を盛り上げ万
			寿山を築いたというから、全く持って中国人のバイタリティ−には驚かされる。今回の旅全般を通じて感じた事
			は、中国人の大きさに対する執着である。どうしてここまで大きく作る必要があるのか、という建造物・建物に
			何度もお目に掛かった。歩いていってもやがては海にぶち当たる島国で生まれ育ち、チマチマした箱庭や枯山水
			の中に大いなる自然を発見しようとつとめる日本人と、広大で茫漠とした大平原に生まれ育った民族の違いを嫌
			と言うほど見せつけられた。


 

			頤和園は、皇帝の行宮として設けられて以来すでに800年の歴史があり、遼・金時代は王室の遊楽地であり、明・
			清時期に帝王の御苑となった。1888年、アヘン戦争で破壊されていたものを、清朝の慈禧皇太后(西太后)
			が3000万両の白銀で再建し「頤和園」と言う今の名称に改めた。一説では、西太后は清国海軍の軍費を流用し
			たとされ、その為日清戦争に敗北したという話も残っている。


			頤和園は万寿山と昆明湖からなり、すべての建築が山と湖の形に基本づいて巧みに配置され、借景・造景の技法
			も採用され変化に富んだ景色になっている。現在は全体が公園となっているが、昆明湖が公園全体の総面積の約
			4分の3を占めている。主体となる昆明湖と、長さ700mにおよぶ「長廊」は、漢白玉石の欄干で連がった千姿
			万態の建築物と共に美しい風景をつくり上げている。また長廊の天井・欄干には、様々な中国の故事に基づく絵
			が描かれていて(西遊記 (孫悟空 ・三蔵法師 )、 三国志(関羽・劉備・張飛・諸葛亮孔明・曹操) 、楊貴妃、
			項羽・劉邦など)、色鮮やかな絵物語を構成している。背景となる西山の頂はちょうど北京市を貫く中軸線にあ
			るため、市街を眺めるにはもってこいの場所とされている。他に、仏香閣、仁寿堂、十七孔橋、諧趣園、蘇州街、
			石坊などの見所がある。
			文革期に頤和園は、「人民公園」と改称されていたそうだ。門上部中央にかかる、光緒帝直筆と言う「頤和園」
			という文字は、当時は「人民公園」となっていたらしい。
 

<仁寿殿> とその前の <麒麟(上右)>

			<昆明湖>
			乾隆帝が漢の武帝の故事に倣って拡大工事をした。清王朝は康煕・雍正・乾隆の、3代約130年間に渡って安定
			した国力を保っていたため、このような大規模な築造が可能だったと言われる。毘明湖には氷が張っていた。その
			上にチラホラ人影が見える。
 

<白く凍っている昆明湖>

 



<背後に見える山は、万寿山>







<知春亭>

 



			<仏香閣>
			頂上の塔が仏香閣。この塔は頤和園のシンボルであり、堂々たる姿は見る者を圧倒する。八角形の建物で内部の本
			尊は千手観音。昆明湖から眺める仏香閣は頤和園の景観の中でも絶景らしい。今回はここまでは登らなかった。


<頤和園の正門、東宮門> <東宮門の前の獅子>

			<長廊>
			この廊下は全長728mにわたって、天井や壁、柱、梁などに絵が描いてある。絵は三国志や西遊記などの故事や、
			風景画や歴史、神話、古典文学などに題をとったものが多いが、中国の知識が豊富な人はより楽しめる事だろう。
			日本の寺社建築物と違い、色合いがカラフルで、この点は韓国と似た特徴である。日本はどうしてああ地味なのだ
			ろうか。廊下の梁に描かれた8000もの絵画は世界的にも有名で、前後左右に連なる無数のギャラリーである。
			文革時代、紅衛兵が長廊を反動期のものだとして絵を破壊しようとしたらしいが、周恩来が、紅衛兵達に同調する
			ふりをして絵を白い塗料で塗りつぶし、その後、4人組失脚後その塗料を落して長廊を守ったが、中には判別困難
			となったものもあったと言う。


 



 



			<清晏舫(石舫)>
			乾隆帝の時代に造られ、後に欧米列強の侵略にあった際に破壊された物を西太后が再建した。そのときに現在の西
			洋風の石船になった。元々は絶対に沈まない石の船を造ることにより「水覆すを能わず」、この船のように清王朝
			の政権も覆ることはないという政治的な意味を含んでいた。近年、先端部の岩の上から少年が湖に落ちて死亡し、
			以後船の中は立ち入り禁止になったそうだが、凍った水面を歩いて船に上がっている中国人が大勢いた。

邪馬台国大研究ホームページ / 遙かなる北京 / 頤和園